春待ちの日 2
「忘れないで」
そう言って、フィオンはコレットの唇にそっと自分のそれを重ねる。
甘く、優しく。
フィオンの指が髪に滑り込み、その刺激はしびれにも似た甘さをコレットの体に刻みこんでいく。
(離さないで……)
無意識にそう思ってしまった自分に気がつくと、コレットは恥ずかしさで身が固くなる。そんなコレットの気持ちを察したかのように、背に回されたフィオンの腕の力が強くなったことを感じる。
ようやく唇を解放され、そのままフィオンの肩にコトリと額を預けた。
目を閉じてフィオンの温もりに包まれながら、あがってしまった息を整えるように浅く呼吸を繰り返す。
ゆっくりと意識が浮上した。
(……夢?)
今あったことが夢だと認識しつつも、夢の中で会えた思い人と離れがたい気持ちが、目覚めることを厭う。
もう少し夢の中にいたいと思う気持ちとは裏腹に、コレットの瞼が小さく揺れ開いた。
無意識に何度か瞬きを繰り返せば、頭の中がはっきりしてきた。
あたりを見渡す。
手元を見れば、縫いかけの刺繍を手にしたままだった。窓のそばで日向ぼっこをしたまま、どうやらうたた寝をしてしまったらしい。
持っていた刺繍を近くのテーブルに置き立ち上がると、コレットは大きな掃きだし窓から空を見上げた。
(さっきまでは、晴れてたのに……)
曇った空からは、ちらりちらりと小さな雪が舞い降りていた。もうすぐ春を迎えようというこの時期の雪は、地上に落ちればふわりとその姿を消し、あとかたもなく消えてく。しかし、雪がちらつくとそれだけで、近づいていた春が少し遠のいたような気がする。
コレットがマカリスター男爵領の荘園屋敷に帰宅してから、もうすぐ六ヶ月の月日がたとうとしていた。
コレットはそっと自分の唇に指で触れた。
先ほどまで夢に見ていた出来事に、自然と頬が赤く染まる。
何度も繰り返し見る夢。
それは最後に会った時のフィオンの姿である。
まるでフィオンに魔法をかけられてしまったように、コレットは領地に帰ってきてから何度となくその夢を繰り返し見る。まるで忘れるなとでも言っているようなその夢を見るたびに、すごく幸せで、そしてフィオンに会いたくなって胸が痛む。
去年と同じ荘園屋敷での生活であるはずなのに、気持ちは大きく違っていて、その変化にコレット自身も戸惑っていた。
(会いたい……)
好きと言って、抱きしめてほしい。
本人の前に行けば、恥ずかしくて口にはできないけれど、今なら素直にそう思う。
一緒にいることができないのが、こんなにさびしいことだとコレットは思っていなかった。
フィオンのことを信じている。
別れ際にそう言った自分の言葉に偽りはないけれど、それでも王都から遠い地で、その噂さえ届かないこの場所では、コレットの頭の中にはいろいろな考えがよぎっては消えていく。
フィオンも、コレットと同じ気持ちでいてくれるのだろうか。
日々の忙しさに、思いだすこともないのだろうか。
それとも、離れたことでコレットへの気持ちも落ち着いて、気持はなかったことになってはいないだろうか。
信じてはいる。
しかし、遠く離れた距離は、不安を掻き立てるには十分な材料だった。
コレットは自分の胸のあたりに手を当てた。
そこにあるのは、フィオンからもらったムーンストーンのネックレスである。
不安が湧き上がってくるたびに触れれば、不安は徐々に消えていく。フィオンを信じることができる。
心を落ち着かせて窓の外を再び見れば、正門から馬車が入ってくるのが見えた。
日陰にはまだまだ雪が残っているものの、領内に積った雪はそのほとんどが姿を消している。
これから春にむけて、作物をつくるための準備が少しずつ進められているところだ。雪が溶けた後に、その下に被害が出ていなかったのかを確認することは、これから一年作物を作る上では大切なことである。
その視察に行っていた父がどうやら帰ってきたらしい。
父親を出迎えるために部屋を出たコレットが階段を下りていると、執事がドアを開け父が屋敷内に入ってきた。
