53.決意
「思ったより元気そうで安心しましたわ」
マカリスター男爵家の応接室の一室。窓際に置かれた椅子に腰をかけると、エリサはそう切り出した。
木々が夏の日差しを遮り、中庭に面した窓からは木々を通り抜けたひんやりとした風が心地よく入り込んでくる。その風を頬に感じながら、コレットもエリサの隣に腰をおろした。
それで、とエリサは言葉を続ける。
「フィオンさまから、連絡はきていますの?」
バード公爵フィオン・アルファードが解毒薬を服用してから十日。
体調を崩して倒れ、その後誰とも面会せずに療養していたバード公爵が、先ごろ王宮への出仕を再開したとの話が流れていた。
エリサの問いに、コレットはゆるく首を横に振る。
「まったく?」
「いえ、まったくというわけではありませんけれど……」
そう言いながらも、コレットは言葉を濁した。
解毒薬服用後、フィオンの目が覚めたという話を聞いて父親であるマカリスター男爵は彼のもとにお見舞いの手紙を出した。本来なら、手紙だけで済ませるにはマカリスター男爵家は今回の事件に大きくかかわりすぎているが、フィオンの体調のため面会ができないとなれば、見舞に行くこともはばかられ、手紙のみのあいさつとなってしまっていた。
その手紙を出す際に、コレットも彼への手紙をしたためた。
父親も確認する手紙である。
自分のフィオンへの気持ちなど書けるはずもなく、体調を気づかうむねの内容であったその手紙に返されたのは、マカリスター男爵家に届けられた一通の手紙だけだった。
代筆で返されたその手紙には、すべての面会を断っているものの、体調は回復に向かっていること。そして何らかの際にはこちらから連絡することが記されていた。そう言われてしまえば、マカリスター男爵家の方から連絡するすべはなく、そのまま現在にいたっている状態なのである。
代筆の上、事務的に返された手紙からは、フィオンの本心を垣間見ることはできなかった。いや、その手紙自体が、すでに彼の答なのかもしれないけれど……。
コレットの表情に、今、ちまたで流れ始めた噂を思い出し、エリサはため息をついた。
解毒薬を服用した王弟殿下は、直後に倒れられたものの、その経過は良好である。
惚れ薬の影響下で寵愛深かった令嬢とは、現在まったく連絡をとっておらず、王宮へ上がった後も、その話題に特に興味を示すこともなくなった。涼しげなその表情から、解毒薬の効果は良好であるようだ、というのがここ数日王都でのもっぱらの噂である。
これでやっと惚れ薬服用前に戻ったと、特に娘を持つ貴族たちはほっと胸をなでおろしていた。
目の前のコレットの様子から、あながち噂がまったくのデマではないことが推察される。
フィオンの解毒薬服用後、ずっと自宅にいたであろうコレットの耳に、どのくらいまで噂が入っているのかは疑問であるが、噂の渦中にいるマカリスター男爵家にまったくそれが伝わっていないとは考えにくかった。
「大丈夫ですの?」
自分を気づかわしげに見つめるエリサに、コレットはふんわりと微笑んだ。
「はい……」
「嘘つきね」
エリサはコレットの頬に優しく触れた。
泣きはらしたであろう目もとの跡を、そっと指でたどる。
「私も、たくさん悩んだりもしましたけれど……」
「けど?」
「片思いから、始めることにしました」
「……片思い?」
目をぱちぱちと瞬かせ、エリサはコレットの言葉を繰り返した。
「はい。それが難しいことかは、分かっているつもりです。でも……」
気持ちを簡単になくすことはできませんから、とコレットは続けた。
王弟でもあり、国内でも屈指の名門バード公爵家の当主でもあるフィオン。一地方領主のマカリスター男爵家の娘が恋い焦がれて叶う相手ではない。
それでも、芽生えてしまったこの想いを消すことなんてできなかった。
「苦しいですわよ?」
ただの片思いならば、ほんのわずかの幸せでも心温め期待することもできる。
しかし、今までのフィオンの言動と比べてしまえば、コレットに興味をなくしてしまった彼と会うことは、より一層苦しみを大きくするだけである可能性が高い。
さらに周囲の目は、王弟殿下の寵愛を失った少女が無駄にあがいているとコレットを見ることだろう。
