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喜目良商店街の悪魔  作者: 稲荷崎 蛇子
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part06 喜目良商店街の勝敗


 その時。蛇川は走っていた。


「はぁ、は……っぶは!」


 蛇川が走るのが苦手である。何なら泳ぐのも苦手だし、跳ぶのも苦手だ。球技などはもっと苦手でもある。その蛇川が、走っていた。運動が苦手な者特有の、かえって疲れる下手くそな呼吸を必死に繰り返し、それでも懸命に走っていたのだ。


「は、はぁ、はふ……!」


 そしてとうとう立ち止まる。目的地だからではない。疲れたのだ。体はまだ限界ではなかったが、蛇川は疲れる事も苦手だった。疲れる事を嫌がるあまり、電柱に手をついて立ち止まってしまう。


「はぁ、はぁー……。なんて事でしょう。とりあえずジュースでも飲んで休憩を挟みたいのですが……。そういう訳にも行かないですしね」


 もちろん、時間がないからではない。自販機に入れるためのお金がないのだ。


「鰐淵さん、聞こえませんか?」


 もう何度目か、蛇川は携帯電話に呼びかけるのだが、鰐淵からの応答はない。その頃の鰐淵は、空気すら引き裂く杖の一撃、虎落笛を紙一重で躱していたのだ。間一髪で避けた代償は大きく、耳にかかっていたイヤホンは破壊されていた。


「……まずいですね」


 蛇川は痛くなってきた足の裏を気にしつつ、思案してみる。今しがた得た情報は、何としても鰐淵に伝えなければならない。しかし、場所が良くなかった。副店長に相談へ行ったため、ここから再び会場までは行くのは距離がある。

 電話が繋がらないならば、この情報はゴール付近に行き、直接鰐淵に伝える必要がある。だがそのためには、蛇川は鰐淵のゴールよりも先に到着する必要もある。少しでも急がねばならなかった。


「若くて健康な悪魔が私を背負って走ってくれると良いのですけど……」


 蛇川はこれ以上走りたくなどなかった。どうにかして、走らずに到着する方法を考える必要があった。


「こ、これは困りました……。大ピンチと言って良いでしょう」


 近くに停めてある自転車が目に入る。鍵を破壊して窃盗する事を考えるが、やめる。蛇川は自転車に上手く乗る自信がない。転んだりしたら痛すぎて泣いてしまう可能性が大きい。

 こうしている間にも、鰐淵は必死になって頑張っているに違いない。そう思うと、蛇川にも力が湧いてくるようだった。絶対に、急がなくて済む方法を思いつかねば。そう固く決意する。


「そうだ! 一度通話を切って、またかけ直すのはどうでしょう! 着信音が鳴れば、さすがに出てくれるはずです!」


 思いつくと、蛇川は素早く携帯電話を操作する。鰐淵に電話をかけ直す事で、コール音が連続して鳴る。


 しかしその頃の鰐淵は、黄森争奪戦とも呼べる泥沼の戦いに身を投じていた。三体一の構図となるかに思えた戦況は、黄森を倒した者がバッジを得られる事も相まって、互いを邪魔しあう乱戦へと変化。一対一対一対一の身を削り合う戦いが起きていた。

 そんな中、鰐淵は着信音に気づいてはいたが、当然出る余裕がない。


「出なくて良いのかい?」

「うるせぇババァ!」

「うるせぇのはあんたの携帯だよ!」

「わかってるよ! 俺だってうるせぇと思ってるよ! アァー! 気が散る! 誰だよこんな時に!」


 軽快なメロディはアーケード内で虚しく響くだけであった。


 そして、そうとは知らない蛇川は鰐淵に苛立ちをぶつける。


「どうして出ないんですか……。空気を読んで下さい鰐淵さん……。お願いします。空気を読んで下さい……。私はもう歩きたくないんです。ゆっくりお風呂に浸かって、お風呂あがりにジュースを飲んで、お布団で寝たいんです……! 鰐淵さん……!」


