part09 喜目良商店街の珈琲
ドアベル代わりのカウベルが鳴り、来客を告げた。
「おぉん? まいん?」
「あ、父ちゃん」
ドアの前に現れたのは縦にも横にも大きい男。針澄の父、獏頼であった。
「そいつぁ何してんだ?」
カウンターに広げられた模造紙と、その上に鎮座する万華鏡。模造紙には獏頼の見た事がない文字や記号、それから奇怪な図形が書き込まれていた。
「願い事を叶える魔法みたいなもんだよ。魔女さんが今やってて、それを見てんの」
「願い事……」
獏頼は口の中で転がしたが、何も言わずにコーヒーを注文した。
「針澄さんは今日屋台に行かなくて良いんですか?」
コーヒーを淹れた鰐淵は、何気なくそんな事を言う。
「おぉん? あぁ、バイトを雇った」
出て来たコーヒーの味に顔をしかめながら、獏頼は続ける。
「前に雇ったバイトは半日で逃げやがった。今度のバイトは今日一日くらい使えりゃ良いが」
「父ちゃんがすぐ手を出すからだよ」
「おぉん?」
そして唐突に、針澄はポンと手を打って言う。
「そうだ、父ちゃんの手を治せないかな? 願い事」
「おぉん?」
「何も死にかけの人間を治せってんじゃなし、どうかな?」
しかし針澄の提案を蛇川は即座に断った。
「ダメです。怪我や病気をその場で治すと言うのは、どんな些細なものでも相応の代償が要求されます。……と言うか、そんな事を願うなら悪魔なんか要りません。お医者様にお願いして下さい」
それから蛇川は図柄を書き終えると、満足したように頷く。その背後では犬飼がトンファーを構え、いつでも飛び掛かれる体勢を作っていた。
「そんな殺気立たないで下さい。対処できないスーパー悪魔なんて召喚しませんよ」
「願い事の対価によっては、非常に危険です。悪魔召喚など看過できませんが、先ほど勝負に負けたのも事実です。しかし本来は……」
「あぁもう良いです。とにかく、危なくなければ黙っていてくれる、と。そういう事でしたら説明も建前も結構です。事実、素人がやるならまだしも、扱うのはベテランの私です。こればかりは信用して構いません」
鰐淵は二杯目のコーヒーを獏頼に差し出しながら、一人頷いた。蛇川は基本的に信頼できる人格ではないが、この手のオカルトに関しては一級の腕前だと信じて良い。不測の事態が起きても、多少なら犬飼が何とでもしてくれるだろう。
「準備はできました。何か小さな願い事で、出来るだけお得な事にしましょう」
蛇川が書き終えたのは、俗に魔法陣と呼ばれるもの。悪魔を縛り、支配し、契約を交換するためのものだ。ほんの少しの書き間違いで大惨事に繋がるが、その点において蛇川に抜かりはない。
「慎重に考えましょう。不用意な発言は控えるように」
横目でやり取りを見ていた獏頼は、鼻で笑った。願い事だと言う割には、怪我の一つも治せない上に、出来るだけ小さくてお得なものを、だなんて。何とも狭量な願い事もあったものである。
もし自分が、どんな願いでも叶えられるとしたら。そんな事をぼんやりと考えると、様々な思いや出来事が胸をよぎる。もしも、こうであったなら。無数のもしもが押し寄せ、口をついて飛び出しそうになる。
しかし、再び獏頼は鼻で笑う。願い事など、そんなものに頼るようになれば男は終わり。そう首を振った所で、まだ願い事を決め切れていない様子の周囲に気が付いた。
「蛇川、これはもう準備が出来たって言ってたが、いつでも使えるのか?」
「はい。不用意な発言は願い事だと捉えられるので、気を付けて下さい。質問形式で話す事で、願い事と認識される事を避けられますよ?」
「なるほど。……うん? 待て待て、それだと……」
獏頼の見ている最中、四人は全く同時に同じ事を思考していた。即ちそれは、非常に単純な答えに行きつく。
今先に言っちゃえば、自分の願い事が叶うのではないか。である。
話し合いの必要などない。自分の利益を最優先に、全員が同時に叫んだ。
「商売繁盛!」
「ハーレム!」
「おいしいコーヒー!」
「お布施倍増!」
