13.お別れのビーフシチュー
深夜でもなければ、夜でもない。まだ、ピカピカに陽が差している午前10時。
せっせとビーフシチューを作ったセシリアは、それを皿に盛り、パンを付け合わせる。
料理長のシュミットが休みで助かった、とセシリアは思った。彼がいたら、ハイテンションな指南が入ったことだろう。
(本当は、シュミットさんにも最後の挨拶をして帰りたかったけれど)
今日が、『白い結婚』を成立させ、セシリアとアルフォンスが離婚する契約最終日である。
使用人たちには、昨日のうちに別れの挨拶を済ませておいた。メイドのマリーなんてあまりに泣きじゃくるものだから、少し困ってしまった。
使用人たちとも仲良くしすぎてしまっただろうか、とセシリアは寂しい気持ちになる。長居すると泣いてしまいそうになるので、早く王都を発ったほうが良さそうだ。
セシリアは皿を持つと、台所を後にした。
「今日は、ビーフシチューにしてみました!」
食堂で食べようかと思ったが、やっぱりいつものように居間に彼はいた。南向きの大きな窓が付いているため、朝は優しい光が差し込んで明るい。
「ビーフシチューなら、普通に食べたことがある。他の田舎料理は無かったのか」
アルフォンスは、不満げにそう呟いた。
「田舎は異国でもなんでもないんですが……」
「朝からビーフシチューか。まあ、いいが」
「頑張って作ったんですよ!」
「はいはい、悪かった」
確かに、朝からビーフシチューは考え物だったかもしれない。セシリアは後悔したが、作ってしまったものは仕方ない。
「我が家では、お祝いの時は、ビーフシチューって決まっているんです! さあ、どうぞ」
セシリアも彼の向かいに腰掛ける。
そして、アルフォンスの一口目をじっと見つめる。スプーンが、形のいい唇の中に吸い込まれていく。
「……美味い」
ふわり、とアルフォンスは笑う。彼がこんな風に笑うなんて、1か月前の自分に言っても信じやしないだろう。
「うちの両親はビーフシチューが好きだった。兄もだ」
「じゃあ、思い出の味ですね」
「ふ、そうだな」
ご機嫌なアルフォンスに、セシリアは、一冊のノートを差し出した。昨日、思い立って慌てて作ったものである。
「レシピはですね、このノートにばっちり残してます」
「俺に作れると思うのか」
「料理の可能性は万人に開かれてますから!」
えっへん、と自信ありげに笑えば、アルフォンスは受け取ったノートを大切そうに撫でた。
まあ、料理長……はこだわりが強そうだから、マリーあたりに頼んで作ってもらうのがいいかもしれない。
アルフォンスが作るなら、それもそれで面白そうだが。
「そういや、さっき、『お祝い』と言ったか?」
「そうです。ビーフシチューはお祝い事の時に食べるんですよ?」
「これは、祝い事か?」
机をとん、と叩いたアルフォンスは、苦い顔をして言った。確かに、名残惜しいような気持ちが無いと言えば嘘になる。けれど。
「え、お祝いじゃないんですか。邪魔者が出ていくんですよ。祝、契約満了日!でしょう」
「…………」
呆れた、という顔である。
息を絞り出すような溜息をついた彼だが、セシリアの胸元をジッと見つめ、彼の顔色が変わった。
人を問い詰める時のように、急に彼の表情が厳しくなる。
「その、ブローチ。ずっと付けているが」
「ああ、これですか? 先日の記念祭の時に買ったんですよ! 可愛いでしょう?」
しかし、アルフォンスの表情は依然として暗いままである。まさか、勝手に金を使ったと思われているのだろうか。
セシリアは慌てて弁明する。
「……こ、公爵家のお金では買ってないですからね! 人工エメラルドなので、安価なもので、私のお小遣いで買えるものですし」
「別にそんなことは心配していない。仮に本物のエメラルドを公爵家の金で買っていたとしても、俺は何も言わない」
(さすがに、本物のエメラルド買ってたら怒ってもいいと思う……)
アルフォンスは、「そうじゃなくて……」と言いながら一旦、口を閉じる。
そうして、唇を少し震わせながら、アルフォンスは言葉を噛みしめるように言う。
「なんで、それを、選んだんだ」
「うーん……1番綺麗だと思ったから?」
なぜ、と言われても答えるのが難しい。綺麗だと思ったから。何となく心惹かれたから。それ以上に相応しい回答が見つからない。
セシリアが首を傾げていると、アルフォンスが唇を動かし──
「お前は……いや、なんでもない」
──何か言いかけた口を閉じた。
そして、スプーンを持ち直し、大きめに切った牛肉を口に入れる。そして、咀嚼する。もぐもぐ。もぐもぐ、と。
この光景を見るのも最後かと思うと、セシリアの胸がちくりと痛んだ。
(あれ、どうして)
セシリアは、自分の胸元に手を当てる。彼と一緒に花火を見た時くらいからだろうか。いや、もっと前だったかもしれない。いつしか、セシリアの心の中には、憂鬱な気持ちがインクのようにぽとぽと、と落ちていた。
「どうした。お前は食べないのか?」
「い、いえ、いただきます」
セシリアは、良く煮えたニンジンを口に入れた。
ビーフシチューは確かに美味しいけれど、セシリアには味を感じる余裕が無かった。
