63.敵意
逃げようとしたコレットの行く手を阻むと、男はやすやすとその腕を捕まえた。後ろ手に拘束されれば、ねじられた腕が悲鳴をあげるようにぎりぎりと痛む。
肩がはずれるような痛みに逃げることもできず、コレットは小屋の影から他の二人がいる場所に連れてこられた。
コレットを見たジェシカが驚いたように目を見開く。が、すぐに不快な気持ちを隠すことなく眉根をよせ、そばにいる侍女を呼びつけた。
「トリーヌ。まったく、人影に気が付いたのならもっとはやく報告しなさい」
「ですが、お声をかけたとき後にしろとおっしゃられたのはお嬢さまです」
苛立ちをぶつけてくるジェシカに、トリーヌはのんびりと答える。
「時と場合というものがあるでしょう。まったく優先順位もわからないんだから!」
「はあ。すみません」
主人の言葉を無視して話せばそれはそれで怒るのだが、トリーヌはとりあえず謝ってその場をやりすごした。
「それで?」
苛立ちがおさまらないまま、ジェシカはコレットを拘束している男に向かって話しかけた。
「ウォーレス、これはどういうこと? あなた先ほどわたしに計画は順調だと話していたような気がしたけれど、空耳だったかしら」
ジェシカの言葉に、ウォーレスと呼ばれた男はコレットの腕をつかんだまま軽く肩をそびやかす。
「さてね。俺がいた時までは順調だったんですがね」
ウォーレスはそう言いながら、コレットにずいっと顔を近づけた。
腕をつかまれた状態では動けるはずもなく、それを避けるようにコレットは顔をそむける。
「お嬢さん、あんたあの場所からどうやって逃げ出した?」
はっとしてコレットは顔を上げ、自分を覗き込むウォーレスを見た。
あの場所から逃げたというのは、コレットがどこに拘束されていたかを知っているからこその問いである。それならば、このウォーレスという男はコレットをさらった男たちの仲間だ。
ならば――――。
コレットは目の前にいるジェシカに視線を移した。
二人の会話からわかること、それは。
「あなたが、命じたの?」
自分をさらうことを。
「そうよ」
悪びれることもなく当然のように言い放つと、ジェシカはコレットに近づいた。
「せっかく閉じ込めたと思ったのに、こそこそと逃げるのがお上手ですこと。見張りの男たちにでも取り入って逃がしてもらった? フィオンさまに取り入ったあなたなら簡単なことだったかしら」
「どうして……」
「どうしてですって?」
きっとコレットを睨み付け、ジェシカは繊手を振り上げた。
ぱんっという音とともに、コレットの頬に痛みがはしる。じんじんと頬に熱が広がっていく。
「あなたは邪魔なのよ! バード公爵はわたしを好きになるはずだったのに」
惚れ薬を手に入れ危険をおかしてまでフィオンに服用させたのは、すべて彼に自分を好きになってもらうためだった。
ぎりりとジェシカは唇を噛みしめる。
失敗しただけならまだよかったのだ。フィオンが誰も好きにならず今まで通りだったのならあきらめもついた。だが、自分の使った惚れ薬のせいで他の誰かがフィオンのそばにいることになるなんて、そんなことは絶対に許せなかった。解毒が行われても、これから先フィオンの中で少しでもコレットの面影が残っていることなど耐えられない。
頬に感じる痛みをこらえながら、コレットは口を開いた。
「薬で好きになってもらうなんて、そんなの本当に嬉しいですか?」
彼の本当の心を知ることもできず、相手の言葉を疑うそんな関係が本当に幸せとは思えない。
コレットの言葉に、ジェシカはふんと鼻をならす。
「薬だろうがなんだろうがかまわないわ。フィオンさまがわたしを好きになってくださるなら原因なんて些細なことよ」
「使われた相手の気持ちはどうなるんですか」
「あなたにとやかく言われる筋合いはないわ。惚れ薬の恩恵をたっぷりと受けたんですから、お礼をいっていただいてもいいくらいよね」
