51.夢
赤い絨毯のしかれた大階段。よくみがきこまれた手すりは、大きなシャンデリアの光を受けてきらきらと飴色に輝く。
その階段を少年は軽い足取りで駆け上がると、最後の階段を飛び越えて両足をそろえて着地した。やわらかな絨毯は少年の足音を吸収し、勢いのわりには静かな靴音だけが小さく響く。
その動きで、少年のプラチナブロンドの髪が揺れた。
額にかかった髪を気にすることもなく、少年はそのまま走り出した。しかし、廊下を曲がったとたんに聞こえた声に、ぴたりと足をとめる。
今向かおうとしていた場所から、自分の名が聞こえたような気がした。そう思えば、歩調ゆるめ足音をしのばせながら部屋へと近づく。
「お父さまは、フィオンのことが可愛くはないのですか!?」
「それとこれとは別の問題だ」
母親の言葉に、祖父であるバード公爵がため息交じりでそう答えるのを、フィオンは扉のそとに立ったまま耳にする。
母親が祖父に自分のことで何かを申し出ている姿を聞くのは、これが初めてではない。
いつものことなのだから、この場から離れればいい。そう思っても、フィオンの足はその場から動かなかった。
「王の実子なのですから、フィオンにだって王位継承の権利があるはずです。お父さまが賛成してお力添えをくだされば、あの子が王になることは」
「サラ!」
一人まくしたてる王妃に、父であるバード公爵は強い口調でそれを止めた。
王都から離れたバード公爵領。その荘園屋敷の中とはいえ、王妃がめったなことを口にするものではない。
「ここでそれ以上口にすることは許さぬ。フィオンはバード公爵家を継ぐ身。それは王妃となるときに、そなたも納得していたはずだ」
「その時とは状況が違います」
「何も変わってなどいない」
重い沈黙が部屋を包む。
「わたくしは諦めませんわ、お父さま。これはフィオンのためなのですから」
そう言った後、自分の方に近づいてくる足音に、フィオンは慌てて扉から離れた。
部屋から出てくると、サラは階段の近くにフィオンを見つけ嬉しそうにほほ笑んだ。
美しい王妃の笑顔は、それだけでまわりが明るくなったかのように感じられる。
「フィオン、元気にしていましたか? おじいさまがあなたをバード公爵領に連れて行ってしまわれたから、とても寂しく思っていましたのよ。明日には王宮にもどります。仕度をなさいね」
そういって優しく自分を抱き寄せ髪をなでる母親を、フィオンはじっと見つめた。
自分にはいつも優しく接してくる母親。
しかし、先ほどの荒げた声も確かに彼女のものであったのだと、幼いフィオンにもわかっていた。
「さあ、こちらに来てどんな風に生活していたのか、母さまにおしえてくださる?」
にこやかに自分の手を引こうとした母親から、フィオンは一歩離れた。
「フィオン?」
「母さま。明日発つのなら、おじいさまにもごあいさつをしていかないと」
母親の顔が少し曇るのをみて、フィオンは可愛らしくにっこりとほほ笑んだ。
「お話が終わったら、すぐにお部屋にうかがいますね」
扉をたたいて入ってきたフィオンを、祖父であるヘンリーは優しく微笑んで迎え入れた。
近くに呼び寄せると優しく頭をなでる。
「今日は乗馬をしてきたのだったね。どのあたりまでいってきた?」
「メイフィスの森を抜けて、高台まで行ってきました」
「そんなに遠くまで行ってきたのか。フィオンは乗馬の上達が早い」
「いえ、セントリースはよい馬ですから」
いつもはその日にあったことを楽しそうに話すフィオンの声が沈んでいるのに気が付き、ヘンリーはため息をついた。
「聞いていたのか?」
先ほど交わされた祖父と母親、二人の会話を。
返事をしないフィオンに、ヘンリーは自分の予想が当たっていたことを確信する。
「フィオン、おいで」
言うとヘンリーはフィオンを抱き上げ、出窓の台の上に座らせた。そこからは、窓外に広がるバード公爵領がよく見える。
「フィオン、お前は王になりたいか?」
「……わかりません」
「そうだな」
いくら母親である王妃があの状態でも、まだ十にも満たない少年にその質問は難しいだろう。
「私は別に、お前が王に相応しくないと思っているわけではないよ。もし、お前が王位についたとして、それを立派にやりとげられるとも思っている」
今の幼いフィオンでは、王位を継ぎ、国を治めることは困難かもしれない。しかし、彼が成人になるころには、国内をまとめ導いていく力があると確信している。
年若くも、聡明で人当りがよく、自然と皆を引き付ける魅力を持った王子。王となる資質を兼ね備えているからこそ、その母親である王妃は諦めがつかない。
「兄をどう思っている? 嫌いか?」
母親があの状態なので、同じ王宮に住んでいても会うことすらままならない実の兄。
「……」
「ここには私とお前しかいない。はっきり言っていい」
「……嫌いじゃないです」
「そうか」
母親が嫌っている実の兄。
フィオンを王にと望むものにとっては、確かに現在王位継承第一位にいる兄パトリックは目障りな存在かもしれない。そんな状況下、フィオンを敬遠してもおかしくないであろうパトリックは、フィオンに対してそんな政争などないかのように接していた。
