38.親心
「……別荘での生活はどうだ?王妃さまにバード公爵、いろいろ気を使うことも多いだろうが、つつがなくやっているか?」
夜会の広間から離れホテルの庭園に出ると、マカリスター男爵が口を開いた。
スティルス湖のすぐ畔に立てられているクリプトンホテルでは、庭からすぐに湖をのぞむことができる。
柵の向こうに湖が見渡せるこの場所は、会場と少し離れているため人通りも少ない。ここに来るまでに、話題の親子の姿を物珍しげに見ていたような人々の視線も受けなくてすむ。
「はい。みなさまには、とてもよくしていただいています」
「そうか」
コレットの言葉に、マカリスター男爵はしばらく何かを考えるように黙り込む。
「すまなかったな」
「え?」
「今回の事件に巻き込まれてしまったのは不可抗力だった。だが、騒ぎがそれ以上大きくならない方法もあったはずだと思う」
惚れ薬で王弟であるバード公爵がコレットを好きになったとしても、それ以上関わりを持たなければ、今までどおり静かに生活ができたはずである。
しかし、貴族社会において屈指の名門であるバード公爵家の当主に直々に請われ、また王家からも直接協力を要請されれば、マカリスター男爵家の立場ではそれを断りきれるものではなかった。
同じ貴族でも、爵位が高位であればその発言権も大きくなる。王家に対しても、バード公爵に対しても、もっと毅然とした態度で臨むこともできただろうが、男爵の立場からそれはかなり難しい。
初めて自分に謝る父親の姿に、コレットは驚いて顔を上げた。
苦しそうに湖をじっと見つめている父親に、コレットは父の腕に添えていた手に力を込める。
「私は平気です」
コレットの言葉に、マカリスター男爵はゆっくりと視線を娘に戻した。
父親に見つめられながら、コレットは静かに微笑む。
「大変なことがないわけではないですけれど、でも大丈夫です。がんばれますから」
苦しいことはある。
薬のことや、まわりの貴族との関係、フィオンの気持ち、そして自分の気持ち。
気持ちに素直に従うこともできなくて、でも、動きだしてしまった気持ちをとめることもできなくて。
出会わなければ、こうして接することがなければ、気持ちは育たなかったかもしれない。そうすれば父親の言うとおり、苦しむことも悩むこともなく過ごせたのかもしれないけれど。
いつか今よりもっと苦しむときが来るのかもしれない。
それでも……、今ほんの少しでも彼の側にいることに幸せな気持ちを感じている自分が確かにいるのだ。それはもう否定することはできない。
「そうか」
コレットの言葉にうなずきながら、マカリスター男爵は少し寂しそうに微笑んだ。
いつまでも自分の子供としてみていた娘が、一人の女性へとしっかり変化していることに一抹の寂しさを感じながら。
「お父さまは、フィオンさまが苦手ですか?」
父親の表情がはれないことに気がつき、コレットは訊ねた。
「バード公爵か……」
大切な娘に近づいてくる男は、父親にとってあまり受け入れられない存在であることは間違いない。
しかし、それはフィオンだけでなく、誰でも同じことである。
ただ今回は、惚れ薬の件があり、その上そのことを気にしていないようなフィオンに対して、王弟でありバード公爵でもある彼への対応に戸惑っているところがあるのも事実である。
「フィオンさまは本当によくしてくださいます。いつも私の方がご迷惑をかけてしまっていて……」
父親が言葉を濁したことを勘違いしたのか、フィオンの弁護を始めた娘に男爵は小さくため息をついた。
コレットがフィオンにかけている迷惑がどれだけのことであろう。コレットと一緒にいることを自ら選択したフィオンより、最初から選択肢などほとんどなかったコレットの方が迷惑をこうむっているはずである。
どのような気持ちであれ、コレットがフィオンに対して悪からぬ気持ちを持っていることは確かなようだ。しかし、それをはっきりと聞くことは男爵にはできなかった。
「お前には、つらい選択をさせることになるのかもしれないな」
「え?」
自分をじっと見つめる父親に、コレットは小さく首を傾げた。
「お父さま?」
どういう意味なのかと問おうとしたコレットの頭を、男爵は優しくなでる。
「もどろう。あまりバード公爵をお待たせするわけにはいかない」
「……はい」
