47.月下
食後の紅茶のカップをもったままぼんやりとかたまっている姉に、アンリは盛大にため息をついた。
食事もほとんど手をつけず、やっと口に運んだと思ったら急に行動がとまってしまう。今日、王宮から帰ってきてからずっとこの調子である。
まったく、見ているほうが疲れてくる。
「コレット」
返事がない。
「コレットっ!」
「……え?」
やっと呼ばれたことに気がついて、コレットはぼんやりとテーブルを見つめていた視線を上げた。
この調子では、カップを持っている間にデザートが置かれたことすら気がつかなかったに違いない。
「あのさ、ぼんやりするのは勝手だけど、食事が終わってからにしてくれない?」
「……うん。ごめんなさい」
そういって、コレットは持ち上げたカップにまったく口をつけないまま、それをテーブルの上に戻した。
いつもなら反撃にもならない反撃をしてくるのに、今日はそれすらもない。
「何かあった?」
王宮で。
帰ってきてから、父親もコレットも何があったのかを口にしない。
その後、両親は知り合いの貴族の家に出かけていって、今食卓についているのはアンリとコレットだけである。
理由もわからず目の前で不審な行動をされては、アンリもたまらない。
「何か……」
思い出すように視線を泳がせた後、コレットの動きがまたとまる。
しばらく待ってみても何も言い出さないコレットに業を煮やし、アンリが口を開こうとする。が、声を出す前にコレットがイスから立ち上がった。
「コレット?」
「……ごめんなさい、少し疲れたみたい。先に休むね」
ナプキンをテーブルの上に置くと、コレットはそのまま部屋から出て行く。
わけのわからないまま残されたアンリは、コレットが出て行ったドアを見ながら大きく息を吐くとイスにどかりと体重をあずけた。
自室にもどるとすぐに、部屋に入ってきたメイドによって、コレットはてきぱきと夜着に着替えさせられた。ぼんやりとしているうちにすべてが終わる。
何も言わないコレットに、メイドは今日の仕事は終わりと受け取り頭をさげて部屋から出て行った。
一人部屋に残ったコレットは、ぽすんとベッドに腰を下ろす。
やわらかなベッドに体が押し返されるのをそのままに、コレットは倒れるようにベッドに横になった。
蜀台にともされた灯りだけの室内。
両親ともに出払った邸宅は、今夜はとても静かだ。
そんななか、今日何度も頭の中を駆け巡った言葉がありありとコレットの耳に聞こえたような気がした。
「すまなかった」
そういって頭をさげたのは、誰あろうこの国の王、パトリック・アルファードその人だった。
父とともに呼び出された王宮。
何があったのかと思い通されたのは、王の謁見室だった。
マカリスター男爵である父とともに王へのあいさつをすませると、コレットに直接話があるという王に別室へとつれてこられた。
何があるのだろうと不安になったコレットに、王は開口一番にそういって頭をさげたのである。
「別荘での一件、報告は受けている。危険な目にあわせてすまなかったな」
「と、とんでもございません。こちらこそ大変なご迷惑をおかけるすことになりまして、本当に申し訳ありませんでした」
王の言葉に、コレットは深く腰をおとし頭をさげた。
別荘での一件は、コレットの危機意識の低さが招いたものである。少なくとも、コレットはそう思っている。それを王に頭をさげられては、申し訳なくていたたまれない。
「以前から、そなたには謝らなければならないと思っていた。弟が迷惑をかけた。今回のことも、あれがそなたにかかわらなければ起こらなかったことだろう」
フィオンがコレットに近づかなければ、事件になど巻き込まれることはなかった。
惚れ薬の件は予測ができなくても、その後コレットにふりかかった事柄は、とめることができたのである。
「もう、そなたに迷惑はかけぬと約束しよう」
「……えっ?」
どういう意味だろう。
「フィオンには解毒薬を飲ませる」
王の言葉に、コレットはびくんと肩を震わせた。
一瞬時間が、とまったような気がした。
「そうすれば惚れ薬の効果は消える。このような事件に巻き込んで迷惑をかけたが、これで少しはそなたの周りも落ち着こう」
「……は、はい」
返事をしたコレットの声がかすれる。
どうしたのだろう。
口の中がからからに乾いて、うまく言葉がでない。
震える手を押さえるように、コレットはぎゅっとこぶしを握り締めた。
頭から血の気が引いて、なんだかくらくらする。
そんなコレットの様子に気が付いたのだろうか。王はゆっくりとコレットに近づくと、そばのイスに座らせた。コレットは促されるままに腰をおろす。
「もっと早くに、フィオンには解毒薬を服用させるべきだった。そなたのためにも、フィオンのためにも、国のためにも。国王として、フィオンの兄として決断を誤ったのは私だ」
座ったコレットとの前に立つと、王は言葉を続けた。
「今後も、そなたにはこの事件の件で不快な思いをすることがあるかもしれぬ。だが、今後のそなたへの処遇も名誉もすべて王家が保障しよう」
フィオンに解毒薬が使用されれば、コレットとフィオンの関係は現在とは異なったものとなる。
薬が原因である以上、フィオンに責任を取らせることはできない。
「フィオンを許してやって欲しい」
許す……?
