68.依頼
王妃の私室、窓際の椅子に腰をおろしたディアナは、侍女の少女が入れた紅茶を受け取るとゆっくりと口に含んだ。
カップをソーサーの上に戻すと、部屋の出入り口の方が騒がしいことに気が付き顔を上げる。ディアナのそばに控えていた侍女が、王妃を守るように一歩前に進み出た。
ノックの音とともに現れたのは、女官長だった。
「どうしたの? 何か騒がしいようだけれど」
「それが……、今バード公爵がご面会にいらっしゃいました。急なご訪問は困ると申し上げたのですけれど、どうしても王妃さまにお話したいことがあると」
「そう」
指を顎にあて、少し考えるようなしぐさをすると、王妃は女官長ににっこりとほほ笑んだ。
「通してください。おそらく今回の事件についての報告にいらっしゃったのでしょう」
「ですが……」
「義弟のわがままに突き合わせてごめんなさいね、タニア。私からしっかりとあの子には言っておきますから、今回だけ大目に見てあげて」
「わかりました」
何とか納得した女官長が部屋をでてしばらくすると、フィオンがディアナの前に姿を現した。
「まあ、フィオン。急にどうしましたの?」
「今までの一件で、義姉上にお礼を申し上げにうかがいました」
「お礼を言われることなんてしていませんわ。さあ、お座りになって」
そういうと、王妃は自分が座っていた椅子の向かいにフィオンを促した。フィオンが座るのを確認し、言葉を続ける。
「伺いましたわ。陛下からコレットとの婚約の許可をいただけたのでしょう。半年後、というのが陛下らしいご采配とは思いましたけれど。おめでとう、と言ってよろしいわよね」
「ええ、義姉上のお力添えがあったこと、とても感謝しています」
「私も可愛い妹が欲しかったのですもの。礼にはおよびませんわ。それで、今日はそのためにいらっしゃったの?」
「いえ。ですが、それを申し上げる前に、人払いをお願いしたいのです」
「皆がいてはいけませんの?」
「僕はかまいませんが、義姉上にとってはその方がいいかと思います」
フィオンの様子に、やれやれとディアナは肩をすくめる。
手を上げて合図をすると、控えていた侍女たちは静かに部屋を後にした。
その中の一人。ディアナの後ろに控えていた少女が部屋を出ようとしたところで、椅子から立ち上がったフィオンがその少女の手をとった。
彼女以外の侍女が出て行ったところで、ぱたんと扉を閉める。
驚いて顔をあげた少女ににっこりとほほ笑むと、フィオンはお仕着せのメイド帽を撫でるように取り払った。
「フィオン、婚約の許可をいただいたばかりだというのに、私の侍女に手を出すつもりですか? コレットに言いつけますわよ」
「いやだな、義姉上。誤解です。確かめただけですよ」
そういうと、フィオンは少女に向き直った。
帽子をとった少女の髪色に、フィオンは満足したように微笑みかける。
「君にも礼を。コレットを守ってくれてありがとう」
少女は、困ったように目を泳がせる。
「フィオン、わからないことでお礼を言われても、この子も困ってしまいますわ」
「そうですか?」
どうしたものかと動けなくなっている少女を、王妃はそっと呼び寄せた。
少女が王妃の後ろに控えたこと確認し、フィオンも再び椅子に腰かける。
「最初に彼女の存在に気が付いたのは、黒髪の女性が、マカリスター男爵家の周りでよく見かけられたという報告を受けたときです」
「黒髪なんて、この国ではめずらしくもないでしょう?」
深い茶色にブルネットも含めれば、黒髪と称される髪色の人はこの国では決して少なくない。黒髪というだけで、フィオンが意味している人物とこの少女を結びつけるのはあまりにも強引だ。
「その少女の行方が必ず途中でわからなくなる。特にセイズ河のほとりあたりで。あそこには、王家で使用していた隠し通路があったはずでしたよね。義姉上もよくご存じだとは思いますが」
王城以外にも、王都には隠し通路がいくつも存在している。
それを知っているのは、王家の血筋とそれに連なる者たちである。それこそが、王家の一員としての証でもある。
「クリプトンホテルと、今回の誘拐事件でコレットを助けてくれたというのも、黒髪の少女でした。薬の出所と、コレットを助ける人ということを考えれば、すぐにわかりましたよ」
王妃は何も答えない。
