27.涙
まっすぐにベンチに腰を下ろしているコレットに近付くと、目線を同じくするようにフィオンは跪いた。走ってきたのか、わずかに息を弾ませているフィオンがそっとコレットの手をとった。フィオンに包み込まれるように手を握られ、そのぬくもりがじんわりとコレットの手を温める。
「コレット、無事でよかった」
「申し訳ありません。急にはぐれてしまって……」
「いや、君を見失った僕が悪い。ごめんね」
ふるふるとコレットは首を横に振った。
今にも泣き出しそうな表情のコレットに、フィオンは安心させるように微笑むと彼女の頬を優しくなでた。フィオンにつられるように、コレットも少しだけ表情をゆるめる。
もう一度コレットの手を力強く握った後、フィオンは立ち上がると自分に頭を下げているキースに視線を移した。
「君は?」
言われて、キースはさらに深く頭を下げる。
「お初にお目にかかります、殿下。キース・アッカーソンと申します」
ぴくりとフィオンの眉が動いた。
「アッカーソン男爵家の子息、かな? すまないが、僕は現在バード公爵を名乗っている身。そう呼んでもらえないかな」
「は、はい。申し訳ありません、バード公爵」
フィオンの言葉に、キースの背に冷たい汗が流れた。
決して声を荒げているわけでもなく、どちらかといえば穏やかな口調であるのに、王家の威厳なのかキースは気圧されてしまう。
「それで、君はここで何を?」
キースはその問いに言いよどんだ。
悪いことをしていたわけではない。幼馴染の少女が困っていたから助けようとしていただけだ。
しかし目の前でコレットを愛しそうに見つめるフィオンをみて、うまく言葉が出てこなかった。
そんななか、フィオンの服のすそをコレットが控えめに引く。
どうしたのかと、フィオンが振り返った。
「どうかした?」
優しくフィオンがコレットを見つめる。
「動けなかったところを、助けていただいたんです」
「動けなかった?」
「足をひねってしまって……」
薄明かりのなかよく見れば、確かにコレットのドレスのすそには転んだようにわずかに草の葉が付いている。
「痛む? 少しみせて」
そういうとフィオンは再びコレットの前に腰を落とした。
見せてといわれても、とコレットは戸惑って固まった。見せるためにはドレスをわずかだが上げなければならない。
フィオンは怪我の状態を知りたいだけなのだからと自分に言い聞かせてみるが、男性に足元を見せるなんてはしたなくはないだろうかと、ちらりと視線を上げた。
コレットの視線が動いた先に気が付いて、フィオンは「ああ」と納得したように頷いた。
「ごめん、ここでは難しいね。他には? 痛むところはない?」
フィオンの言葉にコレットはうなずいた。
足以外にも、本当は痛みはある。でも苦しいほどの胸の痛みを言葉にするのは難しかった。
そんなコレットを見つめた後、フィオンは立ち上がりキースと向き合う。
「キース、といったね」
「はい」
「僕の連れが世話になった」
「いえ……」
「ところで君は、彼女を見つけたときに他に誰かを見た?」
「誰か、ですか? いえ、この辺に他にひと気はありませんでしたが」
そんな中に一人動けないコレットを見つけて、驚いて声をかけたのだから。
「そう……」
何か考えるようにフィオンはあたりを一度見渡した。
「すまないが、彼女が怪我をしているようなので、今日はここで失礼する。この礼は日をあらためて」
「と、とんでもありません! 私はただここまで手をかしただけで、他にはなにも……」
「それで十分、礼をするに値するよ。彼女は僕の大切な人だからね」
フィオンは座っているコレットの髪をそっと撫でた。
「痛むだろうけど、もう少し我慢して」
フィオンを見上げ、「はい」と返事をしようとしたコレットの背にフィオンの手があてられる。
目を瞬いたコレットに、少し腰を落としたフィオンがぐいっと近付いた。
「失礼」
そういうと、フィオンはコレットを抱き上げる。
急に視線が高くなり、驚いたコレットはしがみつくようにフィオンの服に手を伸ばした。
「フィオンさま? あ、あの……」
「ん?」