その瞬間、魔法陣は妖しく発光を始める。硬質な何かが弾ける音が響き、万華鏡は中ほどから真っ二つにへし折れた。中に貼ってあったガラス片がじゃりじゃりと紙の上にこぼれ、しばらく瞬くように発光した魔法陣は、電池の切れたように静かになった。
四人は顔を見合わせると、果たして誰の願いが叶ったのかを確認する。
「あぁ、そうだな、まずは……抜け駆けしようとした事は、この際置いておこうぜ。全員そうだった。俺が気になってるのは、誰の願い事が叶ったのかって事だ」
「あたしのはダメだったみたいだなー……。商売繁盛してる気がしない」
「一番危険だったのは、まいんちゃんです。抽象的な上に、願う規模が大きすぎるので、選ばれなかったのは幸運ですよ」
「おい蛇川。そっくりそのまま、お前に返ってきてるぞ」
「どういう意味ですか? 私は既にハーレムの力を手にしたはずなので、鰐淵さんもメロメロなはずです。……もしかして、好きな子に意地悪をしたくなる、という奴ですか? 最低です」
「どうやら蛇川のは不発だったらしい」
犬飼の願い事が認識されたのでは、という空気が漂う。が、鰐淵は密かな期待を胸にコーヒーを淹れる。
「お布施が増えれば教会の修繕工事ができると思いましたが……。今の所、特に変わった事は起きていません。いえ、悪魔に頼った願い事など、叶わない方が健全でしょう」
犬飼は首を振った。蛇川がその後に言葉を続ける。
「ところで、鰐淵さんの願い事は何ですか? いえ、つまり、どういう意味だったのか、という事です」
「そりゃお前、おいしいコーヒーを淹れられますように、って事だよ」
「あぁ、やはり。思っていた以上にクソみたいな願い事をしましたね」
しかし鰐淵は口角を上げ、獏頼を含めた全員にコーヒーを出した。
「新生、青大将コーヒーをご賞味あれ」
誰もが思う所はあったのだが、全員がその味を恐る恐る確かめて、一度カップを置く。
「何という事でしょう。鰐淵さん唯一の個性が消えてしまいました。こうも凡庸になっては、もうヒョロガリな所と、色黒になれる事以外の特徴がありません。ひどいものです」
「おいしいじゃん! これならお客も来るよ! やったじゃん!」
「あぁ、腐れ悪魔の作る物とは思えません。気持ちとしては口をつけるのも躊躇しますが、お味の保証だけは……それだけは致しましょう」
「おぉん? 何だこりゃ……」
「うおぉぉ! 二度と俺のコーヒーをまずいとは言わせねぇぞ! おっしゃあ!」
歓喜の叫びを上げる鰐淵。何一つ面白くなさそうな蛇川は、半眼でカップをすする。
「こんな事に消費して、申し訳ないとか、恥ずかしいとか、そう言った気持ちはありませんか? ちょっと人格を疑います。私の輝けるハーレムを潰して得たものが、これですか?」
「うははは! そう怒るな! もう一杯コーヒーを淹れてやるぞ!」
「要りませんよ! くたばれ!」
「うははは!」
この時。鰐淵を含めて誰も真実を知らなかった。四つの願い事に対して、本当は何が起きていたのか。それを唯一知っているのは、願い事を叶えた悪魔だけであった。
時刻は正午を指す。その時、喫茶青大将にいたのは鰐淵一人だけであった。蛇川は既に昼休憩をとり、昼食のために外へ出ている。
鼻歌混じりにカップを磨く鰐淵は、自慢のコーヒーを振る舞う機会をひたすらに待っていた。そして、ようやく客が現れる。
「あいらっしゃい!」
コーヒーを作る機会を得た鰐淵は、機嫌よく大声を出して入り口に目を向ける。そこにいたのは、小汚い恰好の中年男性。骨董品店を営む亀谷だった。
「お、亀谷さん」
店の外では比較的まともな亀谷は、特に騒ぎ立てる事もなく静かにカウンター席へと座った。
「調子はどうだ?」
「上々。まずは一杯いかが?」
芝居がかったポーズを取って見せた鰐淵は、片眉を上げて亀谷に視線を送る。コーヒーの豊潤な香りが広がり、注文されてもいないホットコーヒーが完成する。
「クソまずいドブ水でも、その方が目覚ましには都合が良いな」
「は。度肝をブチ抜いてやるよ」
