48.不安
古い階段は、おりるたびにギシギシと嫌な音をたてる。
できるだけ音をたてないようにと足を忍ばせるが、階段をおり廊下に踏み出したときにもっとも大きく床がきしむ音が響き、ルッツはその場に立ち止まったまま大きくため息をついた。
古い集合住宅。
部屋には小さな暖炉があり、わずかに煮炊きができるだけの簡素な部屋の集まりである。床や階段は今にも抜けそうなほどに歩くたびにきしむが、まだ抜けた箇所がないだけましといったところだろうか。
音をたてずに歩こうとしてみても、気にすればするだけ大きな音が出てくるような気がする。ルッツは音をたてずに歩くことを諦めて歩き続けた。
少し傾いた玄関のドアを開けると、人がいないことを確かめて外にでる。
別に自分が悪いことをしているわけではないのに、人目を気にしているような自分の行動に、今日何度目かわからないため息がでた。
(まったく、引き受けるんじゃなかったかなぁ)
心の中でそうごちると、ルッツは足早にその場を立ち去ろうと歩調を速めた。
二件先の建物の路地を曲がって裏道を進んでいけば、人目につかずに通りにでることができる。そうすればそこから乗合馬車に乗って、と頭の中で道筋を確認しながら古い石畳を足早に進んでいく。
(それにしても、どうするかな。これ)
ルッツは手に持っていた鍵に目をおとす。
この鍵を渡す人物。
ルッツの頭の中に、以前に会ったとある人物の顔が自然と浮かんできた。しかし、つてがあるわけでもないルッツが簡単に会える人物ではない。
(まあ、もうしばらく待ってみるか)
手のひらの鍵をぎゅっと握り締めると、それを懐にしまいこんだ。
そのまま路地に入ろうとした瞬間、ぐいっと肩をつかまれ、ルッツははじかれたように振り返った。
見られるな、それが依頼の第一条件だったのに……。
一瞬で、冷たい汗が体中から噴出したような気がした。
自分の肩をつかんでいる人物を認識すると、ルッツはあっと声をあげそうになるのをなんとかこらえた。その人物には見覚えがある。
だが、なぜこんなところにいるのだろうか。
「あ、あの……」
「私のことを覚えていたようですね。それなら話ははやい」
相手の意図がくみ取れず、ルッツはごくりと息を飲んだ。
「私と一緒にきていただきます。拒否は受け入れられません」
自分に承諾を求めているわけではないその言葉は、決定事項をただ伝達しているのみ。否など、ルッツには言えるはずもない。
しかし、ここで会ったのも、何かの縁であるのかもしれない。
先ほど頭に浮かんだ人物の顔を、ルッツはもう一度しっかりと思い浮かべる。そして、目の前にいる人物をまっすぐに見つめると、しっかりと頷いた。
「伺わせていただきます。僕もご報告したいことがあったんです」
王宮の一室に通されると、コレットの後ろでパタンと扉が閉められた。
部屋の中にひとり残されたコレットは、ゆっくりとあたりを見渡すと窓辺へと近づく。
部屋の中には、綺麗な絹張りのソファも、飴色に磨きこまれた彫りの美しい木製の肘掛イスも置いてあったが、なんだか座る気分にはなれなかった。
現在いる二階の窓から外を見下ろせば、先ほど自分も通った王宮の門のあたりがよく見えた。
綺麗に整えられた木々が整然とならび、夏の眩しい光を受けて濃い緑色の葉が艶やかに輝いている。室内から見ると、眩しいほどに輝いている外の世界。
その明るい世界から、まるで一人取り残されてしまったような感覚におちいり、コレットはそっと胸元に手をあてる。やわらかな空の色を思わせる青のドレスの胸元にあるのは、花模様のあしらわれたムーンストーンのネックレス。
『癒しの効果もあるから……』
そう言われた言葉が、コレットの脳裏をよぎった。
お守りだともらったネックレス。それをもらった時には、こんなときに頼ることになるとは思ってもいなかった。
少しでも冷静になれるようにと願いながら、呼吸を整えるために大きく息を吸い込むとゆっくりと吐き出す。
それを何度か繰り返したところで、門から王宮へと続くアプローチに馬車が入ってくるのが視界に入り、コレットははっとして顔をあげた。よく見れば、すでに何台かの馬車は王宮に主を降ろしているところだった。
続々と王宮に集まる人々の姿に、否が応でも今日ここで何が行われるのかを目の前に突きつけられたような気がして、ずきりとコレットの胸が痛んだ。
ネックレスに触れていた手に無意識に力が入る。
考えては、いけない。
今自分が何を考えてもこれから起こることは変えようもないことで、この国にとって、フィオンにとっても必要なことなのだ。
王さまに会ってから、何度も繰り返していた言葉を自分に言いきかせる。
だが、悲鳴を上げるように痛み始める胸を沈めることができない。それどころか、これから失うであろうものの大きさが頭をよぎると、コレットの体が小さく震えた。
目の前の光景を見ていることができず、コレットは窓から離れる。
不意に室内にノックの音が響いた。
従僕らしき男性が開いた扉から、フィオンが部屋へと入ってくる。振り返ったコレットと目が合うと、彼は優しく微笑みかけた。
