15.恋の女神様は、女の子に優しい
晴れた午後の昼下がり。
ウィンターズ伯爵家の居間で、セシリアは寝ころびながら、編み物をしていた。別に趣味なわけではない。何かしていないと落ち着かないのだ。かと言って、頭を使うことをする気もおきなかった。
アルフォンスと別れてから、半年が経った。
田舎の領地に帰ったセシリアを責め立てる者はいなかった。彼女は、自由の身だった。
朝起きてご飯を食べ、昼は領地の見回りをし、夜は早めに帰って寝た。代り映えもしない、田舎のルーティンだ。
当主にならないセシリアには、難しい勉強も必要ない。
『お前はもったいないな。頭が良いのに。学校には通わないのか?』
アルフォンスの言葉を思い出し、どきりと、セシリアの心臓が跳ねる。もしも、セシリアが勉強したいと言えば、優しい両親は許してくれるだろう。
でも、セシリアはもう王都には戻りたくなかった。後ろ指をさされるのが怖かった。そんなこと理解していたはずなのに。
(違う。後ろ指をさされることなんてどうでもいい。私は……)
セシリアは瞳を閉じる。
そして、ああ、駄目だ、と思った。
瞼の裏には、アルフォンスの顔しか浮かんでこない。
王都に行けば、嫌でも彼の情報が耳に入る。きっと、会いたいと思ってしまう。
せっかく綺麗にラッピングした自分の気持ちが開いてしまう。ぐしゃぐしゃになった包装紙では、もう気持ちを包むことはできない。
せわしなく手を動かす。
がちゃがちゃとかぎ針同士がぶつかって音を立てる。針が毛糸に絡まって、ぎこちなく進むたびに、時折大きな結び目ができたり、目が飛んだりするが、彼女は気に留める様子もなく、ひたすらに編み続けた。
「元気がないわねぇ、セシリアちゃん」
「うん……大丈夫、ごめんね」
声をかけてきたのは、母であるエルゼである。
セシリアによく似た水色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。彼女は、セシリアの姉であると言われても信じてしまうほど、若々しい。
確か、今年で42になるんじゃなかったかと思うが、歳を聞いたら怒られてしまうので、セシリアは口を噤んだ。
母が座っているテーブルに置いてあったクッキーは、1つも無くなってしまっていた。ふと時計をみれば、編み物を始めてから2時間以上経っていた。
(どれだけ考え事をしていたんだろう、私……)
手の中に抱えられた不格好な毛糸の塊を見て、セシリアは溜息をついた。自分は何を作ろうと思っていたのだろうか。2時間前の記憶でさえ曖昧である。
だって、ずっとアルフォンスのことしか考えていなかったのだから。
もう、半年以上経つというのに、彼のことが忘れられないなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
たった1か月、一緒に過ごしただけだというのに。
自分がこんなにも、恋に溺れる愚かな人間だとは知らなかった。
(私と彼とでは、住む世界が違うというのに)
『元気で……セシリア』
少しかすれた、その声を思い出すだけで、胸が苦しくなる。
もう少しの辛抱だ。きっと時間が解決してくれる。
アルフォンスだって、まだ若い。離婚して相手が言い寄り辛くなったからといって、彼が生涯独身を貫く保証はない。
王都制定記念祭のパレード時に、どこかの令嬢が言っていた言葉を思い出す。彼が離婚するのを待っている人間は山ほどいる。
アルフォンス自身が恋に落ちて、誰かに求婚することがあれば、きっと公爵家と彼の美貌で、相手は二つ返事で頷くだろう。
(アルフォンス様と、結婚する人は、きっと素敵な人なんだろうな)
彼だって相応しい人と、出会って、結婚して、それで、きっとその話もセシリアの耳に入ってきて。それで。
(胸が、苦しい)
ぐるぐると、セシリアの頭の中は、絡まった毛糸みたいに思考が入り乱れていく。
「セシリア様!」
セシリアの思考の毛糸をぷちん、と切ったのは、使用人であるリーナの声だった。居間に、ばたばた慌てた様子で入ってきたため、何事かと顔を上げた。
リーナはもう70歳近く、腰が痛いとぼやいているのにも関わらず、その足は驚くほど速かった。
「グ、グレイブ公爵様からお手紙です」
「こ、公爵様から?」
セシリアは、手渡された封筒をまじまじと見つめた。
封蝋には、確かに公爵家の家紋が刻まれている。
セシリアは彼が手紙を出す性格だとは思えなかった。となると、書いてあるのは、良いことには思えない。
(まさか、病気……いや、事故……、いや、もしかして……!)