そして一口すすった亀谷は、驚愕に目を丸くした。手元のコーヒーと鰐淵の顔へ、二度三度と視線を往復させる。
「お前、まさか……」
その時。亀谷が一直線に答えまで辿り着いたのは僥倖とも言えた。通常の人間ならば、鰐淵の急激な変化に様々な理由を考えるだろう。だが亀谷という人間は、自身の扱う商品にだけは絶対の信頼を置いていた。つまり、亀谷はすぐに連想したのだ。昨日売った百万円の万華鏡がどうなったのかを。
「つ、使ったのか? 悪魔の万華鏡を?」
「お! わかる? このコーヒーに自力で辿り着けなかったのは悔しいが、おかげで……」
「どうやって! どうやって、あれを使った! 使い方なんて知らんだろ! だから売ったのに! あんな、あんな危ない物を!」
がた、と椅子から勢いよく立ち上がる亀谷。まぁまぁと両手を広げた鰐淵は説明する。
「うちの蛇川がさ、そういうのに詳しいんだ。大丈夫だよ、危険がない程度の願い事しかしてない。この後何かしらの不運があるとは蛇川から聞いてるし、それは俺も覚悟してる」
「そうか、なら良いんだが……。気を付けろよ? 身の丈に合わない願い事なんかしたら、当人だけじゃ済まない。街ごと悪魔の大群に呑み込まれるなんて事も起きるからな」
「そんな大層な願い事、俺みたいな小市民には思いつきそうにねぇよ」
ははは、と笑う鰐淵。それもそうか、と座り直した亀谷は安心したように続ける。
「なら、一応見てやろうか。万華鏡はまだあるだろ? あれの状態がどうなったのかで、お前に降りかかる不幸の度合いがわかるんだ。呪いだの魔法だの、仕組みはわからん。でも物を見る目には自信がある」
「へぇ? そいつは助かるな」
鰐淵はカウンターの裏にしまっていた、割れた万華鏡を取り出す。燃えないゴミと一緒にしなくて良かった。
「なんだか真っ二つに割れちまってな。どんな感じだい?」
「おああああ!」
割れた万華鏡をカウンターに置いた鰐淵は、しかし次の瞬間、椅子から転げ落ちる亀谷を見た。悲鳴を上げながら、背後に倒れた亀谷は真っ青な顔で万華鏡を見ている。
「おま、お、おまぁぁ!」
絶叫に近い声を出す亀谷は、噴き出す汗を拭う事すら忘れている。
「割れてるじゃねーか! 一体、どれだけの事を願いやがった! コーヒーだけで割れるわけねーだろ! 魔界門でも開くつもりか!」
「はぁ? 何言ってんだ。コーヒーだけだよ。……なんだよ。割れたらそんなにヤバいのか?」
「オアァー! 今すぐ願い事を放棄しろ! 街ごと消えても知らねーぞ! コーヒーだけなんて嘘つくんじゃねぇ! 他に何かデケェ事を言っただろ!」
「んな事言っても、間違いなく俺のが選ばれて……」
そこで鰐淵は、ふと数時間前の状況を思い出す。願い事は四人で同時に言ったのだ。その中から自分のものが選ばれた。間違いない。何も間違っていない。確かに同時に言ったが、その場で確認している。
否。自分以外の願い事は、そもそもにして、その場で確認できるような内容だっただろうか。
それから一拍ほどの間があってから、鰐淵はとうとう答えに辿り着く。
「……あれ? もしかして願い事が叶ったのって、俺一人じゃない……とか?」
亀谷は震える手で小銭をカウンターに叩きつける。コーヒーの代金を置いたその勢いのまま、椅子を蹴飛ばしつつ小走りで駆けだした。
「関わった全員に願い事を放棄させろ! お、俺は逃げる! あぁちくしょう! 何を持って逃げりゃ良いんだ!」
最悪の事態について考えた亀谷は、脱兎の如く店から逃げ出す。急いで荷物を揃え、せめて夜までには街から脱出しなければならない。
その慌てふためく様子を見た鰐淵は、顎に手を当てて考える。
「ちょっと待て。これは本当にヤバいんじゃないか?」
蛇川は願い事の代償について、その危険性を確かに認めていた。だからこそ軽微な願いにとどめる必要があると、そう説明していた。
ともすれば、四人分の願い事。それも内容が軽微であったかなど疑問である。それらの代償とは、如何ほどだろうか。