わずかに雪のかかった帽子をとると、階段を下りてきたコレットと目が合う。帽子を執事に渡し、コレットに近づく。
「お父さま、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
コートを脱いで、手袋をとるとマカリスター男爵はコレットを優しく抱きしめた。
するとおや? というように、男爵はコレットを見返す。
手袋をしていたとはいえ、外から帰ってきた父親の手よりも、コレットの体の方が冷たい。
「冷えているな。どうかしたのか?」
「お天気が良かったから日向ぼっこをしていたのですけれど、先ほどまでうたた寝をしてしまいました」
「それでこんなに?」
男爵家の中、普段家族が使っている場所は、まだどこも暖炉に火が入れられているはずである。
「日が差している間は暖かかったんですもの」
コレットが刺繍をしていた二階のサロン。
大きな窓から光が入るその場所は、室内に多くの光を取り込み温かいので、暖炉に火を入れていなかった。
しかし、ようやく春の訪れを感じ始めたばかりの今は、日が陰ってしまえば、窓がたくさんある分冷えるのも早いのだ。
「風邪を引いては大変だ。おいで」
父親に促されながら、コレットは父親と一緒に居間へと入った。
暖炉の近くに連れてこられ、コレットをソファへ座らせると、父親は暖炉の火をもっと入れるようにと指示を出した。メイドが慌てて室内に入り、薪をくべる。
コレットの体が温かくなってきた頃、一人がけのソファに足を組んで座っていた男爵は、窓の外を見ながら口を開いた。
「また雪が降ってきたな。今年は春の訪れがいつもより遅いようだ」
「はい」
それは、春の種まきが終わってから王都へと向かうマカリスター男爵にとって、王都へ上がる時期が遅れることを意味している。
「春になったら、王都へと上がる。気持ちは変わらないか?」
「はい」
「そうか」
王都へ上がって、王の許可が下りればこの春、コレットは王弟でもあるバード公爵フィオン・アルファードと正式に婚約することになっていた。
去年王都をにぎわせた『惚れ薬』の事件。
それがきっかけとなって出会ったフォインとコレットであるが、解毒薬を服用した後でもコレットを望んだフィオンのたっての願いで、王が条件付きで許可を出したのは半年前のことである。
春がきて、コレットが王都へ戻るまで二人が会うことや手紙のやりとりもすべて禁止。お互い冷静になって考えた上でも結婚を望むなら、許可を出すとの意見である。
事件当初からコレットを望んでいたフィオンに、マカリスター男爵が出したのは、たったひとつの条件だった。
それは、コレットがフィオンからのプロポースを受けるというもの。
周りの圧力でも、フィオンや王からの命でもなく、コレットがフィオンを思いそばにいることを望んだらフィオンの申し出を受けるが、そうでなければ諦めて欲しいというのが男爵の言い分だ。
フィオンに恋をし、彼からのプロポースを受けたコレットに対し、男爵がこれ以上反対する理由はない。
しかし、そんなな中でも今回の帰郷を許し、コレットが再度考えるだけの時間を与えてくれたのは、王がマカリスター男爵家をそしてコレットのことを真剣に考えてくれているからの配慮である。
「お父さま、ごめんなさい」
「どうして謝る? どうするかをお前が決めることは、私が望んだことでもある」
「だって……」
薬が関わった事件である。
犯人が捕まった現在、マカリスター男爵家は事件に巻き込まれてしまった被害者である。
だが、それはフィオンとコレットが結ばれなければ、という条件のもとである。
いくらフィオンが望み、王家がそれを許可したとしても、この事件で娘を王弟に嫁がせることに成功したマカリスター男爵は、それを望んでいた貴族にとって妬みの対象になることは避けられない。
「こちらのことは気にするな。王家が認めることなのだから、みな大きな声では言うことなどできない。それよりも、大変なのはお前の方だ」
「……はい。でも、大丈夫です。がんばります」
「あまり頑張らなくていい」