はぐらかされた感は残るものの、それ以上何も言うつもりがないように足を進めたマカリスター男爵に、コレットは何もいえなかった。
バルコニーの手すりにもたれかかると、室内からの窓からもれた明かりと、あたりに置かれたランプの光に浮かび上がった庭を見渡すことができた。
父親に連れられ庭を歩いているコレットの姿を見つけると、フィオンの口元が少しゆるむ。それと同時に、心の中になんともいえない寂しさが湧き上がってきた。
コレットはマカリスター男爵家の令嬢である。父親であるマカリスター男爵はコレットの保護者であり、娘に対する決定権は彼のものだ。いくら公爵、はては王弟という立場であっても、それを覆すことはできない。
コレットとこれからもずっと一緒にいることのできる権利は、まだフィオンのものではないと思い知らされるようで、ズキリと心が痛んだ。
気持ちを落ち着けようと息をゆっくりと吐き出す。ふいに自分のいるバルコニーへの光がかげったことに気がつき、フィオンは後ろを振り返った。
そこにいた人物に、フィオンはおやっと眉を上げる。相手はフィオンが自分を見たことに気がつくと、ふかぶかと頭をさげた。
「これはドーズ卿、先日は案内をありがとう。こんな場所でお会いするとは奇遇ですね」
そこに現れたギルダスに、フィオンは少し口元を上げて話しかけた。
「私の兄がここの出資者の一人なのです。今日は姪の付き添い人として来ていまして」
「そうですか。まだ仕事も山積みでしょうに、付き添いまで受けられるとはお忙しいことですね」
「このホテルのことを気にかけるのもまた仕事のうちです。それに」
ギルダスはちらりと自分の後ろに視線を送った。
「今宵は王妃さまもいらっしゃるパーティー。この子にとっても大切な機会ですので」
ギルダスの後ろにひかえていた少女は、フィオンと目が合うとにっこりと微笑んでドレスをつまむと優雅に一礼した。
「こんばんは、バード公爵。今宵お会いできましてとても光栄にぞんじますわ」
「こんばんは、ランデル嬢。そういえば先日散策の際にお会いしたと、義姉からきいています。こちらのホテルに滞在されていたのですね」
「ええ。お散歩をしていましたときに、偶然に王妃さまにお会いしましたの。お時間がなくて、あまりお話することができずとても残念でしたわ。でも、あんなわずかな時間でしたのに王妃さまがわたしのことを覚えていてくださったなんて、とても光栄です」
「そこで何か話されたのですか?」
「いえ? ちょうどバークリー侯爵夫人が通りかかられましたので、みなさんですぐにそこから移動されましたので、ごあいさつぐらいしか」
「そうでしたか。それはすみませんでした。あの後、急に大切な客人が体調を崩しましてね」
「そうなのですか?」
「ええ、散策の際一緒にいたマカリスター男爵家の令嬢なのですが、ご存知ありませんでしたか?」
「ちらりとお見かけしただけでしたので。でも今日いらっしゃっているということは、体調はもどられたのですね」
「ええ。姉上の適切な対処のおかげでね」
自分をまっすぐに見るフィオンを、ジェシカはしっかりと見返した。
コレットの動揺ぶりからして、ジェシカが彼女に何かを言ったのは間違いないと思われる。しかし、ジェシカはそんなことはまったく知らないといったふうに、フィオンから目をそらすこともない。
本当に何も言っていないのか、または、何か言っていたとしてそれをコレットが誰かに言う可能性がないと確信しているのか。ジェシカの態度は、そのどちらとも取れた。
まあ、どんなことをしたとしても、自分の行動が正しいと思い込んでいる人間にはこういう行動が目に付くことがある。実際どうであったかは本人たちしか知らないわけだが、これ以上ジェシカを詮索しても無意味だと判断し、フィオンはふっと表情を緩めた。
「そういえばドーズ卿、少しお伺いしてもよろしいですか」
ジェシカから視線をはずすと、フィオンはギルダスに話しかける。
「はい。なんでしょう」
「カイサルという男をご存知ですよね」
「どこのカイサルですか?」
「この前視察にうかがった場所で働いていたという話を耳にはさんだのですが」
フィオンの言葉に、ああと思い出したようにギルダスはうなずいた。
「ああ、彼のことですか。確かに働いていた男にそういう名前のものがいましたが、それがどうかされましたか?」
「ええ、彼は現在仕事をやめたそうですが、彼の居場所に心当たりはありませんか」