失礼だということさえ失念し、コレットは王を見つめた。
「そなたを事件にまきこんだこと。そして、解毒をした後のことも」
頭の中でそれを理解すると、それにあわせてコレットの目が大きく見開いた。
今までコレットに接してきたフィオンとはまるで別人のような態度になってしまうかもしれない。解毒をするということはそういうことだ。
それは、王がフィオンのことを大切だと思っているからこその言葉。その思いが痛いほどコレットに伝わってきた。
どうして、ここで嫌ということなんてできるだろう。
一国の王が、ここまで心を砕いてくれているのに。
胸が痛い。
呼吸ができなくなるかと思うくらいに、痛む。
でも、息を止めて無理やりにその痛みを押し込めると、コレットはイスから腰をあげ王に深く頭をさげた。
コレットに残された答えは、一つしかなかったから。
思い出して、コレットの胸がずきりと痛んだ。
押し込めていた感情が、それをきっかけに浮上してくる。
ぽろりと、涙がこぼれた。
それはすぐにやわらかな布団の上にこぼれ落ちていく。ぼんやりと横になったまま、ぬぐうこともなくコレットは静かに涙を落とした。
わかっていた。
最初からこの日が来ることはわかった上で、フィオンの側にいたのは自分だ。
解毒薬ができるまでの間だと、フィオンの側に一緒にいるのはその間だけだと、自分でもそう思っていた。
だから、ずっと好きになってはいけないと思っていたのに……。
フィオンの顔が、コレットの脳裏に浮かんでは消えていく。
優しく自分を見つめるエメラルドの瞳も、いたずらっぽく笑いかける姿も、そして、少しさびしそうに遠くを見ている目も、全部が愛しくて、愛しくて、苦しい。
どのくらい時間がたったのだろうか。
ようやく涙が止まるころには、蜀台の灯りはいつのまにか消えていた。
泣いていたせいだろうか。頭が痛くて、思考がうまく働かない。それでも、妙に部屋の中が明るいことに気がつくと、コレットはゆっくりと体を起こした。
カーテンの隙間から入ってくる青い光に誘われるように窓の側に近づくと、カーテンを開ける。
その青い光のまぶしさに、コレットは目を細めた。
高くのぼったまるい月が、明るく世界を照らしていた。
静かな青い世界。
窓を開ければ、かすかに昼間の熱気をおびた空気が夏の香りを運んでくる。
あの日も月が明るかったと、コレットはぼんやりと思い出す。
初めてフィオンと出会った日。
ルノワール伯爵家のパーティーのあの夜。
あのときは、こんな気持ちになるなんて想像もしていなかったのに。
月の青い光を浴びながら、コレットは目を閉じた。
春から夏へ、出会ってからほんの数ヶ月の時間しかたっていない。だが時間を巻き戻すことができないように、この気持ちをなかったことになんてできそうになかった。
でも、だからといってどうすればいいというのだろう。
ただ、一つだけはっきりしていることは……。
(好きなんて、いえない)
フィオンが解毒薬を服用しなければならない状況で、もう自分の気持ちを伝えることなんてできない。
その苦しさに、コレットは窓枠にもたれかかったまま、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。