扉が開けられ室内へと入ったフィオンを見ただけで、鼓動は大きく跳ね上がる。
その気持ちを悟られないように視線を落とすと、コレットは膝を折ってゆっくりと頭をたれた。フィオンは、頭をさげたコレットに足早に近づく。
「ごめん。待たせたね」
フィオンはコレット前でひざまずき彼女の手をとると、ゆっくりと指先に口付けを落とした。
そのまま上を見上げたフィオンと視線が絡む。
まっすぐな瞳で熱っぽく見つめられ、コレットは目を合わせることができなくてわずかに視線をそらせた。
自分の気持ちを見透かされそうで、視線を合わせていることができなかった。
口づけられた指先が、熱を持ったように熱い。
視線を合わせなくても、エメラルドの瞳に見つめられていることを感じ、耳朶がちりちりと熱を帯びていくのがわかる。
ぎゅっとコレットの手を握り締めたまま、フィオンが立ち上がった。コレットを促してソファに座らせると、フィオンもその隣に腰をおろした。
「腕の怪我は大丈夫? 痛みはない?」
「はい。もう大丈夫です。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
腕にはもう包帯はしていない。
痣もほとんど治っている。ときどき肘の部分に痛みを感じることもあるが、それは肘をどこか硬い場所にあてたときなどで、日常生活にはまったく問題がない。
「そう。それならよかった」
フィオンの視線が、コレットの首筋に落ちた。そこにあるものを確認すると、フィオンの指がコレットの肩の辺りにそっと触れた。
「着けてきてくれたんだね。ありがとう」
フィオンがプレゼントしたムーンストーンのネックレス。それをなぞるようにフィオンの指が動く。
衣服ごしにフィオンの指先を感じ、コレットの視線が泳いだ。
ちらりと視線をあげると、フィオンがネックレスを見ながらとっても嬉しそうに微笑んでいる。それを見ると、コレットも嬉しくなって頬がゆるんだ。
「……先日はすまなかった。兄上が急に呼び出して、驚かせてしまったね」
少し静かな時間が流れた後、フィオンが口を開いた。
急に話題が変わり、びくんとコレットの肩が震える。
今日、フィオンに会うことになると決まったときから、この話題がのぼることは覚悟していた。覚悟はしていたが、聞きたくない。聞いていたくなかった。
耳をふさぎたい衝動を必死でこらえて、コレットは首を横に振る。
驚いたのは事実でも、フィオンが謝る必要などまったくない。それは王がフィオンやコレットのためを思ってしてくれたことだと、コレットにはよく分かっている。
むしろ今、フィオンに謝られることの方が辛かった。
「兄上からも聞いたとおり、僕はこれから解毒薬を飲まなくてはいけない」
「……はい」
フィオンの言葉に、コレットは頷いた。
頷いた拍子に少しだけ顔をあげると、自分を見つめているフィオンと間近に視線が絡んだ。思考がうまく働かず、視線をそらすことすら忘れて、コレットはじっとフィオンを見つめる。
少し寂しそうに笑うと、フィオンはぽつりとつぶやいた。
「そうしないといろいろ納得しない人たちが多くて、困ったものだね」
困ったように笑いながらも、フィオンの瞳には迷いがなかった。
そう、彼は決めてしまったのだ。
解毒薬の服用とその後のことも……。
王命が下り、フィオンもコレットもそれを受け入れた。それはフィオンを思うゆえの命令だったから、もちろんコレットに拒否などできるわけはないが、自分でもよく考え覚悟を決めたはずだった。
それでも、気持ちは素直に従うことができない。
いったい自分はどうしたいのだろう。
解毒薬を服用することになれば、もうフィオンの言動に薬の影響があることを不安に思う必要もなくなる。国内もこの騒ぎに終止符を打ち落ち着くことだろう。だが、解毒薬を服用することですべてが以前のとおりになるのなら、フィオンとの接点も、こうして言葉を交わすこともなくなってしまうかもしれない。
飲んで欲しい。
でも、飲んで欲しくない。
フィオンのため、国のため、いろいろな理由をつけて自分を納得させようとしても、コレットの中でもどうしたいのか、どうなって欲しいのか、混乱していてよく分からない。
コレットのまぶたが熱くなって、涙が出そうになる。それをぐっとこらえるように、体に力をいれた。
それに反発するように、喉の奥がひりひりと痛んでくる。涙を見られるのを避けるように、コレットは膝の上に置いた手に視線を落とした。
フィオンの手が、ソファの背もたれにのばされたことを気配で感じた。少しだけ意識をそちらに向けた刹那、フィオンがコレットの耳元に顔を寄せる。
触れるか触れないかというその距離に、空気をつたってくるわずかな温もりすら熱い。
「君にとって、僕の想いは迷惑でしかなかった?」
「……えっ?」
耳元でささやかれた声に、ぱちぱちとコレットは目を瞬かせる。
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
(迷惑……?)