王位に執着していないのか、それともただ愚鈍なだけなのか。そのような意見が飛び交う中、ヘンリーはそれとは違う印象を受けた。
パトリックは、フィオン自身が敵対しているわけではないことを知っているだけだ。そして、フィオンもそんな兄に信頼を寄せているように見える。
このような状況で、まわりをしっかりと見つめ現状を把握しているパトリックは、信用に足る人物であると思う。
「お前が望むのなら、私はお前を王位につけるために尽力もしよう。だがそのためには、パトリック殿下を排除しなくてはならない。国は荒れるだろう」
王位継承第一位であるパトリックを排除することは、それ相応の理由が必要となる。それが不当であれば、次期王たるものの正当性も失われてしまう。
王家が弱体化すれば、それを狙って国内外にも波紋を及ぼしていく。
「国を守るためには、王家の安泰も重要だ。今の状況でお前が王位を継ぐには、犠牲が多すぎる」
国を分断するような危機は避けなくてはならない。
例え王になったとしても、フィオンにそれらの犠牲を上回るだけの益はどうみても見込めないことを、ヘンリーはひしひしと感じていた。
「パトリックがお前を排除しようと動くのであれば、私は必ずお前の側につこう。しかし、お前が兄を信じられるのであれば、お互いを支えあって生きていく道もある」
祖父の言葉が、フィオンの胸にゆっくりとしみこんでくる。
「見なさい、フィオン」
ヘンリーはそういうと、窓を開け放ち、フィオンに外を見るよう促した。
窓の外には、高大なバード公爵領が広がっている。
「この地は、お前のものだ。ここはいつでもお前を受け入れる。どんなときでも、どんな状況でも。だから、いつでも帰ってきなさい」
開け放たれた窓からは、夏の濃い緑の匂いがした。
ゆっくりと意識が浮上してくる。
重い瞼を開けると、フィオンはベッドの上で目だけを動かしてあたり見回した。王都にある、バード公爵邸の自室であることを確認すると、深く息を吐いた後に体を起こす。
体を起こし、額に流れる汗をぬぐう。
喉の渇きを覚え、フィオンはベッドから起き上がった。
立ち上がった瞬間にめまいを覚える。何とか踏みとどまると、テーブルにあった水差しからグラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。
久しぶりに昔の夢をみた。
ぼんやりと、見ていた夢のこと思い出す。
幼いころ、あれはまだ王である父も王妃であった母も存命だったときだ。あのころの母親の態度は、今思えばまだましだった。その後、父親が死んだあとの母親の王位への執着は強まる一方で……。
そこまで思いを巡らせると、フィオンは近くにあった肘掛け椅子に腰をおろし、大きく息を吐いた。
いつのころからだったろうか、母親が自分を王位につかせたいと望むようになったのは。
どうして母親があんなに王位に執着していたのか、結局フィオンは知ることができなかった。ただ、その命が尽きるときまで、フィオンに王位を継がせたいそれだけを願っていた。
祖父は、母親が王妃となる前からそのことを危惧していたのであろう。
フィオンが生まれる前から、フィオンの母親サラが生んだ男子をバード公爵家の跡取りとすることが決まっていた。
王とその弟では、国の中での権力に大きな差がでる。
それを不満と思わないように、王弟という地位だけでなく、国内有数の大貴族であるバード公爵位を受け継ぐことによって、国内での立場は盤石となるようにと。
隣のドレッシングルームに人の気配を感じ、フィオンは顔をあげた。
「失礼します」
小さなノックの音の後、バード公爵家の従者であるロイドとその後ろにもう一人見覚えのある人物が姿を現した。
自分が解毒薬を飲むその時にも立ち会った、公爵家付きの医師である。
「公爵、お目がさめましたか。ご気分はいかがですか?」
「まあ、いいとは言い難いかな」
そう言うと、フィオンはにっこりとほほ笑んだ。
「僕に恨みでもあった?」
「は?」
「解毒薬に殺されるかと思ったよ」
あながち冗談ともいえないセリフに、医師は目を見開くと大きな声で笑う。
「公爵、そのお言葉は医師長の前ではおやめになってください。卒倒しかねません」
「彼らにこそ、言ってやりたい気分だけどね」
そういいながら、真面目な医師長たちの反応を想像し、フィオンと医師は目を合わせてもう一度笑った。
「あれからどのくらいたった?」
自分が薬を飲んでから。
「三日です」
「そう……」
それだけ寝ていたのなら、体に感じる倦怠感もふらつくのも仕方がないか。
「とりあえず、診察をお許しください。それと軽めのお食事を」
「あまり食欲はないけれど、仕方ないね」
少しは食べなければ、体力の回復は見込めない。
フィオンがうなずくと、ロイドは食事の準備のためにと部屋を後にした。
「僕は、いつ公爵家に戻った?」
「倒れたその日の夕方でございます。ご自分で大丈夫だから戻るとおっしゃって、覚えてはいらっしゃいませんか?」
そういわれれば、そんなことを言ったような気もする。
しかし、薬を飲んだ後の記憶はあいまいだ。
「まず診察の前にベッドにお戻りください」
「まるで病人扱いだね」
そういって肩をすくめると、フィオンは椅子から立ち上がった。