「生きていてくださるだけで、再び会える可能性があるだけで幸せなんだと気が付きましたから」
それに、とコレットは言葉を続ける。
「私、今までフィオンさまの言葉をどこかで信じていなかったような気がするんです。惚れ薬を服用されたから、その影響があるからの言葉ではないのかと」
それは、いつもコレットの胸にあったことだった。
信じたくて、でも信じきることができなくて。その迷いが、彼を愛しいと想う気持ちを苦しめてきた。
「これからは、疑いを持たずに信じられる、それだけで少しは楽なのかもしれません」
その言葉が、たとえコレットの傷を深くするものであろうとも。
「それに、いくら薬を服用していたとはいえ、フィオンさまはずっと私にはっきりとした好意を示してくださっていました。その時、私は今の私と同じ思いをフィオンさまにさせていたと思います」
だから、フィオンは最後に会ったときコレットにあんな言葉を言ったのだ。
「コレット……」
「今度は私が片思いから始める番です」
そういうと、コレットはエリサがはっとするほど美しい微笑みを浮かべた。
玄関ホールまでエリサを見送ると、コレットはそのまま庭へと足を踏み出した。
木陰のベンチに腰を下ろし、濃い青空に浮かぶ輝く雲の流れをぼんやりと見上げる。
片思いから始める――。
心の中でもう一度つぶやくと、コレットは小さく息を吐いた。
倒れたフィオンの無事を願い、心が押しつぶされそうになっていた数日間。ようやく彼が目覚めたと、ほっと胸をなでおろしたのもつかの間。フィオンはコレットへの興味をなくしたようだとの噂がちらほらと聞こえだした。
いくら父や母が気を使っても、噂などどこからともなく入ってくるものだ。
それをコレットに聞かせたいと思っている人物が、王都には少なくないのだから。
そして、その後のフィオンのふるまいが、噂はただの噂ではなく、真実なのだということをコレットに突きつけてくる。
フィオン自身にあって話をするまでは、わからない。彼の言葉だけを信じたいと思ってはいても、まわりの状況はそれを許さないようにコレットを追い詰めていく。
たくさん悩んで、苦しんで、それでも想いを消すことなんてできなくて出した答え。
しかし、フィオンにとってはすべて終わったことで、薬のせいで悪い夢を見ていたようなものだったのかもしれない。コレットとのことも、もう決別することを決めてしまっているのかもしれない。
最初の婚約者には振られてしまい、次に好きになってくれた相手は惚れ薬を飲まされていた。そんな状況だから、自分に興味をなくしたフィオンを振り向かせる力がないことは、コレットが一番よく分かっている。
それでも、たった一言でも自分の想いを伝えたかった。
最後に会ったあの時。
あの日のフィオンの顔が、表情がコレットの頭から離れない。
思い出し、コレットの胸がツキンと痛んだ。
ぎゅっとこぶしを握りしめると、痛みに耐えるように胸に押し当てる。
あの日から、何度も感じる痛み。大切な人を失うかもしれない恐怖に、心が悲鳴を上げている。しかし、こんな痛みはなんでもないとコレットは自分に言い聞かせた。
彼の言葉を信じきれていなかった自分。
そんな自分の態度が、どれだけフィオンを苦しめていたことだろう。
今度はそれを自分が背負う番なのだ。
フィオンの最後の問い。それに答えを返したかった。本当の自分の気持ちを伝えたかった。
たとえその答えに、今は何の意味もないとしても――――。
階段を降りてきたジェシカは、玄関から入ってきた人物を見つけると、ぱっと顔を輝かせて足を速めた。
「叔父さま」
「ああ、ジェシカ。兄上はいるかい?」
「お父さま? 確かまだ外出先からもどってきてはいなかったと思うけど、何かご用だった?」
「相談したいことがあったんだが、まあいい」
この家の当主がいない中、ギルダスはまるで自分がこの家の主人であるかのように足を進め、ジェシカと兄ランデル子爵の書斎へと足を踏み入れた。
使用人を遠ざけ二人だけになると、ジェシカは待ち切れなかったように口を開いた。
「叔父さま、王宮へはもう行かれたの? フィオンさまのご様子はどうでした?」
