35.心配
王家の別荘、滞在に際してあてられた客室の中で、コレットは一人ソファにじっと座っていた。先ほどの外出の際、ランデル子爵家の令嬢に言われた言葉がやけに耳にのこっている。
現状が薬のせいであることなんて、最初からわかっていた。
わかってはいるけれど……。
コレットはソファに置かれているクッションにもたれかかると、ため息をつく。
世間の目は、コレットに惚れ薬のせいであることを忘れるなと言っている。それは、コレットも十分わかっている。しかし、当事者であるフィオンにその義姉である王妃、二人は薬のことを気にするなと言ってくる。
いったいどうすればいいのだろう。
惚れ薬のことを忘れたわけではない。それでも、フィオンを好きだと思ってしまったコレットにとって、フィオンと王妃の言葉は気持ちを大きく揺さぶってくる。
フィオンを好きになっても、彼の言葉を素直に受け止めてもいいのではないかと。
この別荘への招待も、王妃の直々の誘いである。
断ることなんて男爵家としてはとてもできるものではない。しかし、それで本当によかったのだろうか。
いつか、彼を諦めなければならない日がくるのならば、そう思うとどうしても気持ちを一歩踏み出すことができなかった。
客室用の寝室にいたコレットの耳に、不意に話し声が聞こえた。
寝室の扉の向こう側は小さな応接室につながっている。そこには王家に仕えているメイドが、コレットが滞在している間彼女の世話をするために控えていた。
どうやら彼女が、誰かと話しているらしい。
誰か来客が来たのだろうかと体を起こす。
扉の向こうが静かになったかと思うと、ほどなくしてその扉を控えめに叩く音が響いた。隣に控えていたメイドが寝室へと姿を現す。
「失礼いたします」
お仕着せを着た王家のメイドはコレットに向き合うと深く頭をさげた。
「お嬢さま、お休みのところ申し訳ございません。体調に問題がなければ、お嬢さまにぜひお会いしたいとのことなのですが……」
コレットのことは、王妃から直接申し渡されているメイドである。彼女にとっては、誰が来ようともコレットの体調が第一なのだ。
「具合は、大丈夫ですけれど。どなたがいらっしゃったの?」
「バード公爵さまが、扉の向こうまで」
メイドの口にした人物に、コレットは大きく目を見開いた。
扉を開いてコレットが応接室に入ると、はじかれたようにフィオンが彼女の方を振り返った。
ドキンとコレットの心臓が跳ねる。
その鼓動を隠すようにコレットは視線を少しそらすと、小さく腰を落として頭を下げた。
気分が優れなかったからといっても、彼が今日来ることはわかっていたことである。到着したのに気がつきもせず、顔も見せなかったことを謝るためにコレットは口を開いた。
「フィオンさま。到着されましたのに、お迎えもせず……」
「コレット!」
言いかけた言葉をさえぎるように名前をよばれると、近づいて手をとられる。
驚いて顔をあげれば、間近でエメラルドの瞳と目が合った。
その真剣な眼差しに、コレットはたじろぐ。
フィオンに対していったいどういう態度で接すればいいのか、まだその答えは出ていない。しかし、体が正直に反応してしまうのを止めることはできなかった。まっすぐな瞳に、手を包むぬくもりに、コレットの胸は苦しいほどに早鐘をうってくる。
「具合は?」
「え?」
ぱちぱちとコレットは瞬きをする。
突然のことで、何を言われているのかわからなかった。
「今日散歩をしているときに具合が悪くなったと聞いたんだ。もっとよく顔をみせて」
頬に手をあてられて、顔を少し上に向けられる。
顔色を確かめるように、フィオンはそっとコレットの頬をなでた。
「あ、あの。フィオンさま」
「ん?」
「少し休みましたし、もう大丈夫ですので……」
「本当に?」
「はい」
頬に手をそえられたまま、コレットは頷いた。
先ほどの散歩のときは、本当に体の調子が悪かったわけではない。ランデル子爵の令嬢、ジェシカの言葉が真実であったから、返す言葉もなく体から血の気が引いた。問題は解決したわけではなくても、少し休んで気持ちが落ち着いた今、体に問題はない。
