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喜目良商店街の悪魔  作者: 稲荷崎 蛇子
2/14

part02 喜目良商店街の聖女

 夏祭り当日である。

 喜目良商店街のアーケード周辺には、夏祭りを示すのぼり旗が無数に並んでいる。三日間にかけて行われ、最も集客率の高い打ち上げ花火は最終日の夜だ。


 鰐淵は甚兵衛を着ると、その長い髪を後ろで束ねた。サンダルで歩くアーケード内は、既にあちこちで屋台が並んでいる。飲食店のものが多いが、雑貨屋や花屋など、飲食に関係のない店も屋台を数多く出している。そうした屋台には金魚すくいや、射的なんかが目につく。

 鰐淵が目的地として見つけたのは、お好み焼きジライヤ。忍者のシルエットが目立つ看板で、そのすぐ前で一件の屋台が焼きそばを焼いている。


「お、やってんな地雷娘。手伝いに来たぞ」


 祭り見物のついでに、困っていたら手を貸してやれ、と鰐淵に言ったのは蛇川ではない。言ったのが蛇川であれば鰐淵が動く事もなかっただろう。一日分の給金を渡しながら言ったのは、誰あろうオーナーである。


「ウチで屋台やるのも面倒だし、かと言って何もしないのは組合から文句を言われる。夏祭りに協賛はしてます、という実績が要る。店員ひとり送るだけで済むなら万々歳」


 と、いう旨の話の元。蛇川の約束とは全く関係なく、鰐淵はお好み焼きジライヤの屋台を手伝う事と相成ったのである。


「客の入りはどうだい?」


 じうじうと鉄板で焼けるソースの香りと煙が沸き立つ中。鰐淵は鉄板に向かう針澄に話しかけた。首だけ動かして視線を送ってきた針澄は、眉を寄せて不満そうな表情を作る。


「あんまり良くないね」


 それからわざとらしく溜息を吐く。


「しかし、助っ人があんたとは……。頼りになる悪魔ってのは?」

「え? あぁ、俺だよ俺。いざとなったらデビルパワーで助けてやるし、そうじゃなくても接客と焼きそば作るの手伝うぜ」

「勘定だけして頂戴。で、面倒な客が来たら任せるから」


 任せとけ、と親指を立てた鰐淵は、ふと彼女の父親がどうしたのか気になった。怪我をしたと聞いていたが、程度までは聞いていない。焼きそばが作れないという事は、腕や手を動かせないのだろうか。


「あぁ、指の付け根を骨折したから物が持てないの」

「へぇ? なんでまた」

「喧嘩だよ喧嘩。殴った時に避けられて、殴った先が電柱だったみたい。それで握ってた拳を割っちゃったってわけ」

「なんて綺麗な自業自得」

「今はあちこちの店にちょっかい出しに行ってるよ。片っ端からいちゃもん付けてると思う。さすがに拳が割れてるから喧嘩しないと思うけど……。まだ左手も足も残ってるから心配かな」

「親父さんはバーサーカーか何かなのか?」


 なるほど、と鰐淵は辺りを見て頷いた。この店の周辺だけ何故か屋台がないのだ。決して立地が悪いわけでもないのに、ぽつりぽつりとしか屋台がないのは、つまりバーサーカーみたいなクソ親父が絡んでくるのを避けているのだろう。自分だってこんな場所に出店したくない。当然だ。


 鰐淵は納得しつつも、果たしてこんな店がどうして存続できるのか疑問を抱いた。こんな店は一晩で潰れて然るべきである。一体どこの誰が客になっているのだろう。


「ま、ウチは味だけは良いからさ。前にテレビに出て、それから結構遠い所からお客が来てくれるんだよね。それも同じ客が何度も来てくれるもんだから、ありがたいよ」

「……あ、それ見た事ある」


 鰐淵は一年ほど前にやっていたテレビ番組の内容を思い出す。確か、ガンコ親父の作る妥協のない一皿! という旨で紹介されていた。物は言いようにも程がある。


「この辺の人も、全く来ないって訳じゃないしね」


 針澄は誇らしげだったが、それからすぐに残念そうな顔になる。


「だから、今日の焼きそばだって本当はすごく売れるはずだったのに。父ちゃんが作ってたら、きっと今頃は大行列なのに……。それを娘のあたしが焼いてるもんだからって、どいつもこいつも……。片っ端から縄でくくって引っ張って来ようか悩んでるの」

