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喜目良商店街の悪魔  作者: 稲荷崎 蛇子
9/14

part09 喜目良商店街の珈琲



 ドアベル代わりのカウベルが鳴り、来客を告げた。


「おぉん? まいん?」

「あ、父ちゃん」


 ドアの前に現れたのは縦にも横にも大きい男。針澄の父、獏頼であった。


「そいつぁ何してんだ?」


 カウンターに広げられた模造紙と、その上に鎮座する万華鏡。模造紙には獏頼の見た事がない文字や記号、それから奇怪な図形が書き込まれていた。


「願い事を叶える魔法みたいなもんだよ。魔女さんが今やってて、それを見てんの」

「願い事……」


 獏頼は口の中で転がしたが、何も言わずにコーヒーを注文した。


「針澄さんは今日屋台に行かなくて良いんですか?」


 コーヒーを淹れた鰐淵は、何気なくそんな事を言う。


「おぉん? あぁ、バイトを雇った」


 出て来たコーヒーの味に顔をしかめながら、獏頼は続ける。


「前に雇ったバイトは半日で逃げやがった。今度のバイトは今日一日くらい使えりゃ良いが」

「父ちゃんがすぐ手を出すからだよ」

「おぉん?」


 そして唐突に、針澄はポンと手を打って言う。


「そうだ、父ちゃんの手を治せないかな? 願い事」

「おぉん?」

「何も死にかけの人間を治せってんじゃなし、どうかな?」


 しかし針澄の提案を蛇川は即座に断った。


「ダメです。怪我や病気をその場で治すと言うのは、どんな些細なものでも相応の代償が要求されます。……と言うか、そんな事を願うなら悪魔なんか要りません。お医者様にお願いして下さい」


 それから蛇川は図柄を書き終えると、満足したように頷く。その背後では犬飼がトンファーを構え、いつでも飛び掛かれる体勢を作っていた。


「そんな殺気立たないで下さい。対処できないスーパー悪魔なんて召喚しませんよ」

「願い事の対価によっては、非常に危険です。悪魔召喚など看過できませんが、先ほど勝負に負けたのも事実です。しかし本来は……」

「あぁもう良いです。とにかく、危なくなければ黙っていてくれる、と。そういう事でしたら説明も建前も結構です。事実、素人がやるならまだしも、扱うのはベテランの私です。こればかりは信用して構いません」


 鰐淵は二杯目のコーヒーを獏頼に差し出しながら、一人頷いた。蛇川は基本的に信頼できる人格ではないが、この手のオカルトに関しては一級の腕前だと信じて良い。不測の事態が起きても、多少なら犬飼が何とでもしてくれるだろう。


「準備はできました。何か小さな願い事で、出来るだけお得な事にしましょう」


 蛇川が書き終えたのは、俗に魔法陣と呼ばれるもの。悪魔を縛り、支配し、契約を交換するためのものだ。ほんの少しの書き間違いで大惨事に繋がるが、その点において蛇川に抜かりはない。


「慎重に考えましょう。不用意な発言は控えるように」


 横目でやり取りを見ていた獏頼は、鼻で笑った。願い事だと言う割には、怪我の一つも治せない上に、出来るだけ小さくてお得なものを、だなんて。何とも狭量な願い事もあったものである。

 もし自分が、どんな願いでも叶えられるとしたら。そんな事をぼんやりと考えると、様々な思いや出来事が胸をよぎる。もしも、こうであったなら。無数のもしもが押し寄せ、口をついて飛び出しそうになる。

 しかし、再び獏頼は鼻で笑う。願い事など、そんなものに頼るようになれば男は終わり。そう首を振った所で、まだ願い事を決め切れていない様子の周囲に気が付いた。


「蛇川、これはもう準備が出来たって言ってたが、いつでも使えるのか?」

「はい。不用意な発言は願い事だと捉えられるので、気を付けて下さい。質問形式で話す事で、願い事と認識される事を避けられますよ?」

「なるほど。……うん? 待て待て、それだと……」


 獏頼の見ている最中、四人は全く同時に同じ事を思考していた。即ちそれは、非常に単純な答えに行きつく。


 今先に言っちゃえば、自分の願い事が叶うのではないか。である。


 話し合いの必要などない。自分の利益を最優先に、全員が同時に叫んだ。


「商売繁盛!」

「ハーレム!」

「おいしいコーヒー!」

「お布施倍増!」


 その瞬間、魔法陣は妖しく発光を始める。硬質な何かが弾ける音が響き、万華鏡は中ほどから真っ二つにへし折れた。中に貼ってあったガラス片がじゃりじゃりと紙の上にこぼれ、しばらく瞬くように発光した魔法陣は、電池の切れたように静かになった。