真剣に自分を見つめる眼差しから目をそらすこともできず、コレットはフィオンを見つめ返す。エメラルドの瞳にとらわれて、そこから動くことすらできない。
じっとコレットを見つめた後、フィオンはふっと表情を緩めた。
「よかった。君に何かあったのかと思ったら、いてもたってもいられなかった。ごめんね」
そういうと、フィオンはコレットの頬に触れていた手をそっとはなした。そのまま優しく髪をなでる。
その優しさに、コレットの胸がツキンと痛む。
ふいに、コレットの耳にあの言葉が聞こえたような気がした。
『本当に選ばれたなんて、そんな勘違いをされているのかしら』
思い出しピクリと、体が揺れた。
「コレット?」
「あ……」
「どうした? やっぱり具合がまだよくない?」
少し身をかがめて視線を同じくすると、フィオンは心配そうにコレットの顔をのぞきこんだ。
慌てて、コレットは首を横に振る。
「い、いえ。大丈夫です。本当に」
大切なものをあつかうように、優しく優しく自分を見つめるフィオンの瞳に耐え切れず、コレットは少し目をふせた。
もっと彼を見つめていたい。
でも、それは自分に許されることなのだろうか。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
声が震えないように注意しながら、コレットは何とか言葉をしぼりだした。
「散策の際、なにかありましたか?」
コレットより先に、王妃のいる応接間に戻ってきたフィオンは、義姉である王妃にそうきりだした。
コレットの体調は心配していたより悪くはなかった。
しかし、自分をみていたコレットの瞳が不安そうに揺れていたことに気がつけば、体調不良は体だけの問題ではなかったと考えられる。
少し考えるふうにして、王妃が答えた。
「彼女の具合が悪くなる前に、ランデル家のお嬢さんにお会いしましたわ」
「ジェシカ・ランデル嬢ですか」
フィオンも何度も会っている人物である。
王妃は横目でフィオンを見た後、涼しい顔をして持っていたお茶を口に運んだ。
「フィオン、女性問題は解決しておいた方がよろしいですわよ」
「問いただされるような問題に、身に覚えはありませんが?」
「あなたに覚えがあるかないかなんて関係ありませんわ。ほんの少しの期待でも、しがみつきたくなる女性はいるということです」
フィオンに、その人を選ぶ気持ちがまったくなかったとしても……。
王妃の言葉に、フィオンはため息をついた。
そういう意味での身に覚えならば、今までに数えきれないほどもある。
フィオンが一度言葉をかけただけで、ダンスをしただけで、はては目が合っただけで、もしかして自分が選ばれるのではないかと期待をした眼差しで見つめられることは一度や二度ではなかった。
さらには、少女達の恋心以上にその親達の期待すら膨らんでいく。
「はっきりと意思を示しているつもりなんですけれどね」
誰を選んでいるのか、皆にわかるようにしているのだが、見たくないものは見えないという力が働いているものには、現実が見えていないようである。
メイドに案内され、コレットが王妃とフィオンのいる応接間へと入ってきた。ドレスをつまんで腰を落としながら、頭を下げる。
「先ほどは、途中退席をすることとなって、申し訳ありませんでした」
「体調の方はもうよろしいの?」
「はい」
王妃と会話をしているコレットに、フィオンが静かに近付いた。
隣に立った彼をコレットが見上げると、フィオンはにっこりと微笑み彼女の背に手をあて、ソファに座るように促す。王妃に視線を戻せば、座ることを許可するように王妃はゆっくりとうなずいた。許可を受け、コレットはフィオンに手をとられたままソファに腰をおろす。
「ケリスも心配していましたのよ。先ほど帰りましたけれど、また会えるのを楽しみにしているそうですわ」
ケリスは、バークリー侯爵夫人の名前である。
バークリー侯爵夫人に馬車に乗せてもらい、王家の別荘へと戻ってきた後、結局コレットは具合が悪いことを理由に王妃に退席を許された。そのため、侯爵夫人とはあまり話をすることができなかった。