「そんな……」
ジェシカの言葉に、コレットは唇をかみしめた。
薬のことがなければ、確かにあの日フィオンと出会うことも、その後ともに時間を過ごすこともなかったのかもしれない。
でも、もし薬の事件以外で出会うことができたなら、もし言葉を交わすことができたとしたら、彼の言葉を疑うことなんてなかった。フィオンを信じられず苦しむこともなかったのだ。
「そろそろいいですかね」
コレットを拘束したままことの成行きを見守っていたウォーレスが口をはさむ。
「黙っていなさい。この女にはっきりとわからせてあげないといけないのよ。勘違いをね」
自分のしたことは棚に上げてそういうジェシカに、ウォーレスはやれやれと肩をすくめる。
「まあ、俺もこいつをかばうつもりはないんですが、どうやらお着きになったようですからね」
「えっ?」
それだけで意味を理解したらしいジェシカは、ぱっと後ろを振り返った。何があるのかと、コレットもジェシカの振り向いた方向に視線を向ける。
ジェシカたちが馬車で来た道から馬の足音が聞こえてきたかと思うと、二頭の馬がこちらへとやってきた。近くの木のそばで馬を降りた二人は、手綱を木にくくりつけると、こちらへ近づいてくる。
「叔父さま、ご無事でよかったわ」
「ジェシカにトリーヌ、それとウォーレスか。おや、場違いなものがここにいるようだが?」
そう言うと、その男は冷めた目でコレットを一瞥した。
コレットは目の前に現れた男を見上げた。
身なりはよれよれの灰色がかった黒い上着に、同色のズボンといった格好である。顔にはなぐられたような痣、手首には縛られたような跡があり血が滲んでいた。
一見すると労働者階級といった風体だが、ぴんと立つ姿も、尊大な物言いも、彼の身分が低くないことを物語っている。
ジェシカが叔父と呼ぶ人物。
「ドーズ卿……」
「おや、私のことをご存じでしたか」
名を呼ばれ、ギルダスは少しだけ頬をゆがめた。
ギルダス・ドーズ。惚れ薬の実行犯である人物を逃がし、クリプトンホテルでのコレット襲撃を指示した人物でもある。
現在は捕まり、取り調べを受けていると聞いていた。どうしてここにいるのかわからず、コレットは混乱する。
「それで、どうしてこの女がここにいる?」
コレットを拘束しているウォーレスに、ギルダスは再度問いかけた。
ウォーレスは、今後のことを考えてトリーヌを逃がす手筈をしたときにギルダスが雇った男である。自分が逃げるのを助けにきたウォーレスの配下からは、コレットのことは聞いていない。
「あんたを逃がすために、少し利用させてもらった」
意味が解らず、ギルダスは少し眉根を寄せる。
「王宮の警備を混乱させるために、多少の事件が必要だった。この女を攫えば王宮の兵士も動く、それはそのお嬢さんの発案だ。悪くないと思って実行したってところだな」
「ふん。この女が誘拐されれば、さらに検問が厳しくなるだろうに」
「あんたの姪を探すために、すでに検問は敷かれていた。検問にこいつの捜索、その上脱獄となれば、下につく兵の動きは混乱するさ」
「ジェシカ」
最後までコレットへの復讐に執着している姪に、ギルダスは大きくため息をついた。
「こうして逃げられたんだからいいでしょう。もう王都にいられないのはわかっているけど、この女をこのままフィオンさまのおそばに置きたくなかったのよ」
叔父の言葉を遮るようにそう言うと、ジェシカはふいっと横を向いた。
どうやら、ギルダスの脱獄後の集合場所がここであったらしい。普段なら人気もない場所。そこはコレットが隠れるのに適していただけでなく、彼らが逃走するルートとしても適した場所であったようだ。
ギルダスとジェシカが二人で話始めると、ウォーレスのそばに配下の男が近づいてきた。自分に近づいてきた男にウォーレスは小声で話しかける。