 四人は顔を見合わせると、果たして誰の願いが叶ったのかを確認する。


「あぁ、そうだな、まずは……抜け駆けしようとした事は、この際置いておこうぜ。全員そうだった。俺が気になってるのは、誰の願い事が叶ったのかって事だ」

「あたしのはダメだったみたいだなー……。商売繁盛してる気がしない」

「一番危険だったのは、まいんちゃんです。抽象的な上に、願う規模が大きすぎるので、選ばれなかったのは幸運ですよ」

「おい蛇川。そっくりそのまま、お前に返ってきてるぞ」

「どういう意味ですか? 私は既にハーレムの力を手にしたはずなので、鰐淵さんもメロメロなはずです。……もしかして、好きな子に意地悪をしたくなる、という奴ですか? 最低です」

「どうやら蛇川のは不発だったらしい」


 犬飼の願い事が認識されたのでは、という空気が漂う。が、鰐淵は密かな期待を胸にコーヒーを淹れる。


「お布施が増えれば教会の修繕工事ができると思いましたが……。今の所、特に変わった事は起きていません。いえ、悪魔に頼った願い事など、叶わない方が健全でしょう」


 犬飼は首を振った。蛇川がその後に言葉を続ける。


「ところで、鰐淵さんの願い事は何ですか? いえ、つまり、どういう意味だったのか、という事です」

「そりゃお前、おいしいコーヒーを淹れられますように、って事だよ」

「あぁ、やはり。思っていた以上にクソみたいな願い事をしましたね」


 しかし鰐淵は口角を上げ、獏頼を含めた全員にコーヒーを出した。


「新生、青大将コーヒーをご賞味あれ」


 誰もが思う所はあったのだが、全員がその味を恐る恐る確かめて、一度カップを置く。


「何という事でしょう。鰐淵さん唯一の個性が消えてしまいました。こうも凡庸になっては、もうヒョロガリな所と、色黒になれる事以外の特徴がありません。ひどいものです」

「おいしいじゃん! これならお客も来るよ! やったじゃん!」

「あぁ、腐れ悪魔の作る物とは思えません。気持ちとしては口をつけるのも躊躇しますが、お味の保証だけは……それだけは致しましょう」

「おぉん? 何だこりゃ……」

「うおぉぉ! 二度と俺のコーヒーをまずいとは言わせねぇぞ! おっしゃあ!」


 歓喜の叫びを上げる鰐淵。何一つ面白くなさそうな蛇川は、半眼でカップをすする。


「こんな事に消費して、申し訳ないとか、恥ずかしいとか、そう言った気持ちはありませんか? ちょっと人格を疑います。私の輝けるハーレムを潰して得たものが、これですか?」

「うははは! そう怒るな! もう一杯コーヒーを淹れてやるぞ!」

「要りませんよ! くたばれ!」

「うははは!」


 この時。鰐淵を含めて誰も真実を知らなかった。四つの願い事に対して、本当は何が起きていたのか。それを唯一知っているのは、願い事を叶えた悪魔だけであった。





 時刻は正午を指す。その時、喫茶青大将にいたのは鰐淵一人だけであった。蛇川は既に昼休憩をとり、昼食のために外へ出ている。

 鼻歌混じりにカップを磨く鰐淵は、自慢のコーヒーを振る舞う機会をひたすらに待っていた。そして、ようやく客が現れる。


「あいらっしゃい!」


 コーヒーを作る機会を得た鰐淵は、機嫌よく大声を出して入り口に目を向ける。そこにいたのは、小汚い恰好の中年男性。骨董品店を営む亀谷だった。


「お、亀谷さん」


 店の外では比較的まともな亀谷は、特に騒ぎ立てる事もなく静かにカウンター席へと座った。


「調子はどうだ?」

「上々。まずは一杯いかが?」


 芝居がかったポーズを取って見せた鰐淵は、片眉を上げて亀谷に視線を送る。コーヒーの豊潤な香りが広がり、注文されてもいないホットコーヒーが完成する。


「クソまずいドブ水でも、その方が目覚ましには都合が良いな」

「は。度肝をブチ抜いてやるよ」


 そして一口すすった亀谷は、驚愕に目を丸くした。手元のコーヒーと鰐淵の顔へ、二度三度と視線を往復させる。


「お前、まさか……」


 その時。亀谷が一直線に答えまで辿り着いたのは僥倖とも言えた。通常の人間ならば、鰐淵の急激な変化に様々な理由を考えるだろう。だが亀谷という人間は、自身の扱う商品にだけは絶対の信頼を置いていた。つまり、亀谷はすぐに連想したのだ。昨日売った百万円の万華鏡がどうなったのかを。