「すいませんでした。ほとんどお話もできず、お見送りすら……」
「そんなことは気になさらなくてもいいのよ。あなたの体調が回復したのなら、彼女も喜びますわ。それよりも、ごめんなさいね。不肖の義弟はあなたにご迷惑をかけなかったかしら。止める間もなく、あなたのお部屋へと行ってしまったものですから」
通常であれば、体調がよくなったのかどうかを召使などに確認させて、それから別室で会うのが一般的である。寝室と隣接している客室用の小さな応接室に直接行くことは、同性以外では恋人や家族のみが許されることだ。
訪ねられた本人が不快に思わない関係であれば問題ないが、現在の状況は微妙なところである。
「あの、えっと……」
王妃の問いに、コレットは口ごもった。
未婚の女性のたしなみとしては、急に部屋へと訪ねられたことを受け入れるべきではない。しかし、急なことで驚き、戸惑いはしたものの、コレットはそれが嫌ではなかった。
どうしていいのか分からない問題はたくさんあるとしても、ただ純粋にフィオンに会えて嬉しかった。心配して来てくれたことも……。
そう思ってしまう自分に気がつけば、耳まで赤く染まっていく。
そんな様子をみて、王妃はいたずらっぽいような笑いを含み、コレットとその隣に座っているフィオンをみた。笑いがこぼれるのを押し殺すかのように、口元に手をあてる。
「あの時の様子を、あなたにも見せてあげたかったですわ」
「あの時、ですか?」
「そう、ここに到着してあなたの具合が悪いと聞いたときのフィオンの様子」
くすくすと笑いながら、王妃は言葉を続けた。
「医師の診察も受けて、少し休めば問題ないというお話でしたのに、それすら聞かずに行ってしまいましたのよ」
王妃の言葉に、コレットは隣にいるフィオンを見た。
話の当事者であるフィオンは、王妃の含みのある視線を受けながら肩をすくめる。
「なんとでも言ってください」
言われたところで、まわりの言葉に耳をかさずにコレットのもとへと行ったことは事実であり、それを隠すつもりなどまったくない。
コレットの視線に気がつき、フィオンがそちらへと振り向いた。
「嫌だった?」
少し不安そうに尋ねる。
まわりにはなんと思われてもかまわないが、コレットに不快な思いはさせたくない。
「い、いえ。そんなことありません」
慌ててそう答えてしまって、コレットははたと動きを止めた。
これでは、自分がフィオンを好きだと公言してしまっていることにならないだろうか。
「そう。よかった」
微笑んでそれ以上追求しなかったフィオンに、コレットはほっと息を吐く。
「部屋は用意してありますわ。こちらへ滞在するのでしょう?」
「いえ、今日は公爵家の別荘へ戻ります」
王妃の言葉に対するフィオンの返事に、コレットは驚いて顔をあげた。
なんだかんだと悩んでいても、そばにいたいという気持ちは正直である。
「お戻りになるのですか?」
間近で自分を見つめながらそう尋ねるコレットを、フィオンは愛しそうに見つめた。
「耐えようもないくらいの誘惑を感じるね」
「えっ?」
「君に引き止められたら、このままここで一夜を過ごしたい気持ちにかられるけれど」
そっとコレットの髪に唇を寄せる。
「それは、次の機会にね」
目の前でいちゃつかれて、王妃はやれやれと肩をすくめた。
もはや自分は目に入っていないらしい。
「とりあえず、仕事とはいえレディを待たせたのですから、晩餐には出席しなさい。よろしいわね、フィオン」
「はい。もちろんです」
「では、私は一度席をはずしますわ。二人にはお邪魔なようですし。コレット、また晩餐のときにお会いしましょう」
「は、はい。王妃さま」
王妃が退出のために立ち上がったので、コレットも慌てて立ち上がり王妃を見送った。フィオンもゆっくりと立ち上がると、すぐに戻ると一言残し王妃に続いて部屋を出た。部屋から退出した王妃に声をかける。
「あら、せっかく二人きりにしてあげましたのに」
気を利かせて部屋からでたのにと、自分を追ってきたフィオンを王妃は見た。
「すぐにもどります」
「どうかなさいました?」
「コレットのことです。彼女をよろしくお願いします」