「王都の様子はどうだった?」
「思ったより脱獄に対する動きが速い。以前薬の件であのトリーヌとかいう女が脱獄したことがあったせいか、警戒していたのかもしれない。兵の目をかいくぐって逃げるのがけっこうきつかった」
「誘拐に関しては?」
「王宮近辺では動きがあるようだが、王都全体ではそれほどでもない。ただ、検問に伝令は行っていると思う。ここに来るときに様子を見てきたが、西の検問所は少しざわついていたようだった」
もともと主要な道は抑えられていたため、兵の急激な移動はなかったということか。思っていたより、王都内で大きな混乱は起こっていない。
そのために、兵士たちが即座にギルダス確保のために動けたのか、それとも、コレット捜索の動きが本格化する前にギルダスの脱獄がばれてしまったための状態か。
予測よりも兵の動きがはやかったため時間がかかってしまったのだと、男はウォーレスにそう報告した。
「急ぐ必要があるな」
人目につきにくいこの場所で、誰かに目撃され通報される危険性は低い。だが、捜索の手がここに伸びてくるのも思ったよりも早くなるかもしれない。
「ドーズ卿、次の行動に移ろう。あんたとその二人をこいつが案内する。この橋を渡って行くから馬車は無理だ。馬で行ってくれ」
川の上にかけられた吊り橋では、馬車が通るだけの広さはない。馬を落ち着かせながら徒歩で橋をわたり、そこから馬に乗り移動する。
「それで?」
「この橋を渡ってしばらく行ったところに、別の馬車と仲間を用意した。その道を進めば検問の外に出られるから、見つからずに逃げ切ることができる。行先は最初の契約の場所だ。残りの金についてはそこで、だな。あんたの隠し財産からきっちりと払ってもらえると理解しているが」
「もちろん、契約は守る。それがお互いの利害のためだ」
ウォーレスはギルダスの配下ではない。金銭で雇われた何でも屋だ。
契約内容と見返りによっては多少の犯罪行為も行い、相手の要求をかなえていく。今のギルダスの状況では、自分が表だって動くことはできない。ウォーレスと契約を結んだまま行動する方が得策である。
「話がわかって助かる。もし、変な素振りでもしたら、そのときはあんたたちとの契約はなしだ。それは心得ておいてくれ」
「わかった」
「そこのお嬢さんも?」
「わかってるわよ」
話を振られ、ジェシカはつんと顔をそむけた。だが、何かを思い出したようにウォーレスに向き直る。
「でも、ウォーレス。ひとつだけはっきりさせてくれないと。この子の始末はどうする気?」
そう言って、ジェシカはコレットを指差した。
ジェシカの依頼は、コレットをもう二度とフィオンに近づけないようにすること。ギルダス脱獄のために利用したというのもあるが、一番の目的はそこである。
「こいつは俺が始末する。そういう契約だったからな」
王都の警備態勢を混乱させるために行った誘拐計画だ。それが実行された後には用はない。
ギルダスの返事に満足すると、ジェシカはゆっくりとコレットに近づいた。
「さようなら、コレットさん。せいぜい身の程を知って苦しんでくださいな。私だけが王都を追われるんじゃつり合いがとれないでしょう? 惚れ薬の恩恵にあずかったあなたも、しっかりとその責任をとっていただかないとね」
にっこり笑いかけそう言うと、ジェシカはくるりと踵を返した。
ウォーレスに拘束されたままでは、自分に背を向けて歩いていくジェシカを見ていることしかできない。コレットは動けぬまま、ぎゅっと唇を噛みしめた。
先ほど自分に向けられたジェシカの言葉は、コレットにとって理不尽なことばかりだ。
フィオンがコレットに向けた言葉、そのすべてが薬のせいだったのだと一蹴されたことが悲しい。フィオンを好きだと言いながら、彼の気持ちを考えていない行動に悔しさがこみあげてくる。
