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『白い結婚』の旦那様と紡ぐ、最後の1か月【完結】  作者: 甘夏 みみ子


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23.あの日の自分に手を差し出すということ

 


 アルフォンスが、何も言えずにいた時だった。扉が開いて、セシリアの父が入ってくる。恰幅の良い彼は、アルフォンスの姿を見るとにっこりと微笑んだ。

 

「ああ、アルフォンス君。ここにいたのか!」

「アルフォンス君……?」

 

 この両親は、裏で自分のことを君付けで呼んでいたのだろうか、と思う。アルフォンスの困惑に気が付いたセシリアの父は「がはは」と笑った。そして、何かがツボに入ったのか、延々と笑い続けている。

 

「……実は、あんまり堅苦しいのに慣れてなくてなぁ。さっきは恰好つけただけなんだよ、あっはっは」

 

(なんだか、今日一日でセシリアの人格形成の過程がよく分かった気がする)

 

 聡明な母と明るい父、沢山の兄弟と気さくな領民たちに囲まれて育てば、おのずとセシリアという人間が出来上がるのだろうと思った。

 

「……不敬だったかい?」

 

 アルフォンスは首を振った。

 そんなことあろうはずもない。爵位が上だというのは『偉い』という訳ではなく、持っている役割が違うだけなのだから。

 アルフォンスは、自分の立ち位置をそのように考えていた。権力というものは、振りかざす長剣ではなく、ひっそりと忍ばせておく短剣のようなものだと、父がよく言っていたからだ。ただ、侮辱されたり、誰かを助ける時は遠慮なく抜いていと。

 

(……父さんのこと、久々に思い出した)


「いやあ、良かった、良かった。アルフォンス君が家族になってくれて!」

「ふふ、そうねぇ」

 

(……なんだろう、今、少しだけ)

 

 胸がズキリと痛んだ。今日は何だかおかしい、とアルフォンスは思う。妙に、あの日のことを思い出してしまう。朝から馬車に揺られて疲れてしまったのかもしれない。

 

 アルフォンスは考え込んだ。

 天涯孤独になってしまった日までは、彼は何も変わらない日常を送っていたはずなのに。いつからか、家族のことを思い出しても何も思わなくなっていた。それなのに。

 

(悲しい、と思ってしまった)

 

 自分の感情なのに、分からないことばかりだ、とアルフォンスは思う。もしかしたら、今までずっと自分の感情に無頓着だったのかもしれない。


 いや、感情だけではない。アルフォンスは、自分自身に興味が無かった。食事も睡眠も、自分に関することすべてがどうでもよくなっていた。

 それが、彼女と出会ってから──

 

「……アルフォンス様!」

 

 視界で、淡い水色の髪が揺れる。セシリアが心配そうにアルフォンスを覗き込んでいた。彼女が視界に映るだけで、ぱっとアルフォンスの見る景色が明るくなった。

 

「何度か呼んだんですよ」

「あぁ、すまない。考え事をしていた」

「一人だけ立ったままだから、具合が悪いのかと思いましたよ」

 

 随分と考え込んでしまっていたらしい。

 いつの間にか、食事の準備は終わっており、テーブルにはビーフシチューが並んでいた。


 セシリアに促されるまま、アルフォンスは、長テーブルの椅子に腰かけた。木でできた、少し硬い座面が、意外にもしっくりと落ち着いた。


 アルフォンスの着席とともに『いただきます』が響いた。自分のせいで、待たせてしまっただろうか、と少し申し訳ない気持ちになる。

 

(……こんなに大人数で食卓を囲むのは、いつぶりだろうか)

 

 一口、ビーフシチューを口に運ぶ。柔らかく煮込まれた牛肉がほろほろと崩れ、トマトの酸味とその他の野菜の甘味が口いっぱいに広がっていく。


 それは、セシリアと食べた味と同じものであるはずなのに。

 

「……アルフォンスにいちゃん、美味しい?」

「こら、ヨハンナ、落ち着きなさい、全く」

「これは、美味しいだろう、なあ、アルフォンス君!」

 

 聞こえる声が、響くカトラリーの音が、自分を見つめる瞳の数が違うだけで、こんなにも感じ方は変わってくるのか。

 

 唐突に、アルフォンスの中で何かがぱちん、と弾けた音がした。

 

(……俺は)

 


 アルフォンスの目の前には、がやがやとした食卓が広がって見えた。お祝いでも、何でもないただの日常の風景だった。


 真っ白なテーブルクロスのかかった長テーブルには、少し怒った顔の女性と、すらりとした中年男性、そしてこちらをみて微笑む青年の姿があった。

 

『アルフォンス、ほら落ち着きなさい……全く』

『やっぱり、ビーフシチューは美味いなぁ!なあ、アルフォンス!』

『俺の肉、一個やるぞ、アルフォンス』


 皆、自分の名前呼んで笑っている。その時に、自分はなんて返しただろうか。


 アルフォンスは忘れてしまっていた。ずっと底に埋まっていた記憶から、出てきた自分の言葉が──



  『やっぱり、僕、皆で食べるご飯が大好き!』

 


