22.この国でいちばんの権力者
田舎というのは、1日が長すぎやしないか、とアルフォンスは思っていた。
今朝、宿を発ってグロッキーになりながら、ウィンターズ邸に着いたのが午前中。昼から、領地を散歩し、先ほどセシリアとヴィルヘルムを仲直りさせ、キャロットスープを飲んだ。
それなのに、まだ日は暮れていない。ウィンターズ家の庭で、アルフォンスは青白い顔をしていた。
「アルフォンス、もう1回あそぼう!」
「アルフォンスにいちゃん!」
「……な、なんなんだ、お前らは! まだやるのか、これ!」
まとわりつく子どもたちを1人ずつ高く持ち上げては、アルフォンスはぜーぜーと息を吐いた。
セシリアの1番下の妹と弟である。
アルフォンスは、かれこれ、この『たかいたかい』を20回以上もやっている。というのに、彼らはまだ飽きることがないらしい。彼らが飽きるよりも先に、日が暮れてしまうんじゃなかろうか。
「アルフォンス、稽古してよ!」
「いいや、兄さん、アルフォンス様は僕と本を読むんです!」
「うるさいわね! アルフォンスお兄様は、私と編み物をするんです!」
アルフォンスは、ぎゅうぎゅうと押し寄せる他の兄弟たちに押しつぶされそうになっていた。6人にもみくちゃにされながら、アルフォンスは叫ぶ。
「ああ、もう! お前ら! わかった、わかったから!」
(体力はあるはずなのに疲れる……明らかに、体力とは違う何かが削がれていっている……)
アルフォンスは、心からセシリアを尊敬した。決して子どもが嫌いなわけではないが、こんなことを毎日やっていたら、死んでしまう。
「アルフォンスお兄様ぁ、俺とも遊んでぇ」
きゃっきゃとした声の中に、低い声が混じる。アルフォンスは、声の主のことをじっと睨みつけた。
「ヴィルヘルム、お前は俺より年上だろうが!」
「へーへー」
黒檀のような黒髪にセシリアと同じ水色の目の義理の弟は、面倒そうに手をひらひらとさせた。
ふと、ヴィルヘルムの頭を見ると、ぽっこりと膨れ上がっており、上からガーゼが貼られていた。痛々しい怪我である。心なしか、ヴィルヘルムの威勢もさっきより落ち着いた気がする。
「お前、頭でもぶつけたのか?」
「…………」
ヴィルヘルムは、罰が悪そうに目線を逸らした。そして、消え入りそうな声で呟く。
「さすがに、こってり絞られたわ……」
頭を押さえながら、そう言ったヴィルヘルムをアルフォンスは気の毒そうに見つめた。
アルフォンスは、先ほどまでの彼の不遜な物言いは全く気にしていないのだが、伯爵としては気が気じゃないのだろう。
恰幅の良いセシリアの父を思い出し、アルフォンスは苦笑いした。
「げんこつでも食らったのか? 確かに、ウィンターズ伯爵は力が強そうだもんな」
「父親じゃねぇよ、もう、思い出したくもない……」
(父親じゃない? 他にヴィルヘルムを怒るような人間、誰かいたっけな……?)
アルフォンスは、疑問に思ったものの、それ以上追求することができなかった。
言葉にするたびに何かを思い出しているのか、ヴィルヘルムの顔は段々とげっそりしていたからである。
「あ、ヴィルにい! 遊んで!」
先ほどまでアルフォンスが遊んでいた、末の妹と弟がヴィルヘルムに抱き着いた。げっそりとしていたヴィルヘルムの顔は、ぱあと花が咲いたように一気に明るくなった。
「アルフォンス、こいつらと遊んでくれてたんだな、ありがと。疲れただろ、ちょっと休んでろよ」
そう言ったヴィルヘルムの顔は、生意気な弟ではなく、兄の顔だった。
「おい、お前ら俺が遊んでやるから、行くぞ!」
ヴィルヘルムは、2人の子どもを両腕にぶら下げて、兄弟たちを引き連れて駆けていく。きゃっきゃとした声が夕暮れ時の庭に響いた。
こってり絞られた後に、よくあんな体力、否、気力が湧いてくるものだと感心する。
アルフォンスは、その光景をじっと見つめていた。
(いいなあ)
ウィンターズ領に来てから、アルフォンスは『家族』が常に目に入るようになった。
(……俺も)
目を閉じる。
思い浮かぶのは、家族を亡くした時のことだった。
別荘でアルフォンスが目覚めた時には、既に騎士団と警吏が駆け付けていて、両親も兄もすでにいなかった。14歳の彼が見るにはあまりに凄惨だからと、遺体は別で処理されることになった。空っぽの棺桶に対して、悲しみは湧いてこなかった。
思い出せるのは、それくらいだ。
アルフォンスにとって、家族との思い出は、ただの記号だった。思い出したところで、嬉しさも悲しさも感じない。ただの、記録。
そんなことを言えば、家族思いのセシリアは幻滅してしまうだろうか。
(愛されて、いたはずなのにな)
ぼうっと、再びウィンターズ兄弟たちを眺める。アルフォンスの心は、なぜか少し痛んだ。
◇
やっと日が暮れ、アルフォンスは夕食のために食堂にいた。