「彼女がコレットと会えばさらにはっきりするでしょうが、それは必要ないでしょう」
そうしたところで、王妃がコレットを影から守っていたことがはっきりするだけだ。
「それで? 何の事だかわかりませんけれど、そのことを言いにいらしたの?」
「お二人にお礼を言うこともそうですが、それ以外にもう一つ。義姉上にお願いがあって伺ったのです」
「まあ、なにかしら?」
「単刀直入に言います。義姉上が持っていらっしゃる薬のことです」
「薬?」
フィオンの言っていることがわからないように、王妃は小首をかしげる。
そんな王妃の態度に、フィオンは口元をゆるめた。
義姉であるディアナの性格は、小さいころからよく知っている。
「そういえば、義姉上は昔から大きな猫をかっていらっしゃいましたね」
「何のことかしら」
うふふと笑いながら、王妃はフィオンを見返す。
「コレットのことを守っていただいて、義姉上にはいろいろとお世話になりました。今回の件、結果的には義姉上の行動には感謝しています」
あの時、この少女の助けがなかったらコレットに危害が加えられた可能性はかなり高かった。
その上、正確にコレットが隠れている場所に兵を案内したことで、いち早く事件を収束に向かわせることができたことは間違いない。
何のことかわからないといった王妃の態度を気にも留めず、フィオンは言葉を続けた。
「なぜ僕が気がついたかは、義姉上ならば説明しなくてもお分かりになると思います。そして、義姉上の性格を考えると持っていらっしゃるはずです。その薬は捨ててください。もう必要ないでしょう。僕にも、義姉上にも」
「フィオンのお願いならかなえて差し上げたいけれど、持ってもいないものを捨ててと言われても困ってしまいますわ」
「ええ、義姉上は持っていない。僕がこの部屋を出た後、それが現実になることを願っています」
そういうと、フィオンは深く頭を下げると王妃の部屋から退出した。
フィオンがいなくなって、王妃はにっこりと笑っていた表情をすっと消した。
フィオンが出て行った扉を無表情に見つめる。
「バード公爵は気が付かれていらっしゃるみたいですね」
先ほどフィオンに帽子をとられた少女が、返された帽子をかぶりながら口を開いた。
「まあ、気が付くならバード公爵家のおじいさまかフィオン、どちらかだとは思ってましたわ。でも、そのどちらが気付いたとしても、私に抗議できる立場ではありませんわ」
そう言い放つと、王妃はつんと顔をあげた。
「もともとはといえば、この薬はおじいさまからいただいたもの。フィオンやおじいさまに文句を言われる筋合いなどありません」
バード公爵家に伝わる門外不出の薬のレシピ。これを現王妃であるディアナに渡したのは、前バード公爵でフィオンとディアナの祖父でもあるヘンリーだった。
その時のことを思い出し、ディアナは柳眉を曇らせた。
フィオンと王との絆を深めるため。
ひいては、フィオンが王位継承の争いに巻き込まれないために、祖父である前バード公爵はディアナに現王であり、当時皇太子であったパトリックとの結婚を打診してきた。
それは、すでに別の婚約者候補がいたパトリックを、その女から奪えとの命令である。ほぼ、婚約が決まっていたパトリックを、無理やりにでもディアナに振り向かせろとの命令とともに渡されたのが『惚れ薬』だったのである。
レシピをディアナに渡し、それをつくれる薬師の店も準備されていた。
あとは、その店に行けばいつでも薬の用意はできる。
その時の屈辱を、ディアナは今でも忘れることができない。
惚れ薬を利用しなければ、パトリックを振り向かせることができないと思われたことが、ディアナは悔しくてしかたがなかった。そこまで自分は魅力のない人間であるかのように言外に含ませたようで腹が立った。
最終手段として、渡されたものだということは理解できた。
だが、理解できるのと納得できるのとでは話が違う。
必要であれば、皇太子であったパトリックを必ず振り向かせ、結婚しろとただ命令すればよかったのだ。それなのに、自分を信用せずに惚れ薬を渡すなんて。
だから、ディアナは祖父に条件を付けた。
その薬について、解毒薬のレシピも自分に教えること。そして、薬をいつ、どこで、どんな時に使うのかは、すべて自分にまかせてほしいと。
