60.逃走
「59.追跡」の後半を一部修正しました。(平成24年5月6日)
何とか呼吸をするので精一杯だった。
どれくらい歩いたのだろう。森の中の細い道は、あたりの景色の変化が乏しいこともあり、どれくらいの距離を進んだのかがわかりにくい。かなりの距離を歩いたような、まだほんのわずかしか進んでいないような、もはやコレットにその判断をすることはできなかった。
舗装されていないどころか、人すらほとんど通らないわずかに道と呼べるだけのそれは、かなり足場が悪かった。夏の勢いで伸びた植物たちが、道をおおうようにその手を伸ばし行く手を阻んでくる。それらに足元をとられないように下を向きながら、コレットはひたすら歩いていた。
早い呼吸を繰り返しても、ちゃんと息ができているのが疑わしくなってくるほどに苦しく、喉はひりひりと悲鳴を上げている。踵のあたりが痛むのをこらえながら、どんどん重くなっていく足をコレットはなんとか前へと進めた。一度止まってしまったら、再び歩き出すことなどできなくなりそうだった。
まわりを見ている余裕などなく、足元を見ながら歩いていく。
ただひたすらに、必死に、前を歩く少女の後につきながら……。
前を歩いていた少女が、急に立ち止まった。
足元だけを見ていたコレットは、ぶつかりそうになって慌てて足を止める。息をするのに精一杯で、どうして立ち止まったのかを訪ねることもできない。
「少し休憩をとりましょう」
振り向いてそう言うと、少女は近くの木の根元を指差した。
木の根が地上にまで張り出したそこは、外出用のドレスを身にまとったコレットでも座ることができそうだ。
少女に言われるがまま、コレットは木の根もとに腰を下ろす。
「少しずつお飲みください。急に飲みすぎますと、腹痛を起こす可能性がありますので」
少女から水の入った瓶を受け取ると、コレットはそれを口に運んだ。
体は喉を潤す水の存在を歓迎し、もっともっとと要求してくる。たくさんの水を一気に飲んでしまいたいという気持ちを抑えながら、コレットは少女の言葉に従って小さく喉を鳴らしながら、ゆっくりと水を飲み込んだ。
瓶から口をはなし、コレットはほっと息を吐いた。そのまま、近くの沢に降りて行った少女をぼんやりと目で追う。
地下室に閉じ込められていたコレット。
窓のそばに立ち止まった人影に、自分が逃げようとしたのが見つかってしまったのかもしれないと体をこわばらせたところに現れたのが彼女だった。
コレットに静かにするよう合図を送ると、少女はひらりと身軽に地下室にはいりこんだ。そして、コレットが動かそうとしても動かなかった木の箱の下四隅に何か布を滑り込ませると、簡単に木箱を窓のそばまで動かした。
あんなにピクリともしなかったものが簡単に動き目を見張っているコレットを横に、少女はその上に乗るように促しコレットを窓の外へと連れ出したのである。
すぐに後に続くと思っていた少女は、そのまま木箱を入口の方に移動させ、下に敷いてあった布を取り除く。箱が動かなくなったことを確認すると、軽く勢いをつけて窓に手を伸ばしながら飛び上り、窓枠に手をかけると壁をけって外に出た。
そのあまりの身軽さに、言葉も出なかったコレットの前に少女はゆっくりと腰を落した。
「あなたを助けに参りました」
それ以上は何も言わず、コレットに手を差し出す。
じっと少女を見つめた後、コレットは差し出された手に自分のそれをゆっくりと重ねた。
急に自分の前に現れたこの少女は、コレットを逃がすために来たとだけ言うと、それ以上何も言わなかった。
それでも、コレットはこの少女をすぐに信じることができた。
彼女に見覚えがあったから―――。
「足を見せていただけますか?」
そう言うと、いつの間にか目の前に立っていた少女がコレットの前に跪いた。
おずおずと、コレットはスカートのすそを少し上げる。
「失礼いたします」
コレットの足をそっと持ち上げると、優しくコレットの靴を脱がせた。
今日コレットが履いていた靴は、ヒールは入っていなかった。しかし、貴族の少女の履く柔らかな革の靴は、山道を歩くのにはどうしたって適してはいない。足を傷めないように丁寧につくられたその靴は、それでも歩きなれない場所での酷使によって肌をこすり、コレットの足を傷つける原因となっていた。
絹の靴下にも血がにじんでいる。
靴に加え、絹の靴下もそっと取り去ると、少女はコレットの足を近くの沢で濡らしたハンカチで綺麗に拭いていった。
その後、布を割いただけのものを、まるで包帯のように器用に傷口にまいていく。一通りの手当が終わり、再び靴下と靴をコレットに履かせた。
「ご無理をおかけして申し訳ございません。お辛いとは思いますが、いつ追手がかかるかわかりません。もうしばらくご容赦くださいませ」
少女の謝罪に、コレットは静かに首を横に振る。
「いえ、助けてくれてありがとう」
「もったいないお言葉です」
「でも、どうして?」
コレットの問いに少女は意味が解らないように首をかしげた。
「どうして私を助けてくださったの? 地下室から助けてくださったことも、こうして逃がしてくださることも」
それにと、コレットは言葉を続けた。
「クリプトンホテルで、私を助けてくださったのもあなたですよね」