迷惑だなんて思ったことなどなかった。
惚れ薬の一件で戸惑ったことは多かったし、危険な目にもあった。それでも、フィオン本人を迷惑だなんておもったことなど一度もない。
迷惑どころか、いつも助けてもらっていたような気がする。
辛いときも、困ったときも、危険な目にあったときも、いつもフィオンがコレットの側にいてくれた。
「どう……して?」
顔をあげれば、辛そうな表情をしながらまっすぐに自分を見つめてくるエメラルドの瞳がある。それは、自分が不安に押しつぶされてしまいそうな表情をしているからだと、コレットには気がつくことができない。
ぽろりとコレットの瞳から涙がこぼれた。
迷惑なんかじゃない。
ただ、好きで、側にいたくて。でも、だからこそどうしていいのか分からなくて。
「ごめん。君には辛い思いをたくさんさせた」
「ち、ちが……」
否定しようと口を開く。
でも、涙が止まらなくて、胸が苦しくて、のどが締め付けられるように痛むから、うまく声がでない。それでも、フィオンの言葉を否定したくて、コレットは必死で首を横に振った。
違う。
違うっ!
迷惑でも、嫌いでもない。私は……。
何とか声を絞り出そうと息を吸い込んだ次の瞬間、コレットはフィオンに引き寄せられた。背中に大きな手の温もりを感じながら、ぎゅっと抱きすくめられる。
動きを封じられるようにすっぽりと抱きしめられれば、フィオンが好きだということ以外何も考えられない。
少しだけ力が緩められ、フィオンはコレットの顔を上にむける。ゆっくりとフィオンの唇がコレットの目元に落ちてきた。それを受け入れながら、コレットは静かに目を閉じた。
濡れて冷たくなった頬に熱いほどのぬくもりを感じる。
熱い吐息とともに唇が離れると、コレットは目を開く。
間近に見えるエメラルドの瞳に、もう我慢することなんてできなかった。
「……私……」
これから解毒薬を服用しなくてはいけない。だから、思いを伝えては迷惑になると思っていた。
それでも。
なんとか搾り出すように言葉をつむぐ。
「私……っ! フィオンさまのことが、す……」
「失礼します」
コレットが言い終わらないうちに、その声に覆いかぶさるようにしてノックの音が響いたかと思うと、部屋の扉が開かれた。
「準備が調いましてございます。別室へのご移動をお願いします」
従僕の言葉が聞こえなかったように、フィオンはコレットを見つめたまま動かない。
「フィオンさま。ご移動を……」
聞こえなかったのかとなおも食い下がる従僕に、フィオンは小さくため息をついた。
「君は、誰に命令してる?」
「い、いえ、決して命令しているわけでは……」
慌てたように、従僕は頭をさげた。
「もうしばらく、待っていろ」
有無を言わさず命じると、自分を見上げるコレットにフィオンは優しく微笑みかけた。
コレットの頬に手をあて、涙をぬぐう。
「時間だね」
「あっ……」
「コレット、君が好きだよ。……もし、君も少しでも僕を好きだと思ってくれるのなら、この先何があったとしても僕を信じて欲しい」
「フィオンさま」
コレットに微笑みかけ額にそっと口付けると、フィオンはソファから立ち上がった。コレットに手を差し伸べしっかりと握り締める。彼女が立ち上がるのを確認し、部屋の隅で待機していた従僕に顔を向けた。
「行こう。案内を」




