50.急変
「バード公爵には、今後体調の変化などが起こる可能性があります。しばらくの安静が必要になります」
医師長は深々と頭を下げ、王にそう申し出た。
先ほど毒見をした医師もまだこの議場内に残っている。今のところ、彼になんら異常な所見は現れてはいない。今までの毒性試験でも大きな問題は生じてはいないが、体に惚れ薬が入っていてそれを解毒する立場と、その影響が体内にないものとでは状況がことなる可能性がる。
「フィオンは十分な休息を取るように。ここからの退出を許そう」
「お待ちください兄上」
口直しのためにと渡されたワイングラスをテーブルに置くと、フィオンは王に向き直った。
「どうした?」
「このまま僕がこの場を退出すれば、後々納得できないものも出てくるかもしれません。後から、解毒薬をもどしたのではないかと疑いをかけられても困ります」
吐いてしまっては、解毒薬の意味をなさなくなる。不安要素は少しでも残さない方がいい。
「皆が納得するだけの時間、もうしばらくこの場にとどまることをお許しください」
「薬が体内まで入るにはどの程度の時間が必要だ?」
「半時もあれば十分と思われますが」
医師の言葉に、王はうなずいた。
「では、その時間ここにとどまることを許そう」
「ありがとうございます。みなにも、もうしばらくお付き合いを願います」
あたりにそう声をかけると、フィオンはようやく椅子に腰を下ろした。
時間がとてもゆっくりと流れているような気がする。
事の成り行きを見ていたコレットは、息が詰まるような緊張のなかじっと座っていることしかできなかった。
震えてくる手を抑えるように、膝の上でぎゅっと握りしめる。息苦しくて、なんだか頭がくらくらしてきそうだった。
医師たちがフィオンの脈をとったり、体温を確認したりと、彼の体調に変化がないかを確認している音だけが議場内にわずかに聞こえるだけで、皆がまんじりと事の成り行きを見守っている。
「バード公爵?」
その沈黙を破ったのは、医師の声だった。
皆がフィオンの方を見たのが気配でわかる。コレットも、気を失うのではないかという緊張のなか、はっとして顔を上げた。
椅子に座ったままこめかみのあたりを押さえてうつむいているフィオンに、医師がどうしたのかと顔をのぞきこんでいる。
促され顔をあげたフィオンは、遠目に見ても顔色が悪い。大粒の汗が玉を結び、額から流れ落ちた。
「ああ、……大丈夫だ」
「ですが、お顔が真っ青でございます」
医師長は慌てて王に頭を垂れた。
「陛下。バード公爵の体調が急変いたしました。このままこの場所にいては体への負担が大きいと思われます。どうか退出のご許可を。」
先ほど言った半時にはまだ届かないが、体に影響が出ている時点ですでに薬の効果があると考えていいだろう。
「先ほど飲んだ毒見役は問題がないというのに、どうしてこのような症状が出るのだ」
王のいらだったように声を荒げた。
「おそらく、惚れ薬の影響があるものと」
「皆の者も、解毒薬の服用に関しては納得したであろう」
フィオンの状態に、王の言葉に異議を唱えるものはいなかった。
「退出を許可する。早くフィオンの治療にあたるように」
「ありがとうございます」
素早く医師長は踵を返し、あたりの医師の指示を出す。
医師に体を支えられながら、フィオンは椅子から立ち上がった。しかし、フィオンはそのままふらつきテーブルに手をつく。
だが、その手でしっかりと体を支えることができず、そのまま横にずれるように倒れた。そのときフィオンの手が、先ほど薬を飲んだ銀杯にあたると、そのまま床へと転がり落ちる。
「公爵っ!!」
近くで呼んでも、フィオンの反応は鈍い。
それでも何とか意識を保ち、フィオンは駆け寄った医師たちの声掛けにわずかにうなずいている。
医師たちに支えられながら立ち上がったフィオンが一瞬コレットの方を見た。目の前で起こっていることに茫然と立ちつくしていたコレットに、フィオンがほほ笑んだ、そんな気がした。
いつの間に立ち上がっていたのか、わからなかった。