「アルフォンス様がやってきたお祝いで、今日はビーフシチューだそうです」
「伯爵夫人が作られたのか?」
「いえ、母は料理がからっきし駄目なので、お手伝いさんに作ってもらいました」
「そうなのよぉ、私、料理も裁縫も駄目でねぇ……」とセシリアの母はころころと笑う。その顔は、隣にいるセシリアに瓜二つである。
「おい、姉貴! 準備手伝え!」
「はーい! じゃあ、アルフォンス様、夕食の準備してきますので、ごゆっくり!」
セシリアは、ヴィルヘルムに呼ばれてバタバタと食堂から出ていく。アルフォンスは、セシリアの母、エルゼと2人きりになってしまった。
「疲れたでしょう?」
「……ええ、少し」
今日のことを思い返してみれば、とても1日だとは思えない濃さだった。少しどころではない。アルフォンスとしては、1週間ほど滞在した気分である。
エルゼは、眉を下げてアルフォンスを見つめた。
「本当にごめんなさいね。さっきは。うちの躾のなってない大型犬が」
「いえ、お気になさらず」
それについては、アルフォンスは全く気にしていなかった。ヴィルヘルムは、どこか自分に似ている部分があったからだ。彼が姉を心配する気持ちは痛いほどわかる。
優しいふわふわとした声がアルフォンスに届く。
「……あの駄犬には、きちんと躾し直しておいたから。また何かあったら遠慮なく教えてちょうだいね?」
エルゼの口元は弧を描いていたが、目の中に光が無い気がした。
敵と命を懸けた戦いをしたこともあるアルフォンスにはわかる。彼女の目には、殺気に近いものが宿っていると。
アルフォンスの中に一抹の考えがよぎる。
(まさか、ヴィルヘルムのたんこぶは、母上が? いや、まさかな……)
エルゼの腕はセシリアよりも細い。アルフォンスが握れば、すぐに折れてしまいそうだ。あんなガーゼの外側から分かるほど腫れるようなゲンコツを繰り出せるはずもない。
それなのに、アルフォンスは、なぜか背中に寒気が走った。なせか、彼女だけは絶対に怒らせてはならない気がした。
「ああ、それとね。貴方がセシリアちゃんと『白い結婚』をした時の報酬金なるものだけど、お返ししておきました。帰ったら、執事さんに聞いてみてね」
「……えっ」
さらり、と衝撃的なことを言われた気がする。彼女は今、報酬金を返したと言っただろうか。グレイブ家に。
アルフォンスは、口を開けたままセシリアの母を見つめた。水色の瞳が細められる。
「あんな大金、うちは受け取れないわぁ」
「いえ、でも、これは、もともと『白い結婚』という契約で……」
「うん、そうね。でも、2人は本当に結婚しちゃったんだもの。……契約は無効になったってことでしょう?」
すべてを見通すような瞳で、エルゼはアルフォンスを見つめた。
つまり、伯爵家は最初から、報酬金には手を付けていなかったということだ。
道が舗装されていなかったのも、伯爵家がボロボロのままだったのも、アルフォンスの報酬金を使っていなかったからである。アルフォンスは納得がいった。
そして急に怖くなってくる。
(どこまで分かっていたんだ。この人は……)
「あら。私だって、こんなことになるなんて思ってもなかったわよ。もし、本当に離婚していたら、ありがたく報酬金を使わせていただくところだったわ。だから持参金と相殺ってことにしておいてちょうだい」
「しかし……」
報酬金の額は、持参金の相場を大幅に上回るものである。それに、1年間セシリアをグレイブ家に縛り付けていたのは事実だ。
アルフォンスの心を読むかのように、答えた彼女はにっこりと笑う。
「──……だって、グレイブ公爵家に助けていただくのは、ウィンターズ伯爵家が、もっとピンチになった時がいいもの」
(……ああ)
完全に参った、とアルフォンスは思った。
貴族として歩んできた経験値が、あまりに自分と違い過ぎる。力の使い方や、恩の売り方、自分の立場を良くわかった上で、彼女は最善の振る舞いをしている。
アルフォンスは、当然、妻の実家であるウィンターズ伯爵家がピンチになれば助けるつもりでいた。しかし、エルゼが言っているのは、そうではないのだ。
エルゼはアルフォンス個人ではなく、グレイブ家に恩を売った。グレイブ家の手綱の一部は、ウィンターズ伯爵家に渡ってしまった。
「これからよろしくね、アルフォンス君」
アルフォンスは、なんで『君付け』なんだ、なんて突っ込むことすらできなかった。
明らかに自分が敵わない相手と対峙した時、人間はこういう感情を抱くのだとアルフォンスは知った。
尊敬と恐怖をちょうど半分ずつ混ぜたような気持ちだ。人間が神に感じる、畏怖の感情に似ている気もする。
(ウィンターズ家、いや、この国で一番の権力者って、この人だったりして)
きっと自分の顔はひきつっているだろうな、とアルフォンスは思った。
ただただ、年齢不詳のエルゼを苦笑いで見つめることしかできなかった。