「働いていたころにすんでいた場所ならば、記録があったはずです」
「それ以外に。あなたならご存知ではと思ったのですが」
「さあ、詳しい資料がないと私もなんとも申し上げられません。出身なども資料を見ればわかると思いますが、後日公爵のもとにお届けしますか?」
「お願いします」
「お仕事のお話ばかりですのね」
「ジェシカ」
会話に入ってきたジェシカをギルダスがたしなめるが、彼女は気にしてもいないようにフィオンへと近づいた。
「バード公爵、今宵はせっかくの夜会ですもの。難しいお話はやめて楽しみませんか?」
広間からは、音楽家たちが奏でる音楽が流れてくる。ちょうど曲が変わるところらしい。中の様子をちらりと見れば、ダンスをしている人たちがパートナーを変えたり、新たにダンスの輪に加わったりしているところだった。
「公爵、どうですか。ジェシカと一曲踊っていただけませんか」
ギルダスの言葉に、ジェシカの表情がぱっと輝く。
「公爵、よろしければぜひ。パートナーの方もまだもどられていないようですし、その間だけでも」
コレットがフィオンのパートナーとして隣にいることは、会場の注目を集めていた。
確かに夜会ではパートナーとばかり踊る必要はないのだが……。
「誘いは嬉しいのですが、申し訳ありません。少し用事を思い出しました。それが終わった後に、機会があったのなら」
そういってにこりと微笑みながらやんわりと断ると、フィオンはバルコニーを後にした。
くるりとあたりを見てコレットがまだ広間に戻っていないことを確認すると、フィオンは歩き出した。
別荘でフィオンに調査結果を報告し彼を見送った後、調査と護衛のために少し遅れてここに来ていたロイドは、フィオンが広間を少し抜けたところで静かに彼に近付いた。
「ギルダスから目を離すな」
ロイドが近付いたことを気配で感じながら、他の人に聞こえないぐらいの声でフィオンは命じる。
「夜会が終わった後も、彼の動向に注意するように」
「はい」
足を止めると、フィオンはさっきまでいたバルコニーの方に視線を向けた。
「ギルダスはカイサルの場所を知っている。僕に資料を渡す前に必ず会いに行くはずだ」
ロイドが自分から離れたのを確認すると、フィオンは庭園へと出るために階段をおりた。
庭園の出入り口付近で話している女性たちにあいさつをし、その誘いをやんわりと断り建物の外に出るとあたりを見渡す。
マカリスター男爵が一緒についているとはいえ、戻ってくるまでに少し時間がかかっていると感じてしまうのは、コレットと一緒にいたいと思っている自分の気のせいだろうか。しかし、以前のパーティーや夏至祭でのこともある。コレットの様子に気を配っても配りすぎるということはない。
あたりを見回し一人の人物の姿をとらえると、フィオンは眉根をよせた。すぐに彼に近付く。
「お話し中すいません、マカリスター男爵」
呼ばれて、マカリスター男爵とそれと一緒に話していた人物、ノーフォーク伯爵がフィオンに向かって振り返った。
「これはバード公爵、どうされました」
最初に口を開いたのは、ノーフォーク伯爵である。
「急に話しかけて会話を中断させてしまいましたか?」
「いえいえ、公爵にお声をかけていただけるとは光栄のいたりです」
楽しげに話しかけてくるノーフォーク伯爵とは逆に、マカリスター男爵の顔色がだんだんと悪くなってきたことにフィオンは気がついた。
「マカリスター男爵、コレットはあなたと一緒ではなかったのですか?」
「あ、いえ、先ほどまでは一緒だったのですが、先にバード公爵、あなたのところに戻ると……、まだ広間へ戻っていないのですか?」
マカリスター男爵の答えに、フィオンの血の気がすっと引いた。
ここに来る前、広間にコレットの姿は見かけなかった。広間は二階にあるが、内階段を降りれば庭園へとつながる扉はすぐである。時間を要する距離ではない。
フィオンが首をめぐらせあたりを見回したと同時に、どこからか女性の悲鳴が聞こえた。
「すみませんが、失礼します」
ノーフォーク伯爵とマカリスター男爵から離れると、声のした方向にフィオンは走り出した。先ほどの悲鳴が自分の聞き間違いではなかったことを証明するように、あたりにいたパーティーの参加者たちも何かあったのかと顔を見合わせている。
そのざわめきを切り裂くように、あたりに一発の銃声が響いた。