「ふーん……」


 血の気が多い親子の内情を聞きながら、鰐淵は考える。客が来ないのは、どう考えても近くに何の屋台もないからだ。夏祭りの縁日で、屋台の少ないエリアなど誰が行きたがるものか。

 この場所は、人気の多いエリアとエリアの通り道である。それも、どっちかと言うと近道でも何でもない、単なる広いだけの迂回路。そんな場所を誰がわざわざ通るだろう。本来ならこの場所には屋台が並ぶスペースもあるので、ここ自体が人気エリアにも成り得るのだが、ここに出店がない理由は先ほどの通り。


「……まぁ、自業自得としか……」


 ジライヤの店主が揉め事さえ起こさない人格であったなら、恐らく全てが解決していた事は言うまでもない。こんなに手助けする気持ちが湧かない話もないだろう。

 鰐淵は、憂いを帯びて悲しそうにする少女の姿を見つつも、その健気に頑張る彼女自身こそが、他の屋台をぶっ潰してしまおうと計画していた事を思い出す。


「……まぁ、うん……」


 とりあえず客の呼び込みくらいはしてやるか、と声を上げようとしたその時。命知らずにも、ジライヤの屋台の真向かいにパラソルを設置する人物を見つけた。


「……っしょ、よいっっしょ」


 大き目のパラソルを金具で固定すると、重そうな木箱を並べている。それから大型のローテーブルをドンと置いて、開店準備に勤しんでいる。だが目を引いたのは、このバーサーカー親父の店の向かいに屋台を構えた事だけではない。その人物が、真夏の炎天下にも関わらず、黒い修道服できっちりと全身を固めていたからだ。


「……地雷娘、あれマジか。なんでこんな所にあんな恰好で来てるんだ? 新手の自殺か?」

「あー? あぁ、シスターね。最近この辺に来たんだよ。ほら、近くに教会あるでしょ。あそこに来たんだって。若いのに頑張ってるって評判だよ」

「……あのクソほどボロい、お化け屋敷みたいな教会に? とんでもねえ所に来たもんだな」


 鰐淵と針澄が眺める視線も気にせず、手製だろう看板を置いた。可愛らしい文字で書かれたのは、カタヌキ屋の一文である。


「げぇっ! あのお姉ちゃん、カタヌキかよ! シスターのやる事か……?」


 子供たちを騙して小銭を巻き上げる、というような一方的な偏見を持つ鰐淵は驚き、それからシスターの様子を観察する。年齢は針澄ほどではないが、まだまだ若い。女性的な体つきを修道服でガッチリ隠し、この暑さの中で満面の笑みを浮かべて座っている。不思議な事に、汗ひとつ浮かんでいない。


「金儲けシスターだな。とんでもねぇ」

「やめなさい。聞こえるでしょ」


 こそこそと様子を見ている二人など何のその、にこにこと笑顔で座っている様子はどこか牧歌的な雰囲気があり、何だか安心できる空間を作っている。

 しばしの後、とうとうその店に子供が現れた。数人で一緒になり、シスターのカタヌキに挑戦しようとしている。


「はい、こちら一回十円になりますよ」

「なっ!」


 焼きそばを焼いていたコテを取り落としそうになりつつ、針澄は目の前の会話に注視した。


「あぁ、失敗してしまったようですね。ではこちら、お土産のお菓子ですよ」

「ななっ!」

「あら、あなたはお上手ですね。ですが金銭による報酬はお出ししていないので、こちらのお菓子をどうぞ」

「なんっだとー!」


 とうとう針澄が大声を上げた。その声に驚いた子供たちは、跳び上がって散り散りに。


「おい……どうした? 急にデカい声を出すなよ。バーサーカーの血がうずくのか?」

「バカもーん! ちゃんと見ろ! わかれ!」

「バカもん、なんて女子校生のボキャブラリーか? いや、こりゃ親父さんの影響か……」


 それから針澄の訴えた話は、鰐淵にも理解できるものであった。

 まず、いくら飲食に比べて安いカタヌキの屋台とは言え、一回十円は破格すぎる事。これでは他のカタヌキ屋から客を全て奪ってしまいかねない。加えて、カタヌキに失敗しても無料で渡すお菓子の量が、残念賞のレベルではない事。それはお菓子セットと言うべきもので、小さい子供なら一抱えもある量だ。