深く帽子をかぶっているが、後ろからわずかに見える髪色は黒である。この国に、ブルネットや暗い暗褐色など、黒と形容される髪の人たちの人数は決して少なくない。
だが、クリプトンホテルでのあの事件のとき、暗がりで薬をかがされて意識がもうろうとしていたとは言っても、何故かコレットにはこの少女があの時の人物と同じ人だという確信があった。
だから、急に地下のあの部屋の前に現れたときも、素直に彼女の指示に従うことができたのである。
「わたしは、あなたさまをお守りするようにと、ある方からの命をうけております」
「その方は?」
「申し訳ございませんが、それをお話するわけにはまいりません。ただ、そのお方はあなたさまが危険な目にあったり、ましてや命の危機に面したりすることを望んではおられないということだけは、ご理解いただきたいのです」
「はい」
どうしてかはわからないが、誰かがこの少女をコレットの近くにおき、自分を守ろうとしてくれていることだけはよくわかった。
今回、コレットがかかわることとなったのは王族の関わる事件である。
貴族間の細かい勢力図まではわからないが、公にコレットの味方をすることは、いろいろな意味でその立場を危うくする可能性もあるのだろう。ただ、そんな中でも自分を気にかけ、守ろうとしてくれている人がいることが、コレットには嬉しかった。
だから、相手が望まないのならこれ以上を訊いてはいけない。それでも、コレットはどうしても尋ねずにはいられなかった。
「でも、ひとつだけ。それは、その方は」
わずかな期待にすがりつくように、コレットは少女に問いかける。
「その方は、フィオンさま。バード公爵さまではないのですか?」
少女がじっとコレットを見る。
交わった視線を申し訳なさそうにそらすと、少女はゆっくりと首を横に振った。
「その方のことは申し上げられません。ですが、わたしの主人は王弟殿下ではないとだけはお答えしておきます。すみませんが、これ以上はご容赦ください」
主人につながる可能性があるため、名を明かすこともできないという少女に、コレットはそれ以上の追及をやめる。
「いえ。答えてくれてありがとう」
クリプトンホテルでの反応からも、フィオンとこの少女につながりがあるようには思えなかった。違うと頭ではわかってはいても、フィオンが今でも自分のことを気にかけていてくれるのではないかと淡い期待を抱いてしまう自分に、コレットは自嘲するように笑う。
周りの様子を確認してくるためこの場で休んでいるようにと言い残し、少女がコレットの傍から離れた。
汗に張り付くように首のまわりにまとわりついていた髪を、コレットは手で軽くまとめ左肩の前へとたらした。それだけで首回りにこもった熱が逃げ、かなり涼しく感じる。背中の中ほどまである長い栗色の髪は、外出の際には高い位置で結い上げていたのだが、攫われたときにほどけてしまったようだ。
これからあとどれくらい逃げなければいけないのか、コレットにはわからない。
ちゃんと逃げきれるのだろうか……。
ぎゅっとコレットは目を閉じた。不安にかられそうになる気持ちを落ち着けるため、胸元に手を伸ばす。
はっとして、コレットは目を開けた。
慌てて胸元を見る。
そこにあったはずのネックレスが、なかった。
首に手をあて、服の中に入り込んでいないか確認するが、それらしい感触はどこにもない。
(落した?)
立ち上がると、座っていた自分のまわりを見回す。しかし、ネックレスは見当たらない。
最後にネックレスを見たのは閉じ込められた地下室だった。
あの時までは確かにあったのだから、落したのは地下室から逃げるときか、またはこの森の中で歩いていたときか……。
逃げている途中である。
探し物があるからといって、今来た道を戻ることも、ましてやあの地下室に捜しに行くなどできるわけがない。
先ほどまで歩いてきた道を茫然と見つめると、コレットは力なくその場に座り込んだ。
あのネックレスは、フィオンと自分をつなぐたった一つの形見のようなものだった。それがなくなってしまったことで、本当にフィオンとの絆がなくなってしまったような喪失感がコレットを襲う。
「大丈夫ですか?」
しゃがみ込むように座っていたコレットに、その場に戻ってきた少女が慌てて近づいた。
コレットの顔は真っ青だった。先ほどそばを離れたときとは明らかに顔色が違う。
「ええ、すみません。大丈夫です」
そう言って力なく微笑むコレットに、少女はわずかに眉根をよせた。
仕方がなかったとはいえ、逃走での無理がたたり貧血を起こしたかもしれない。少女がそっとコレットの頬に触れれば、先ほどとはうって変わって血の気が引き冷たくなってきている。
逃げてきた道を少女は振り返った。
逃げる際に、少しでも時間を稼げるようにと扉を箱で固定し、犯人たちを睡眠薬で眠らせてきた。すぐに目が覚めることはないはずだが、あの場に仲間が戻ってきたら思ったより早くに追手がかかる可能性もある。
コレットを連れての逃走は、動きなれた男の足ではすぐに追いつかれてしまう。
せめて姿を隠す場所までは逃げ切らなくてはならない。
「もう少し先に小さな山小屋があります。そこでしばらく身を隠しましょう。何とかそこまでお願いできますか」
少女の問いに、コレットは小さく頷いた。