王都を離れ、王妃の客としてここに滞在している以上、コレットに接触できるものの数は限られる。しかし、コレットにいい気持ちを持っていない人物がいなくなったわけではない。
「そんなに心配するなら、別荘に戻るなどといわずにここに残ればよろしいのに」
「そういうわけにもいきません。今はまだ」
もし王家の別荘に来客がほとんどいない状態で自分が宿泊したとなれば、事実がどうであろうとコレットと自分との間に何かしらがあったと思われてもおかしくはない。
そうすれば、結婚前の女性として、まわりのコレットへの評価がさがる可能性がある。彼女を手に入れるためには一つの手段であることは確かだが、コレットの評判を落とすようなことはしたくなかった。
そんな一時の気持ちで、コレットを欲しいと思っているわけではない。
「わかってますわ。将来私の義妹になるのですもの。それでよろしいのよね?」
王妃の問いに、フィオンはにっこりと微笑んだ。
「もちろんです」
部屋に戻ってくると、フィオンはコレットをベランダの方へと誘った。
日が傾き始めているが、夏を迎えたこの季節はまだまだ外は明るさをたもっている。遠くに見える湖面が、暗い影を落とし始めた木々に囲まれながら、空に残っている光をうけてきらきらと波を光らせていた。
フィオンに誘われるままベランダへと出て手すりに手を置くと、コレットはおずおずと尋ねる。
「本当に、戻られるのですか?」
バード公爵家の別荘は、同じスティルス湖畔にある。
もちろん王都の屋敷にくらべれば、すぐと言っていいほどの近い距離である。しかし、晩餐が終わってから戻るとなれば、木々も茂るこの場所ではあたりは早くに闇に包まれる。
治安が悪いわけではないが、馬車を走らせるための視界は悪い。
王都からここまでの移動に、さらにその後の移動が重なれば、どうしても疲れが蓄積するのではないだろうか。湖を見ている横顔に、少しだけ疲れの色が見えるような気がするのは、コレットの気のせいではないと思うのだが……。
「僕も君のそばにいたい。コレット、君も少しはそう思ってくれていると考えてもいいのかな?」
そっとコレットの手をとり、唇をよせた。
「お疲れなのに、移動されるのは大変なのではないですか?」
赤くなりながら、コレットはそう答えた。
そばにいたい気持ちはあるが、それを素直に言葉にはできない。
コレットの答えに、フィオンは驚いたように眼を開いて彼女を見つめた。
「疲れているように見える?」
「あの……少しだけ」
「不思議だね。君にはどうしてわかるんだろう」
「え?」
つぶやくようなフィオンの言葉。聞き返すように彼を見れば、フィオンはコレットから手をはなすと、のびをするように両手を頭の上に伸ばした。腕をおろし、コレットににっこりと微笑む。
「体は大丈夫。こう見えて、結構丈夫にできてるんだよ」
そのまま、フィオンは内緒話をするようにコレットに顔を近づけた。
「大丈夫だからこそ、ここに残るのに問題があるんだ」
真面目な顔つきになったフィオンに、コレットも何があるのかと真剣な表情でそれを受け入れる。
大きな声では言えないことがあるのかもしれない。
「僕がここに泊まると、君の部屋へとしのんで行ってしまうことをとめられそうにない」
真剣な表情で言われたそれに、コレットはかたまった。
「訪ねて行ったら、ドアを開けてくれる?」
先ほど、彼女の部屋を訪れたときのように。
いたずらっぽく笑いながら、フィオンは軽く片目をつぶる。そのしぐさに、言われたことの意味に、コレットの顔が一気に赤くなった。
コレットが顔をそらす前に、フィオンはひょいと体を戻した。
いたずらが成功したかのように、楽しそうに笑う。そんなフィオンを、コレットは上目づかいに見た。
「からかいました?」
「いや、本当のことだよ」
赤くなった頬を隠すように、コレットが顔にあてた手にそっとフィオンは自分の手を重ねた。ゆっくりとその手を握りしめる。
「今は、まだその時期ではないけれど、いつかきっとね」
笑うのをやめて、真剣に自分を見つめるフィオン。
彼の手のぬくもりに包まれながら、コレットは静かに目をふせた。