 ──こんなに明るかったなんて。


(ああ、どうして、俺は……)

 

 アルフォンスの瞳から、涙が零れた。

 それは、ぽつり、ぽつりとビーフシチューの中に落ちていく。肩が震え、上手くスプーンを持つことができない。


 やがて、スプーンはカランという音を立ててテーブルの上に落ちてしまった。

 

「……アルフォンス様?」

 

 セシリアの声が届くけれども、アルフォンスは返事をすることができなかった。喉が詰まり、上手く声が出ない。かすれた声で、アルフォンスは言葉を紡ぐ。

 

「どうして……」

 

 どうして、あの日、自分だけが助かってしまったのか。そんな後悔はもう飽きるほどしたし、今更自分を責め立てる気もない。けれども、この温かい場所にいると、零れる涙に溺れてしまいそうになる。

 

(いいんだろうか、ここに居ても)

 

 セシリアという人間は、太陽の下を堂々と歩くことができる人間で、いや、むしろ彼女自身が太陽で。周りを照らしているというのに。


 本当に、自分はセシリアと結ばれていいのだろうか。今更、そんなことを思ってしまう。

 

 だって、幸せになる資格なんて、自分にはきっと───

 

「いいんですよ、アルフォンス様は幸せになって! 今の貴方も……貴方の中にいる14歳の貴方も!」

 

 その言葉に、アルフォンスは顔を上げた。

 


 14歳の時、アルフォンスは家族の葬儀で喪主を務めた。突然のことだったのに、悲しくなかった。葬儀では、全く泣けなかった。


 だから、きっと自分は冷たい人間だと思ったし、周囲もそう思っただろう。だから、『アルフォンスが家族を殺して当主になった』なんて噂も広まったのだ。

 

 けれど、違うのかもしれない、とアルフォンスは思った。


 泣かなかったのではなくて、泣けなかっただけなのかもしれない。

 

 アルフォンスは、自分の心に問いかける。


 いつから、自分は自分の心に蓋をしてしまっていたのだろうか。いつから、この苦しさに気が付かないふりをしていたのだろうか。いつから、自分の中の時間が止まってしまっていたのだろうか。


(……ああ、14歳の『僕』は、ずっと、そこで泣いていたんだな)

 

 心の隅で、うずくまって泣いている少年がいた。狭くて寒いそこに、たった1人で待っていたのだろう。

 大人になるために、全力で走って、走って、遠くに置いてきてしまっていた。


 ずっと、『僕』は待っていたのだ。大人のアルフォンスが迎えに来るのを。

 

「1人じゃないですよ。もう」

 

 隣から伸びてきた手に優しく包み込まれる。アルフォンスの手よりもずっと小さいはずなのに、今日だけはアルフォンスの手を包み込んでしまうほど大きい気がした。


 まるで、日向ぼっこをしているかのように、ぽかぽかと心まで温かくなっていく。

 

「私が、14歳の貴方ごと全部抱きしめてあげる。だから」

 

  セシリアは、ぎゅっと手に込める力を強める。彼女の瞳の色が、少しだけ濃くなった気がする。


 

「──だから、家族になろう? アルフォンス様」

 


 ぶわり、と再び涙が溢れた。


 その言葉だけで、今までの『幸せになっていいのだろうか』という悩みは簡単に溶けていった。溶けたそれは、アルフォンスの涙となって零れ落ちていく。

 

「……えっ、アルフォンス様。ご、ごめんなさい。泣かせるつもりじゃ! あの、これは泣き止んでもらうためだったんです……!」

 

 おろおろと弁明を始めるセシリアに思わず、ふっと笑ってしまう。


 他人の心を変えるのは難しい。騎士団長であり公爵家当主のアルフォンスには、それはよく分かっていた。


 それでも、彼女の言葉ひとつで、こんなにも自分が変わってしまうのだから、きっと、一生、セシリアに敵うことはないのだろうと思う。

 

「お前に、プロポーズの言葉を取られてしまった」

「あぁ……っ! 私、なんてことを……っ」

 

 茶化すために言ったその言葉に、セシリアは頭を抱えていた。

 そうして『昔はなんだかかんだ、薔薇の花束とダイヤモンドの指輪を差し出されるベタベタなプロポーズに憧れてたはずなのに……ああ、私ったら……』なんて、ブツブツと呟いている。


 そんな彼女の姿を見ていると、零れていた涙もいつの間にか止まっていた。

 

 セシリアの両親はというと、じっとアルフォンスのことを見つめていた。アルフォンスと目が合うと、まるで本当の両親かのようににっこりと微笑む。

 

「大丈夫、アルフォンス君は、独りじゃない。私たちの家族だ」

「そうよ、いつでも帰ってきなさい。貴方だって、私たちの息子だもの」


 アルフォンスは、言葉の代わりに深く頷いた。もう独りではないのだと、心からそう思えた。


(……今まで、ごめん。14歳の『僕』)

 

 アルフォンスは、14歳の自分に手を差し出した。もう、大丈夫だよ、と今の自分なら言える気がしたから。



 14歳の自分がやっと、顔を上げて笑った気がした。





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