ぽんと肩をたたかれると、びくりと体を震わせ、コレットはゆっくりと振り返った。コレットより一段高い場所にいた王妃が、コレットの肩に手を置いて彼女を気遣わしげに見下ろしていた。
「大丈夫? お顔が真っ青ですわ」
倒れたフィオンと遜色ないぐらいに顔色の悪いコレット。その手を王妃はゆっくりと取った。
強く握りしめたせいか、真っ白に血の気を失った手を温めるようにそっと両手で包む。
「フィオンは大丈夫」
「王妃さま……」
「大丈夫よ」
そういって、王妃はコレットに優しく微笑みかけた。
馬車の揺れが止まった。
マカリスター男爵家の前に馬車が止まると、出迎えに出ていた執事が扉を開けた。マカリスター男爵は馬車を降りると持っていた帽子を執事に預けた。そのまま家に入ろうとし、しかし、自分の後ろに動く気配がないことに振り返る。
馬車が止まったことすら気が付かなかったように、ぼんやりと馬車の中で座ったままの娘にため息をつく。
「コレット」
返事がない。
男爵はもう一度馬車に乗り込むと、座ったままのコレットの肩に優しく手を置いた。
びくんと震え、コレットが頭をあげる。
「家についた。馬車から降りなさい」
「……はい」
消え入りそうなくらい小さな声でうなずくと、コレットはようやく馬車を降りるために腰を上げた。
頭の中が真っ白になって思考が動かないまま、コレットは自室へと入っていった。
なんだか頭が混乱していて、いろんなことが現実味がない。
王宮からの迎えがきて、フィオンに会った。そのあとフィオンが解毒薬を飲んで……そして、倒れた。
大粒の冷や汗をかいて倒れたフィオン。あれは、まぎれもなく現実だった。それを思い出すだけでコレットの体が震えてくる。
解毒薬を服用することは、惚れ薬の効果をなくすことだと思っていた。
まさか、それ以前にフィオンの体調があんなに悪くなるなんて考えてもいなかった。
王宮を出る前に、王妃がコレットを気遣って声をかけてくれたことも、父親がコレットを連れて帰ってくれたことも、それに自分がどんな反応をしていたのかよく思い出せない。
ただ、王妃が去り際に言った一言だけが、コレットの耳に残っている。
(フィオンさまは、大丈夫。大丈夫)
自分に言い聞かせるように何度も何度も繰り返し、震える体を抑えるようにコレットは自分の体を抱きしめた。
解毒薬を服用して倒れたフィオン。
もし、あのまま目が覚めなかったら……。
何度大丈夫と言い聞かせても、不安は波のように押し寄せてきて、コレットに襲い掛かった。
フィオンが自分を好きではなくなる。それどころの話ではない。もし、もう二度と会うことができないようなことになったら……。
ぞくりと、コレットの背筋に冷たいものが流れた。
考えてはいけない。
そんなことは絶対にない。
大丈夫、大丈夫……。
しかし、何度言い聞かせても言い聞かせても、震えはどうしても止まってくれそうになかった。
『僕の気持ちは、迷惑なだけだった?』
コレットの脳裏に、フィオンの言葉がよみがえった。その時の切ない表情とともに。
はっとして、コレットは大きく目を見開く。
解毒をする直前まで、自分のことを大切にしてくれたフィオン。フィオンには、いつでもたくさんの愛情を注がれていた。それなのに、自分はずっと彼にそんな思いを抱かせていたのだろうか。
どうして、自分は彼にちゃんと気持ちを伝えなかったのだろう。
薬のせいだとしても、フィオンはそれをわかったうえで自分の気持ちと向き合い、コレットにまっすぐに気持ちを伝えていたのに。
「そう、なんだ……」
力が抜けたように、コレットはそのままペタンと絨毯の上に座り込んだ。
そうなのだ。
結局、惚れ薬にこだわっていたのは、他の誰でもないコレット自身だった。
フィオンを信じたいと思いながら、その実、一番彼の言葉を信じていなかったのは自分だったのではないだろうか。
だから、いろいろと言い訳を付けて自分の気持ちと向き合うことができなかった。
コレットの目から涙があふれた。
「お願い、無事でいてください」
コレットは祈るように震える両手を合わせた。
今のコレットには、ただ祈ることしかできなかったから。
「フィオンさまを助けて……っ!」