ジェシカの元にもちらほら聞こえてくる噂。
その噂の真相はどうなのかと、ジェシカは期待を込めて目を輝かせる。
「王宮へはこれからだ。だが、バード公爵に会った人物から話を聞いたが、解毒の成功はほぼ間違いないようだな」
その答えに、ジェシカの表情がぱっと明るくなる。
「よかった。これであの女が我が物顔で殿下のおそばにいることもなくなるのね」
惚れ薬の効果で、王弟フィオン・アルファードの隣にいることになった少女。
それを思うだけで、ふつふつとわきあがってくる怒りを止めることができなかったが、これでようやく安心できるというものだ。
「そうだわ。お父さまにどんな相談だったの?」
「トリーヌのことだ」
「トリーヌ?」
「あれがいつまでもこの家にいると、あとあと面倒なことになる」
その意味するところに、ジェシカの顔にさっと影が落ちる。
粗忽者で、失敗をすることもある侍女だが、トリーヌはジェシカの言うことを告げぐちすることもなく実行する。何かと都合がいいメイドだった。
ジェシカの考えていることを察し、ギルダスは言葉を続けた。
「別に、殺すと言っているわけではない」
「じゃあ」
「とにかく、トリーヌはルノワール伯爵家や牢獄で顔を見られている。このまま王都にいては、誰に見つかるともしれない。いつまでもこの屋敷にいるのは危険だ」
今までは、下手に移動して見つかることを懸念していたが、今後も家の中に閉じ込めてばかりいるわけにはいかない。
さらに、ランデル家やギルダスの家にいることで、見つかった場合に申し開きができなくなる。
「トリーヌには、王都を離れてもらう。王都から離れた場所で、目立たぬように暮らせばまず見つかることはないだろう」
殺してしまって、その遺体を見つけられた方が後々面倒になる可能性がある。
遺体が見つかった場合、惚れ薬の犯人であるとばれてしまうとともに、どこかでジェシカと一緒にいたことに気が付くものがいるかもしれない。
薬の一件があるまで、トリーヌは普通の侍女が行うように、いつもジェシカの身の回りの世話や付添などをこなしていたのだから。
「トリーヌを別の場所まで移す。もうその手筈は整えてあるから、今日の夕方には行動ができる。そのことを報告しに今日は来たんだが」
兄であるランデル子爵は外出中だったというわけだった。
「それにしても、カイサルを始末してしまって本当によかったんですの? こんなとき役にだったでしょうに」
「死人に口なし。あいつはいろいろ知りすぎた。せめてあの女を始末できれば、逃がしてやってもよかったが、あの状態ではな。あそこで捕まえられるわけにはいかなかった」
まだカイサルの遺体があがったとの報告は聞いていない。しかし、ギルダスはカイサルの死を確信していた。
「それは、そうかもしれないですけど」
「今回の件は他の人間を手配してある。問題はないよ」
ちらりと時計を見ると、ギルダスは立ち上がった。
「お父さまを待たないんですの?」
「私はこれから王宮に呼ばれている。カイサルの件で報告を求められているからね。また帰りによる」
カイサルを撃った時に捨てた銃が、どうやら見つかったらしい。そのどちらもが牢獄で使用しているものと同じとなれば、それについての説明を求められるのは仕方がない。
「大丈夫ですの?」
「なに、これも想定のうちだ」
少し考えて、ジェシカは口を開いた。
「叔父さま、わたしも王宮へ連れてって」
「遊びにいくのではない。私は仕事として王宮へ出仕するんだ」
「お仕事だから、他のことが確認できないでしょう? かわりに王宮でいろいろと話を聞いてくるから」
「お前が気になっているのは、バード公爵の現状だろう」
「そうよ。悪い?」
じっとジェシカを見る。
確かに、王宮での情報は多いにこしたことはない。ジェシカの急な動向も、バード公爵の体調を気にしてということであればなんとか言い訳になるだろう。
「……わかった。ただし、あまり目立つことはするな。自分の立場は分かっているな」
この一連の惚れ薬事件。
首謀者は間違いなく、目の前にいるこの少女なのだから。
「わかってるわ、叔父さま」