 しかし無情にも、二人の電話が繋がる事はなかった。


「あぁっ! 鰐淵さんっ……!」


 なんて使えない奴だろう。蛇川の胸を失望という感情が占める。


「いえ。まだ手はあります。要は鰐淵さんの近くに、誰かいれば良いんです。借り物競争の利益とは無関係で、ゴール前に立っていても大丈夫そうな人……」


 しばし考え、それから番号をプッシュ。


「もしもし?」


 相手はすぐに出てくれた。


「あぁ良かった。私です私。実はお願いがありまして……」

「え、誰?」

「ふえ? やだなぁもう」


 朗らかに話す蛇川に対して、電話越しの相手は警戒を深める。


「……マジで誰?」

「だから私ですよ。わーたーしー。……おや? どうしました? まいんちゃん、私ですよ?」


 電話の相手は針澄まいん。近所の女子校生。つい昨日も顔を合わせたばかりである。だが針澄は不審がる感情を隠せない。


「……魔女さん?」

「そうです。まぁ、電話の声というのは実際の声と少し違います。わからないのも無理はありませんが、流石にそれくらいは……」

「あーいや、そうじゃなくて。どうやったの?」

「どう、とは……何がですか?」

「どうやって、あたしの電話番号調べたの? 教えてないよね?」

「おやおや? そんな些細な事を気にするタイプでしたっけ?」

「魔法って奴……?」

「まさかあ。勘で番号を押したら繋がったんですよ」


 蛇川は適当な事を言うと、そんな事より、と真面目な声を作る。


「鰐淵さんに伝えなくてはならない事があります。お願いできますか?」

「いやあの……。全然そんな事よりじゃないんですけど。話題の変え方が急すぎます」

「……」


 蛇川は、どうやって電話番号を手に入れたのか答える気がなかった。そのため、息を吸って吐いて、もう一度真面目な声を作って言う。そんな事より、と。


「借り物競争なんですが、百万円は諦めます」

 この事実の方がずっとずっと重要なのである。





「フッとべ!」


 鰐淵の気合のこもった一撃は、黄森の胴体を貫いた。飛沫を上げながら、粉々に飛び散る体は、やがて空気に溶けるように霧散する。そして残ったのは、一枚のバッジ。コウモリの絵で、鰐淵の目的としていた物である。


 現在の状況は、それぞれが目的のバッジを手にしている状態であった。一度は全てを得た黄森も、逃げながらゴールを目指すのは難しいと判断。不利を悟った彼女は、分身体を作り、それぞれにバッジを持たせてバラバラの方向に逃げたのだ。どの分身が何のバッジを持っているか確認した一同は、それぞれのバッジを狙って追撃。そして今、鰐淵は自分の目当てとするバッジを手に入れたのである。


「が、しかし! やっぱりあのババァか! ババァ速ぇ!」


 バッジを手に入れたのは、それぞれ同時と言っても良かった。だが、一番に先頭へと躍り出たのは、虎落。


「花屋舐めんじゃないよ! こちとら肉体労働やってんだ!」


 花屋の日々の業務には、腕力体力を必要とする事も多い。虎落は初めての配達を今でも覚えている。

 とある高層ビルの最上階まで花を届けたのだ。その日はエレベーターが故障していたので、巨大かつ重量のある花束をいくつも階段で届けたのだ。もちろん長年の経験はそれだけでない。大変な苦労も、挫けそうな日も、数えきれないくらい何度もあった。


 無論、今ではビルの外壁を駆け上って配達するくらい容易であるが。


「日々の仕事で鍛えられてんだ。喫茶店のお茶汲み係と一緒にすんじゃないよ!」


 鰐淵に向けた罵声だったが、反応したのは黄森だ。高速で駆けながら怒声を返す。


「お茶汲み舐めてんじゃねぇぞババァ! てめーの注いだ茶に金出す奴がいるかよ! あたしがやるから儲かってんだ!」


 足音を立てない、しかし異様に素早い独特な走り方の黄森。もはやゴールを目指すだけの、最後の局面である。鰐淵は前方を走る虎落に言い返す。


「そうだぞババァ! お茶汲み舐めんなよ!」


 瞬間、クナイが鰐淵の顔に投じられる。同時に、茎を鋭く切った花が頬をかすめた。虎落と黄森が鰐淵に強い視線を送る。


「てめぇの茶はクソまずいだろうが!」

「舐めてんのはてめぇだろうが!」

「なっ、それは……!」


 二人の言葉に鰐淵は言葉が続かない。


「お、あ……。……まぁ、確かに、あんまり……俺のコーヒーの評判は良くねぇが……」


 すると最後方から、ぐんぐん追い上げる犬飼が鰐淵の背を叩く。攻撃的ではない。優しいものだ。


「元気を出して下さい。あなたは滅すべき悪魔ですが、それとこれとは別です。例えドブみたいなコーヒーであっても、この世にあるもの全てに意味があるのです。あなたのコーヒーに、主の御加護があらん事を」


 アーメン。と十字を切る犬飼。勝機を感じた鰐淵は、走りながらもその顔面に拳を叩き込もうとするが、寸での所でトンファーに受け止められてしまう。


「くっそ……。しょうがねぇな……! 勝つって約束したんだ! やったらぁ!」


 鰐淵は意を決すると、肉体の深部まで悪魔化を進める。肉体のステージを一段階、二段階と引き上げ、目の前を行く老婆……否、美老女を追い抜くために、能力を向上させる。


「んんんん!」


 肉体への負荷は大きい。歯を食いしばって耐えつつ、その加速を更に上昇させる。


「ッオォォォ!」


 一歩踏みしめるごとに、景色と空間が背後に飛び去って行く。物理限界の速度に達しようかという世界の中、鰐淵の強力化された視力はゴール前の人だかりを見た。そこでは、針澄まいんが手を振っている。すぐ側にへたり込むように座っているのは蛇川だ。