「えっ?」
「いつでも戻ってくる場所はあるのだから、一人で頑張りすぎることはない。公爵に何でも相談しなさい。それでもどうしようもなくなったら、またここに帰ってくればいい」
「お父さま。ありがとうございます」
父の言葉を理解し、コレットは素直に頷いた。父親の言いたいことはよくわかる。
解毒薬を服用した現在でもフィオンの様子が変わらないことにより、盛られた薬に『惚れ薬』としての効果はなかったとするのが今の公の見解である。
だが、そうは取らない考えもある、ということである。
効かなかったのは、『惚れ薬』ではなく……。
「いつかその時がきたとして、フィオンさまがわたしとともにすごした時間が幸せだったと思っていただけるよう、努力していきたいと思います」
恋は自分がしたいと思ってするものではない。
それと同時に、やめようと思ってやめられるものでもない。自分の意思など関係なく恋に落ち、そして自分でもどうしようもなく恋に冷めることもある。
それは、普通に出会い、恋に落ちた相手でも同じことだ。
未来のことなど誰もわかりはしない。
それでも、お互いを大切に思い愛と信頼をはぐくみながら、家族となっていくことは、夫婦となる自分たちの意思で行っていくことができると、コレットは思う。
もちろん一人の力ではできないけれど、お互いが相手を尊重し、意見の違いを歩み寄っていくことができれば、恋以上の愛情を育てていくことができると信じている。
まわりの状況がそれを許さない時もくるかもしれない。だが、フィオンとならコレットはがんばれそうな気がしたのだ。一緒にがんばって家族となっていきたいと、コレットはそう思った。
「そうか」
コレットの決意に、男爵は静かに頷いた。
娘が可愛い男爵としては、他の男に取られるのはちょっとさびしい気がする。
だが以前の婚約が解消されたときのように、娘が傷つく姿はもう見たくない。娘の選択を受け入れるだけの覚悟はもうできている。
だが……。
「嫁にやるのは、もう少し先だからな」
春に婚約が成立してから、初めて結婚の準備へと移行する。
王都へ戻ったからといって、結婚まで公爵家に入るわけではない。
父親の態度に、コレットは驚いたように顔を上げた。男爵は少し居心地が悪いようにそっぽを向いている。
胸の中が温かいもので満たされたような気持ちになり、コレットの口元に笑みが浮かぶ。
父親のそばに寄り添い、その足元に腰を下ろすと、甘えるように膝に頬をよせた。
「まるで子供に戻ったようだな」
「だって、お父さまの子供ですもの」
いくつになっても、父親の子供であることに変わりはない。
「わたし、お父さまの娘でとても幸せです」
「そうか」
それ以上なにも言わず、マカリスター男爵は優しくコレットの髪を撫でた。
「あら、帰っていらっしゃってたんですか」
居間に入ってきた母親に、コレットは父の膝から顔を上げた。
近づきながら、母親は寄り添っている二人に目を瞬いた。
「お嫁に行く前に、お父さまにご挨拶していたの?」
「まだ嫁にやったわけじゃない」
「まあ」
すねたような父親の態度に、母親はくすくすと笑い声をもらす。
「こまったお父さまね。あなたがお嫁に行ってしまうのが、さびしくてしかたないのよ」
「おい」
余計なことは言うなとばかりに、男爵は妻を睨むがまったく気にする様子もない。
コレットは立ち上がると、母親にぎゅっと抱きついた。
「まあ、今日のコレットは甘えん坊さんなのね。どうしたの?」
「今日は、お父さまとお母さまの子供でいたい気分なの」
「いつでもあなたは、私たちの大切な子どもよ」
「はい」
母親に優しく髪を撫でられ、コレットはそっと目を閉じた。
幸せだと思う。
この幸せは、両親が自分に与えてくれたものだ。
ならば、自分はこれからフィオンとともに、幸せな家を作っていきたいと思う。いつか振り返った時に、幸せだと改めて思う時がくるように。
暖かな暖炉の光に包まれて、マカリスター男爵家の居間では、親子水入らずの時間が静かに流れて行った。