結局、ディアナは惚れ薬を使わず、パトリックと結婚した。
その時お蔵入りになった薬を、今回使用したのである。
フィオンの結婚相手を選ぶために。
フィオンを巡っての婚約者争い。
有力な婚約者候補の名前が挙がってはいても、頭一つ以上の差でアニエス・オースティンが優位に立っていた。幼い頃からフィオンの結婚相手と目されていた少女。
だが、彼女ではだめなのだ。
現王家として、前王妃の遺物ともなる彼女の存在を受け入れることは好ましくない。
それは、ディアナにとっても、そしてフィオンにとっても同じ意見である。
だが……。
「バード公爵にしてみれば、ご自分の気持ちを無断で利用されたような気がされたのでしょうね」
一歩間違っていれば、惚れ薬を盛ったあのジェシカを好きになっていた可能性も否定できない。
「ちゃんと解毒薬は用意していましてよ」
フィオンを本気で誰かに惚れさせようとしたわけではない。
ただ、惚れ薬がつかわれたという事実と、その相手が必要だった。そのためきちんとその後の対処も考え、解毒薬の用意も行っていたのである。惚れ薬を盛ったトリーヌがすぐに捕まったのもそのためだ。
惚れ薬を使うのが誰であろうとかまわないが、効果の相手としては一番期待していたのはアニエスだった。
夜会でフィオンの近くに長時間いることのできる女性は限られているため、アニエスが出席していれば彼女を見る可能性が一番高かったというのも理由である。
そうなれば、惚れ薬の件を持ち出し断固彼女との結婚を認めることはしなかった。夫である王、パトリックとも同意見で話は進んだはずだ。
相手がアニエスでなかったとしても、この混乱を機に熱くなりすぎたフィオンの結婚相手争奪の現状に一石を投じ、有力候補などの白紙化を進める手筈を考えていた。
叔母であるルノワール伯爵家でのパーティーの日。
あの日アニエスが欠席したことが王妃の想定外。
だが、その想定外は、想定以上の効果をもたらした。
薬の効果が現れた少女は、アニエスを排除するだけではない。彼女をフィオンにあてがうことで、他の少女たちをフィオンのまわりから一掃させることができる相手だったのである。
結局、フィオン自身が惚れ薬以上の効果でコレットを気に入り、ディアナ自身も王弟妃としてコレットの存在には満足している。
用意した解毒薬はその必要性を失っている。
「あなたにも、いろいろとがんばってもらったわね。コレットを守ってくれてありがとう」
「とんでもございません。でも……」
「なあに?」
「できれば、あのおばあさんのところに行くことだけはご容赦を願います」
「あら? 大人の男性にも負けないあなたに危害を加えるのは、あの薬師にはむずかしいわ」
一見幼い少女に見られるため侮られがちだが、しっかりと訓練を受けた王妃の護衛である。
平素から王妃の傍にかしずき、近衛兵がそばにいないときでも王妃を守る。それが彼女の役割である。そんな少女に、薬師の老婆一人で怪我を負わせられるとは考えにくい。
「見えるものならば対処もできますけれど、見えないものは対処に困ります」
王妃の命を受け、薬をとりに行ったあの時。あの部屋に立ち込めていた不快なにおい。
落ち着いて考えてみれば、あれは部屋に何か香のようなものを焚き染め思考力を低下させていたように思う。そのため、少女はあの老婆やまわりの雰囲気にのまれてしまっていた。
禁薬を取り扱う店である。
老婆としても、自分の身を守るために必要なことだったとは思うが……。
王妃は、少女の訴えに肩をすくめた。
「もう、あの店に行くこともないでしょう」
王妃が望むときに薬を用意するため、王都にとどまっていた薬師である。
もとは王都の人間ではなく、ディアナが計画を実行するために王都にとどめておいたのだから、その仕事が終わった今、すでにあの場所も引き払っているはずだ。
すでに投獄されているトリーヌとこの少女が出会うことはまずない。薬の出所は当事者が口をつぐんでしまえば闇の中である。
音も立てず、王妃はすっと椅子から立ち上がった。
化粧台の一番おくから、王妃は鍵のかかった宝石箱をとりだす。
鍵をあけて出てきたのは、キラキラと輝く透明な瓶に入れられた薄紫の液体である。細い指でそっと摘み上げると、中の液体の色も相まってアメジストのように美しく輝く。
「あの解毒薬も、だいたいはあっていたのですけれどね」