そんなことよりも、目の前の男の一挙一動を目に焼き付けておきたいと思ってしまった。
美しい金の髪も、エメラルドのような瞳も、本当はぱっちりとしているのに切れ長に見えるその目の形も、すらりと整った鼻も、右側だけ上げる癖のあるその唇も。
全部、覚えておこうと思った。
だって、もう、彼とは一生会うことも無いのだろうから。
◇
ウィンターズ伯爵家の新しい馬車が停まっている。
白く塗られたそれは、元婚約者であったユリウスが良く乗っていた男爵家の馬車と同じ型である。つまり、かなり高価なものである。
セシリアは、車輪が取れかけているボロボロの馬車しか見たことがなかったため、いたく感動していた。
これも、ひとえにアルフォンスの資金援助のおかげである。
アルフォンスは、ご丁寧に門の外まで見送りに来てくれた。
「お前と顔を合わせる機会ももう無くなるのか」
「ええ、もう無いと思います」
来年からの夜会は、両親と18歳になる弟が出席することになる。だから、本当にこれが最後なのだ。
でも、もし、何かの間違いで会うことができたら。
(やめよう。旦那様は、私の名前すら覚えていないんだから。だって、ずっと『お前』呼びだった)
アルフォンスは、最後までセシリアの名前を呼ぶことはなかった。
彼は少しだけセシリアに心を開いてくれたけれど、それはどうせ切れる縁だったからに他ならない。結婚相手が誰だったとしても、彼にとってはどうでもいいことなのだ。
「公爵様、大変お世話になりました。ありがとうございました」
「ああ」
セシリアは、自分の旦那ではなく、グレイブ公爵に向かって優雅に一礼をする。スカートの裾を摘み上げ、右足を一歩引く。そして真っすぐと体を倒す。
しかし、彼女が顔を上げる直前だった。
セシリアの手首がぱしり、と掴まれる。
「待て」
「どうなさいましたか?」
「本当に、帰るのか」
「……忘れ物でもありました、っけ?」
セシリアが顔を上げる。そこには、グッと唇を強く噛んだアルフォンスがいた。強く噛み過ぎて、唇が切れそうだった。
セシリアは驚いて目を見開く。
(何、その、顔……)
「ごめん」
セシリアが動揺を言葉にする前に、アルフォンスはぱっと手を離した。
「……お前には、帰る場所があるもんな」
「はい」
「そうだな、そうだ。そうだった」
アルフォンスは、一人で納得したかのように頷いた。そして、真っすぐとセシリアの目を見て言った。
「元気でな……セシリア」
名前を。
アルフォンスはセシリアの名前を覚えていたのだ。
それは喜ばしいことなのに、セシリアは、なぜか苦しくてたまらない気持ちになった。
胸のあたりが、しくしくと切ない音を上げる。
「それでは失礼いたします。……アルフォンス様」
彼の名前を口に出したその瞬間、胸の中から溢れてくるものがあった。
彼女は礼もせず、彼に背を向けて馬車に乗り込んで扉を閉めた。慌てていた。
だって、彼から顔を見られてしまえば。
(……なんで、なんでなの)
セシリアの目からは、堰を切ったように涙が溢れだしていた。
細い針で何度も心臓を突き刺しているかのような痛みが、セシリアを襲う。
(どうして。別に、公爵様のことなんて)
浮かんでくるのは、アルフォンスと一緒に過ごした日々だった。
キッシュを全部食べてくれたあの日からずっとそうだ。
リゾットを差し出したことも。ポトフのイモに首を傾げていたことも。そして、切なそうにビーフシチューを食べた今日のことだって。
思い出すのは、全て最後の1か月のことばかりである。
からからと車輪が回る。馬車が速度を上げ、公爵邸は遠のいていく。
(良かったんだ。これで)
一刻も早く別れたいと思っていたはずなのに、もう、すぐにアルフォンスに会いたくて仕方がない。今すぐ馬車を下りて駆けだしたい。でも、それは叶わない。
(あまりに、遠い人だもの)
あまりに近くて。
近すぎて、セシリアは気が付かなかった。
アルフォンスは、星だ。
近くで見ると、ただの光にしか思えないのに、離れた途端、暗闇に浮かぶ、たったひとつの一等星になる。
手を伸ばそうとしても掴めない。地上にいる彼女からは、手が届かない。届かないからこそ一層輝いて見えるのかもしれない。
下を向いて、ボロボロと涙を零す。
潤んだ視界の向こう側に綺麗な深緑の──アルフォンスの瞳が見えた気がした。
それは、祭りの日にセシリアが一番綺麗だと思って買ったブローチだった。
(……ああ、気が付きたくなかったな。私は)
セシリアが、毎日のように夜食を作った理由も。アルフォンスを守りたいと思った理由も。彼の瞳にそっくりなブローチを無意識に手に取った理由も。
今、こんなに涙が零れている理由も。
(わかってる。でも、答えを出しちゃ駄目だ)
だから、セシリアはその気持ちに蓋をした。そして、丁寧にラッピングをして、可愛らしいリボンをかけた。
いつか思い出した時に、この1か月の日々が楽しかったと笑って言えるように。美しい思い出に変わってくれることを願って。
(さようなら、アルフォンス様)
セシリアがアルフォンス・グレイブに抱いていた感情は、紛れもなく恋になるはずのものだった。