嫌な予感が、セシリアの胸をよぎった。彼は、騎士だ。強いとはいえ、その身に何が起こるかはわからない。
レターカッターも用意せず、母が使っていなかった食事用ナイフで、慌てて封筒を切り、震える手で便箋を開いた。
『セシリア・ウィンターズ嬢へ
両親と兄の命日に、ビーフシチューを作ろうかと思っているのだが、上手くできない。アドバイスが欲しい。 アルフォンス・グレイブ』
手紙はそれで終わっていた。裏面をひっくり返してみるが、飾り気のない便箋に書かれていたのは、本当にそれだけだった。
セシリアは呆れて、膝の力が抜けた。絨毯の上でセシリアは、がっくりと項垂れる。
(……良かった、無事で。いやいやいや、良くないよ、なんだこの手紙!)
心配から一転して、セシリアは腹が立ってきた。
まさか、そんな理由で田舎にいる伯爵令嬢を呼び出すのか、とセシリアは便箋を投げ出したくなった。
だが、実際にはそうしなかった。セシリアは、大事なものを触るかのように、ゆっくりと便箋を指で撫でた。彼女の心臓はどきどきと激しく鼓動を刻んでいる。
筆圧も、文字の癖も、すべて彼のものだ。
また、彼に会える。嬉しい。そう言った気持ちが無いわけではない。でも、王都に出向けば、セシリアは。
(ただ、ビーフシチューを作って帰ってくるだなんて。都合のいい女も過ぎるじゃない……!)
彼女は考えた。
そうだ、彼は『アドバイスが欲しい』と言っているだけである。直接出向け、なんてどこにも書いていない。
ただ、手紙を書いて返せばいい。ただ、それだけなのだ。
そうして、彼と彼女の関係は、きっと本当に終わりを迎える。
(それでいい。それがいい。……そうしよう)
どうせ叶わない恋なんて夢見る方が愚かなのだ。そうと決まれば、話は早い。失礼にならないように、早めに返信を出そう。セシリアは自室に戻るため、居間を出ようとする。
「セシリア」
鈴の鳴るような声で、彼女呼び止めたのは、母エルゼだった。
彼女は、セシリアのことを『セシリアちゃん』と呼ぶ。呼び捨てにするときは、怒るときか大切なことを告げるときだけであった。
だから、セシリアは驚いて、彼女の方を見る。セシリアと同じ、薄水色の瞳がゆっくりと瞬いた。
「恋の女神様はね、意外と女の子に優しいのよ」
一言だけ、そう告げた。
セシリアの心が決まるのは、もう、それだけで、十分だった。
「あの」
「なあに、セシリアちゃん」
エルゼは、ふんわりと花のように微笑む。相変わらずの美貌だ。
姉だと言っても、周りの人間は信じ込むだろう。けれど、彼女は姉なんかではない。セシリアより、ずっと長く生きている人生の先輩であり──
「お母さま」
「あらあら、改まってどうしたの?」
口から息が漏れる。セシリアは人に何か『お願い』をするのが苦手だった。自分の願望よりも、申し訳ないという気持ちの方が勝ってしまうからだ。
でも。こればかりは。どうしても。
「……馬車の手配をお願いしたいのですが。後は、王都への滞在を許可いただきたく」
「ふふ、セシリアちゃんのわがままを聞くなんて何年振りかしら」
彼女はそう言って、くすくすと笑う。まるで、セシリアが最初からそう言うと分かっていたかのようだった。
「行ってらっしゃいセシリアちゃん。あなたはもっと、欲深くなっていいのよ」
ああ、もう。この恋が叶うとか、叶わないとかどうでもいい。
セシリアは、ただ、アルフォンス・グレイブに会いたかった。
本日19:00頃に前編の最終話投稿いたします。
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