王家の医師団が作り上げた解毒薬。
必要な薬以外にも、いろいろ混じってしまったせいでかなりの悪臭と味になってしまってはいたようだが、おおむねよく出来ていた。
だが、惚れ薬やその解毒薬に気が付いたフィオンならば、それの対処法も気が付いたはずだ。
「可愛い義弟の頼みですもの。仕方ないですわね」
王家の安定と、国の安寧のためにフィオンの結婚相手を決める必要があった。
王妃としても、思わず、コレットという少女をフィオンの相手として手に入れることができたのだ。このくらいの願いはきいてあげてもいいだろう。
ディアナは部屋のテラスから階段を下りて庭へと下り立った。
ゆっくりと散歩をするように歩きだすと、庭の花を愛でるように触れながらそっとその下へ小瓶の中身を捨てる。
薄紫の液体は、乾いた地面に吸い込まれ静かに消えていった。
ぶつかった拍子に、棚から何かが床に落ちた硬質な音が響いた。
慌ててロイドは、落ちたものを拾い上げる。
透明なガラス瓶。しっかりと蓋が閉められたそれには、中にわずかに黒い粉のようなものが入っていた。割れていなかったことをよく確認する。絨毯の上だったため、どうやら大丈夫だったようだとほっとしたロイドは、ふとあることに気が付いた。
この瓶をどこかで見たような気がする。
確か……。
以前に主人であるフィオンが購入していたものであったことを思い出し、ロイドは首をかしげた。
あの時より量が減っていて、中身はほとんど残っていない。
いったい何に使ったのだろうか。
「どうしたのですか? 旦那さまはもう出かけられます。ロイド、お前もはやく準備をしなさい」
部屋に入ってきたクレマンにせかされ、ロイドははっと顔をあげた。
「あの、クレマンさんはこれが何かをご存じですか?」
「どこでこれを?」
「この部屋で見つけたのですが。何に使うものなのでしょうか」
「……まあ、今後のためにも知っておいた方がいいですか」
クレマンはつぶやくように言うと、ロイドの手からその瓶をとる。
「これはカナヤシの樹木とその実でつくられた木炭の粉です」
「木炭、ですか?」
「浄化作用のある薬木を燃やしたものですよ」
「木は燃やしたら灰になりますよね。これが……ですか?」
瓶の中のものは灰色ではなく、まごうことなき黒である。
「だから薬なのですよ」
「えっ? これは薬なんですか?」
「これは毒などを服用したときの吸着剤です。これに毒の成分が吸着して作用をかなり弱めることができる。とくにカナヤシは吸着の効果が強いとともに浄化作用もあるので重宝します。王族でもある旦那さまには必要になるものですから、ロイド、あなたもしっかりと覚えておきなさい」
小瓶を棚に戻すと、クレマンは急ぐようにロイドに言い渡し部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送った後、ロイドは棚に戻されたその瓶をじっと見つめた。
この薬をフィオンが手にしていたのは、惚れ薬を服用してかなり時間がたった後だった。毒などを服用した時に吸着するものならば、惚れ薬の効果を弱めるために使用したとは到底思えない。
「ロイド?」
部屋に入ってきたフィオンは、じっと立ち尽くしているロイドにどうしたのかと声をかけた。
考え事をしていたところに急に声をかけられ、ロイドはびくりと肩を震わせる。ロイドの視線の先にあるものに気が付き、フィオンは手を伸ばして小瓶を手にした。
「ああ、ここにあったのか。どこに行ったか気になってたんだ。ありがとう」
小瓶を書斎の机の中にしまうと、フィオンは自分をじっと見ているロイド気付く。
「どうした?」
「いえ、その薬のことなのですが……」
「薬? ああ、この粉のことについて聞いたのかい? まあ、何にでも効果があるというものでもないけれどね」
「はあ……」
「ロイド。僕はね、勝てない賭けをする気はないんだ」
にっこり笑ってそう言うと、フィオンは書斎に置いてあったケースを胸ポケットに入れて部屋から出て行った。
「それって……」
この薬が何の効果を無効にしたのかに思い当たり、ロイドはひくりと頬をひきつらせる。
その場に固まり立ち尽くしたロイドは、次の瞬間はっと我に返ると、フィオンの後を追うように慌てて部屋を後にした。