「つ、使ったのか? 悪魔の万華鏡を?」

「お! わかる? このコーヒーに自力で辿り着けなかったのは悔しいが、おかげで……」

「どうやって! どうやって、あれを使った! 使い方なんて知らんだろ! だから売ったのに! あんな、あんな危ない物を!」


 がた、と椅子から勢いよく立ち上がる亀谷。まぁまぁと両手を広げた鰐淵は説明する。


「うちの蛇川がさ、そういうのに詳しいんだ。大丈夫だよ、危険がない程度の願い事しかしてない。この後何かしらの不運があるとは蛇川から聞いてるし、それは俺も覚悟してる」

「そうか、なら良いんだが……。気を付けろよ? 身の丈に合わない願い事なんかしたら、当人だけじゃ済まない。街ごと悪魔の大群に呑み込まれるなんて事も起きるからな」

「そんな大層な願い事、俺みたいな小市民には思いつきそうにねぇよ」


 ははは、と笑う鰐淵。それもそうか、と座り直した亀谷は安心したように続ける。


「なら、一応見てやろうか。万華鏡はまだあるだろ? あれの状態がどうなったのかで、お前に降りかかる不幸の度合いがわかるんだ。呪いだの魔法だの、仕組みはわからん。でも物を見る目には自信がある」

「へぇ? そいつは助かるな」


 鰐淵はカウンターの裏にしまっていた、割れた万華鏡を取り出す。燃えないゴミと一緒にしなくて良かった。


「なんだか真っ二つに割れちまってな。どんな感じだい?」

「おああああ!」


 割れた万華鏡をカウンターに置いた鰐淵は、しかし次の瞬間、椅子から転げ落ちる亀谷を見た。悲鳴を上げながら、背後に倒れた亀谷は真っ青な顔で万華鏡を見ている。


「おま、お、おまぁぁ!」


 絶叫に近い声を出す亀谷は、噴き出す汗を拭う事すら忘れている。


「割れてるじゃねーか! 一体、どれだけの事を願いやがった! コーヒーだけで割れるわけねーだろ! 魔界門でも開くつもりか!」

「はぁ? 何言ってんだ。コーヒーだけだよ。……なんだよ。割れたらそんなにヤバいのか?」

「オアァー! 今すぐ願い事を放棄しろ! 街ごと消えても知らねーぞ! コーヒーだけなんて嘘つくんじゃねぇ! 他に何かデケェ事を言っただろ!」

「んな事言っても、間違いなく俺のが選ばれて……」


 そこで鰐淵は、ふと数時間前の状況を思い出す。願い事は四人で同時に言ったのだ。その中から自分のものが選ばれた。間違いない。何も間違っていない。確かに同時に言ったが、その場で確認している。


 否。自分以外の願い事は、そもそもにして、その場で確認できるような内容だっただろうか。

 それから一拍ほどの間があってから、鰐淵はとうとう答えに辿り着く。


「……あれ? もしかして願い事が叶ったのって、俺一人じゃない……とか?」


 亀谷は震える手で小銭をカウンターに叩きつける。コーヒーの代金を置いたその勢いのまま、椅子を蹴飛ばしつつ小走りで駆けだした。


「関わった全員に願い事を放棄させろ! お、俺は逃げる! あぁちくしょう! 何を持って逃げりゃ良いんだ!」


 最悪の事態について考えた亀谷は、脱兎の如く店から逃げ出す。急いで荷物を揃え、せめて夜までには街から脱出しなければならない。

 その慌てふためく様子を見た鰐淵は、顎に手を当てて考える。


「ちょっと待て。これは本当にヤバいんじゃないか?」


 蛇川は願い事の代償について、その危険性を確かに認めていた。だからこそ軽微な願いにとどめる必要があると、そう説明していた。

 ともすれば、四人分の願い事。それも内容が軽微であったかなど疑問である。それらの代償とは、如何ほどだろうか。



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