「わにぶちさぁーん!」


 針澄の声がゆっくりと聞こえる。しかし、鰐淵の聴覚はその声を明確に聞き取っていた。


「勝っちゃだめぇー!」

「え」


 応援、声援の類だろうと思っていた鰐淵は、急速に迫ってくるゴールラインを前に、既に虎落を追い抜いていた。

 そして、蛇川の呟くような声が聞こえる。恐らく今の鰐淵の聴力ならば聴こえると判断したのだろう。事実、鰐淵は蛇川の声だけを観衆の中から選択して聞く事ができた。

 しかし、そんな事は聞かなければ良かった。


「一等の百万円は、指定商店における商品券とする。別紙記載というふざけたやり口の説明書きがありました。このイベントは最初から百万円なんて用意していません。一番得をするのは、現金でもらえる二等の二十万円です……!」


 鰐淵は背後を振り返る。ババァをブン投げて一等にする。もはや停止できる速度ではなかった鰐淵だが、せめて、と腕を伸ばした。しかし、その一秒にも満たない時間の中。虎落は杖を振り、その手を弾く。


「いっひっひ」

「ば、ババァてめぇまさか!」


 この老婆は、最初から全て知っていたのだ。この展開を想定していたのだ。


「くそ……くそぉぉぉ!」


 鰐淵の体がゴールラインにかかる。まさにその瞬間。最後まで諦めなかった彼女の祈りが、天に届いた。


「シャァァイニングッ! ムゥーっヴ!」


 白く輝く流星が、信仰の力を以て神速の徒と成る。

 犬飼は百万円が商品券であるなどと知らない。ただ悪魔にだけは渡すまいと、その聖なる力を爆発させ、虎落と鰐淵の間に割って入った。

 咄嗟に、鰐淵は犬飼に道を譲ろうと体を傾ける。この女が先にゴールすれば、と思っての判断だった。

 だが、鰐淵の願いは届かない。


「お、おおああああ!」


 渾身のブレーキは、しかし元の速度を殺し切る事ができない。犬飼を通すために傾けた姿勢は、バランスを取り切れない。


「ぐ、ぐぐぐ……!」


 そして勝負は決着した。終了のピストルがパンパンと鳴り響く。


「ぐぅあああああ!」


 全身から吹き飛ぶようにして、止まり切れなった鰐淵はゴールラインを越える。そしてラインと交差するように、犬飼によって白く輝く線が刻まれる。


「ゴール! 今、ゴールっスよー!」


 カウカウピッツァの宣伝帽子を被った牛山がマイクを持って飛び跳ねる。観客から歓声が雪崩のようにあふれ出す。


「一等! 一等は! 喫茶青大将、鰐淵さんっスよぉー!」


 そして全身に神聖なオーラを纏ったまま、静かに停止した犬飼にも、牛山の手が向けられる。


「二等はシスターさんっス! おめでとうございます!」


 鰐淵は観客席に突っ込み、パイプ椅子の山に埋もれていた。逆さまになったまま、無様な姿勢で目を何度か瞬かせ、手足や背中の痛みを感じながら空を仰ぎ見た。


「……」


 突如として、空を覆い尽くす影。何事かと見れば、真上から蛇川が覗き込んでいた。


「帰りますか……」

「あぁ……」


 蛇川は助け起こしてくれなかったので、鰐淵は自力で立ち上がる。


「帰りに何かウマいもんでも食って帰ろうぜ」

「そんなお金ありませんよ」

「何言ってんだ。商品券たって、百万円だぜ? 結構良い物食えるだろ」

「そいつはご冗談、ですよ。この百万円、とある一店舗でしか使えませんでした」


 肩をすくめる様子に、鰐淵は脱力。手近なパイプ椅子を立てて座ると、続きを促す。


「ご存じ、骨董のカミツキ。ウチにもたまに来る、亀谷さんのお店です」

「うわ……」


 百万円の商品券が、突如としてゴミに変わった瞬間だった。


「……でもまぁ……」


 気づけば、観客の声は二人を包んでいた。大勢に囲まれて健闘を称えられる犬飼は、恥ずかしそうに十字を切っている。


「なんか、楽しそうだから良いんじゃねえかな。祭りってそういうもんだろ?」


 鰐淵が蛇川に言うと、ふふふと微苦笑で返された。それからいつもの様子に戻る。


「いいえ。普通に百万円もらえなくて不愉快です。更に鰐淵さんが二十万円を逃したのは、電話に出なかったのが理由です。お祭りどうこうではなく、全く別の問題として全面的にガッカリしています。楽しそうだからどうとか……頭おかしくなったんですか?」

「……ほんとお前、ムカつくな」


 鰐淵は蛇川に鋭い蹴りを打ち込むが、足場を作られて軽く阻まれてしまった。

 こうして、借り物競争は大盛り上がりで終了し、見物客を大いに楽しませたのだった。



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