何を言おうとしたのかは自分でもわからなかったが、コレットはジェシカを呼びとめるために口を開いた。しかし、声をかけようと開いた口をウォーレスが手で塞ぐ。
「あまり大声をあげられても困るんでね」
背後からそう言われ、コレットの背筋に悪寒が走った。
ジェシカたち四人が集まり何か話している中、ウォーレスという男はコレットを拘束したまま動く気配がない。
この後の状況が脳裏をかすめ、無意識にコレットの体が逃げようと動いた。つかんでいた腕が動いたことにウォーレスが気付く。
「お嬢さん、無駄な抵抗はやめておきな。大人しくしていれば、苦しまないようにしてやるから」
震える体に力を入れ、コレットはウォーレスを睨んだ。
「これは、これは。大人しいとお嬢さんかと思いきや、存外気が強かったようだ。そういう女は嫌いじゃないが、残念ながら仕事でね」
にやりと笑い、ウォーレスはコレットの口を塞いでいた手に力を込めた。ぐっと口と鼻を抑えつけられ、コレットの息が詰まる。
涙が、こぼれた。
悔しい。
何もできない自分が悔しい。
ここで終わってしまうのだろうか。
コレットの脳裏にフィオンの顔が浮かび上がる。
(だめ……っ!)
ここで自分に何かあれば、きっとフィオンを傷つけることになる。
優しい人なのだ。
例え今コレットのことを想う気持ちがなくなっていたとしても、自分がまきこんでしまったことでコレットに危害が加われば、フィオンが気にしないはずがない。
コレットは最後の力を振り絞るようにして、自分の口を押えているウォーレスの手に噛みついた。小さく舌打ちの音が聞こえ、コレットを押さえつける力がわずかに緩む。その隙にするりとウォーレスの手から逃れた。
前のめりになるように一歩、二歩と足を進めたところで腕をとられると、コレットはくるりと振り向かされる。
「痛い目に合わないとわかんねえかな」
目が合ったウォーレスは余裕の表情を浮かべたまま、コレットの首に手を伸ばした。
強く首をつかまれる。そのまま上に持ち上げられるようにつま先立ちになれば、つかまれた痛みと呼吸の苦しさがコレットを襲う。何とか逃れようとウォーレスの手をつかむが、びくともしない。
(息が……)
体にうまく力が入らなくなってくる中、馬のいななきと馬車の走り去る音がコレットの耳に届いた。
ジェシカたちが去って行った音なのだろうか。
薄れゆく意識の中そう脳裏をかすめた瞬間、すぐ近くでうめき声が上がる。次の瞬間、コレットを締め上げていた手が緩んだ。
急に入ってきた空気に咳きこむ。
地に足がついたが力が入らず、そのまま崩れ落ちるようにぐらりと体が傾いだ。ぼんやりとした視界に地面が急速に近づいてくるのが見えたが、うまく反応できない。
倒れると思った刹那、ふわりとコレットの体が抱きとめられた。そのままぐっと引き寄せられる。
ウォーレスが自分をまた捕まえたのかもしれないという恐怖に体が反応する。反射的にその手を逃れようとしたコレットの耳元で声が聞こえた。
「もう大丈夫だよ」
この、声は……。
はっとして顔をあげる。
そこにあったのは、優しいエメラルドの瞳。ずっと、ずっと会いたくて仕方のなかった人がそこにいた。
これは夢だろうか。
ウォーレスという男に首を絞められて気を失い、見たい夢を見ているだけではないのだろうか。
「フィオン……さま?」
早い呼吸を繰り返す中、コレットはかすれる声でその名を呼んだ。
「うん」
ぎゅっとフィオンに抱き寄せられる。痛いほどにその腕の力を感じれば、これが夢でないことを感じることができた。
「ごめん、遅くなったね」
その温かいぬくもりに、耳朶をくすぐる優しい声に、フィオンの確かな存在を感じる。
会いたくて、会いたくて、会いたくて……。
あふれる想いは言葉にならず、涙だけが頬をつたい、落ちた。




