46.月光
公爵邸のプライベートルームで、フィオンはグラスにワインを注ぐと、それを一気にあおった。テーブルに空になったグラスを置けば、静かな室内にはやけによく響く。
少し酔いたい気分だというのになかなか酔いはまわってはくれず、妙に頭の一部分だけがはっきりとしていた。普段、酒にのまれないのは自分の立場上便利なことだと思っていたが、こんなときはその体質が少しだけ恨めしくなる。
小さく息を吐いて、カーテンの開けたままになっている窓を見上げた。
夜も更けている時間だというのに、窓から見える夜空は明るい。その光が、窓から室内に青い光をおとす。
その光に誘われるように、フィオンはベランダへと足を運んだ。手すりにもたれかかるように体重をあずけると、そのまま空を見上げる。
そこには、世界を青い光で包むもととなっているまるい月がうかんでいた。
夜だというのに、空にかかる雲はその光で白さを浮かび上がらせ、世界はまぶしいほどの光に照らされている。高台にあるバード公爵邸からは、その光で王都の広い範囲を見渡すことができた。
ようやく温度を下げ始めた夏の夜風が、さらりとフィオンの髪を揺らす。
風に優しく髪を遊ばれるのをそのままに、フィオンは町をじっと見つめた。
静かに時間がながれていくなか、フィオンは昼間の兄の言葉を思い出し小さくため息をついた。
少し疲れていたのかもしれない。
自分を取り巻くまわりの状況に、自分の未来に。
バード公爵であり、王弟でもある自分。その立場には、おのずと責任と義務が課せられる。
結婚もその一つ。
国内の安定と、王家の安寧、そして継いだ公爵家の存続のために、それに相応しい女性との結婚はフィオンに幼いころからかせられた義務である。
別に、それが嫌だとか、逃げたいとか思ったことなどない。
結婚相手が誰であろうとそれなりにうまくやっていく自信はあった。相手に自分を好きにさせる自信もあったし、結婚して幸せにする確信もある。
だが……。
結婚相手が、そしてその家族や親族が王位を望むものではないこと。現王パトリックに反旗をひるがえす可能性が低く、フィオンを政治的に利用し意のままに操ろうと考えないもの。
それがバード公爵として、王弟としてのフィオンの結婚相手の第一条件。
しかし、その第一条件を満たす相手が、貴族の勢力図からなかなかうまく行かないのが現状だった。
結婚相手はたった一人。
誰を選ぶかで、バード公爵家だけではない、国の状況が一変する可能性もある。
第一条件にもっとも近い相手というのが、親族でもあるサーランド侯爵家のモニカだ。
モニカがフィオンの婚約者候補となっていたことに異を唱えていたことを思い出し、フィオンは口元をゆるめた。あれだけきっぱりと言われれば、それはそれで清々しいくらいだ。
それほどまでに気軽に話すことができるということであり、ある意味うまくやっていける可能性もある。モニカにはっきりと決まれば、彼女の意見などあってないようなものなのが貴族の社会である。
しかし、これ以上親族間での婚姻が続けば、国内の貴族の反感も大きくなる。それに反する勢力というものも結びついていく可能性もあった。
それならば、第一条件を満たさずとも、それを取り込む形で婚姻を結び、相手を抑え込むという方法もある。その観点からみる結婚相手の筆頭がオースティン公爵家のアニエス、そして王宮での役職を持つノーフォーク伯爵家のジュリアだ。
彼らが、政治的にフィオンを利用しようとしていることもよくわかっている。だが、それを内に取り込むことによって、反対に動きを封じていくこともできる。
しかしそれは、今まで戦っていた戦場をバード公爵家の中にまで引き入れることを意味していた。
そんな状況だったから、婚約者候補となっていた令嬢を避け他の女性を選ぶには、かなりの大きな理由が必要だった。
誰もが納得する、いや納得などしなくともいい。フィオンが相手となる女性を名指しするだけの、何らかの理由が。
そう、それこそ今回の惚れ薬の事件のような。
初めてコレットを見たときのことは、今でもよく覚えている。
可愛らしい若葉色のドレスに身を包んだコレットに、一目で心を奪われた。心臓を鷲掴みにされたような衝撃とともに、大きく鼓動がはねあがり、近づけば、透き通るような綺麗な琥珀色の瞳をずっと見ていたくて目が離せなくなった。
それが薬のせいだったのか、それとも本当に一目惚れというものだったのか、今となってはよくわからない。
それでも、その後ずっとコレットと一緒にいたいとそう思ったのは確かに自分の意思だ。
彼女ならいいと思ったのだ。
自分の結婚相手として。
そして、フィオンにとってもこれはまたとないチャンスだった。
自分に王位を望む貴族の令嬢を妻にしたとしても、フィオンにはそれを押さえ込むだけの用意はある。それでも、そうではない未来が開けた瞬間だった。
コレットにとっては、青天の霹靂である。
いくらなんでも惚れ薬で好きになったなど、相手が王弟であるとはいえ、コレットにはフィオンに対して怒る権利があった。
フィオンも、コレットにとっては侮辱だと怒られるだけのことを頼んだ自覚はある。
自分でも辛い立場になるだろうに、それでもコレットはフィオンのわがままを受け入れてくれた。
コレットの言葉に一喜一憂する自分の気持ちを察したかのように、フィオンを気遣いながら。
どんなにそれが嬉しかったか、彼女にわかるだろうか。
コレット自身が側にいるだけで、肩の力がすとんとおりて、力がわいてくるような気がした。愛しくて、それを隠す必要もないことに、さらに気持ちが抑えられなくなった。
マカリスター男爵家が、フィオンにとって政治的な意味からも受け入れられる家柄だったからというだけではない。コレット自身が、フィオンにとって必要だった。
それは甘えだろうか。
たった一つだけでいい、安らげる場所を欲してしまった自分の。
自分の手のひらを、フィオンはじっと見つめた。
青く光る月明かりを閉じ込めるかのように、フィオンは手を握り締める。
コレットに会いたい。
彼女を思うだけで、こんなに愛しさがつのっていく。だが……。
フィオンはもう一度、青い光に包まれる町を見下ろした。
同じこの光の下にコレットがいる。
同じ光のもとで、同じ夜のなかにいるというのに、その距離はとても遠く感じられる。
昼間、王に呼び出されたコレット。
彼女は、どんな気持ちでその要求を受け入れたのだろうか。それを思うだけで、フィオンの胸がずきりと痛んだ。
「コレット。君は今、どんな気持ちでいるんだろう。少しは僕のこと、思ってくれている?」
フィオンの言葉は、誰に聞かれることもなく月明かりの中に溶けていった。