「私……少しなら歩けます。ですから」
フィオンからはぐれて探させた上に、これ以上迷惑をかけるのはためらわれる。
「コレット」
「はい」
「無理をすれば、痛みがひどくなる可能性もある。これ以上君にそんな思いはさせられないよ」
抱き上げられたことで、すぐ間近にフィオンの顔があった。
その真っ直ぐな視線に耐え切れず、コレットはわずかに目を伏せる。
コレットを抱き上げたフィオンに、キースがおずおずと声をかけた。
「バード公爵、私が誰か人を呼んでまいります」
そうすれば、直接フィオンがコレットを抱き上げる必要などなくなる。王弟殿下の手を煩わせることもない。
キースの言葉に、フィオンは彼をじっと見つめた。
ごくりとキースは息を飲み込む。
「お急ぎならば、私が彼女をお連れしますが……」
国内の貴族は、すべてが王家の家臣である。
直接王家に仕えているか、領地を預かっている身か、立場はいろいろと違っても、臣下であることにはかわりはない。王弟であるフィオンの手を煩わせることになるのを目の前にして、そのままにしておくことはできないとキースは申し出た。
それは貴族の子息としてまっとうな意見ではあるのだが……。
キースの言葉に、フィオンの服をつかんでいたコレットの手に力が入った。それを感じながら、フィオンは口を開く。
「せっかくの申し出だけれど、遠慮しておくよ。言っただろう、僕の大切な人だと。彼女を他の人に任せることなんてできない。それに」
言葉を切ると、フィオンはコレットに視線を落とす。コレットと目が合い、とろけそうなほど甘く微笑んだ。
「僕がコレットを抱いていたいんだから、ね」
そんなフィオンの言葉に、コレットの頬が赤く染まった。
そして、どうしてだろう。
おさまりかけていた涙があふれそうになる。
それを見られたくなくて、コレットはフィオンの肩に顔を寄せた。それは周りにはコレットがフィオンに甘えているようにも見えた。
そんなコレットをもう一度しっかりと抱き上げると、フィオンはその場から離れた。
キースとメリーナはその場に残ったまま二人を見送る。
はっきりと手助けは必要ないといわれては、二人についていくことなどできない。
見送りながら、キースは少し寂しいような気持ちがしている自分に気が付いた。
最初に婚約を解消したのは自分である。
別の相手を選んだ自分が、コレットのことにこれ以上口を挟める立場ではない。しかし、決して憎く思って婚約を解消したわけではなかった。
二人の姿が見えなくなっても、そのまま立ち尽くしているキースの腕をメリーナがとった。
心配そうに自分を見ている愛しい人。
メリーナに淡く微笑むと、キースはしっかりと彼女の手を握り締める。
自分はこの女性と一緒に生きていくと決めたのだ。
「行こうか」
コレットが今まで座っていたベンチをちらりとみると、キースはメリーナと一緒に歩き出した。
「我慢しなくてもいいよ」
二人から離れてしばらくすると、フィオンの優しい声がコレットの耳元に届いた。驚いて顔を上げれば、フィオンが優しく自分を見つめていた。
優しいフィオンの眼差しに、コレットの目に涙がにじむ。
なんとか我慢しようとぱちぱちと瞬きをするが、それで押さえることなどできなかった涙がぽろりとこぼれた。
一度あふれてしまった涙は、止めることもできずに頬をつたい落ちる。
涙を隠すように、コレットは両手で顔をおおった。コレットを抱いているフィオンの腕に力が込められて、目を閉じていてもその存在が大きく感じられる。
痛む心が、フィオンのぬくもりに包まれていく。
その温かさに、コレットの体が小さく震えた。
フィオンの優しさは危険だ。彼の優しさが、温かさが、傷ついたコレットの心のなかにするりと入り込んできて、ゆるゆるとその傷を癒していくのがわかる。
(好きになってしまいそう……)
そうなってはダメだと分かっている。
一度この温かさを望んでしまっては、離せなくなってしまうことも。
それでも……。
フィオンの腕に抱かれながら、コレットはそのぬくもりにただ身をまかせていることしかできなかった。