 カタヌキとは、その成否で景品や賞金が変わるもの。それが一律で全員に大きなお菓子セットを配布などされては、目の前で焼いている焼きそばを買う者などいる訳もない。

 実質、一袋十円でお菓子セットを販売しているのと同じである。

 ただでさえ少ない客の内、少なくとも子供に関しては全て奪われていた。


「まぁ、商売の観点から見たらそうだが……。そりゃシスターの方も大損してるって事だろ?」

「はー? 関係あるか! ちょっと文句言ってくる! ぐしゃぐしゃにしてやる!」


 腕まくりを始めたリトルバーサーカーを、まぁまぁと抑えた鰐淵は、任せろと胸を張った。


「用心棒に任せろよ。俺がガツンと言ってくるから、お前は焼きそば焼いてろ。な?」

「……ここで見てるから、加勢が要る時は言って」


 鰐淵は猫背を正して肩を回し、それからシスターの元へ向かった。針澄の大声に動じてもいなかったが、こちらのやり取りには気が付いたらしい。微笑みを浮かべながら、鰐淵を待っている。


「よぉ、ごきげんよう。ちょっと相談したいんだが、良いかい?」


 威圧するように、シスターを見下ろすように鰐淵は声をかけた。


「ごきげんよう。はじめまして、犬飼くるりと申します」

「えらい可愛い名前だな。で、犬飼さん。悪いんだけど、この商売のやり方はまずい」

「あら……組合の方々は規約上の問題はないと……」


 困ったように言うと、頬に手を当てて小首を傾げた。鰐淵は犬飼に対し、線の細いおっとりシスターという印象を抱いていたが、ここで修正を加える。犬飼から、あまりにも動揺や焦りを感じられないのだ。背の高い男に睨みつけられた者の反応ではない。場慣れしているのか、それとも本当に何とも思っていないのか。

 鰐淵は唸るように声を低め、睨み付ける。


「とりあえず、十円で豪華な菓子セットを配るのはやめてくれ。目の前でやってる側として、こっちの屋台が立ちいかない。それに、あそこにいるバーサーカーは娘の方だ。この後には本物のバーサーカーが戻ってくる。俺ひとりで親子を止めるのは無理だし、あんたも余計な怪我なんかしたくないだろ?」


 下手をすれば脅しととられかねないが、犬飼は微笑んだまま動じない。


「大体、何だってこんな場所に屋台を出したんだ? それに、こんな菓子セットを配るような金なんてオンボロ教会にもないだろう」

「いえいえ。幸運な事にも、親切な方々がお布施としてたくさん下さったので、近隣の方々に還元しようと思ったのです。さすがに私だけで食べきれるものではありませんしね。本当はお金などとらずに配りたいのですが、それでは商店街の規約に反するとの事で、十円だけ寄付として頂いています」


 犬飼は微笑んでいる。

 鰐淵はそこで、一つの可能性に至る。咄嗟に振り返るが、背後で構えているリトルバーサーカーはまだ気が付いていない。もしこれが露見すれば、その場でストリートファイト待ったなしだ。


 このシスターは、ジライヤを潰すために組合側から送られた刺客だ。


 鰐淵はその答えに自信を持って言える。間違いないと。親父が怪我をしており、更にあっちこっちの屋台に喧嘩を吹っかけて回っている。この機会に、ジライヤの売上を徹底的に落とそうという事だろう。組合は、このシスターに豪華お菓子セットを提供し、その屋台をジライヤの目の前に置く事で邪魔しているのだ。特に厄介なのが、当の犬飼にその自覚がない事だ。


「これは……」


 非常にまずい状況だった。それはジライヤの売上が、という話ではない。こんな血の気の多い店など、潰れるべくして潰れるのだ。恨みを買いすぎた方が悪い。そうではなく、このシスターである。犬飼の身の安全こそが問題だった。

 恐らく組合は、さすがのクソ親父とは言え、この線の細いシスター相手に暴力に出るとは考えなかったのだろう。鰐淵自身もそう思う。しかしながら、組合の人間は考えたのだろうか。

 その娘が父親譲りのバーサーカーであるかどうかを。


「犬飼さん、店を畳んで逃げた方が良い。あの地雷娘は地雷だが、頭が悪いわけじゃない。じきに気づくはずだ。そうなったら、あのガキは躊躇しないぞ」

「一体何のお話か……」


 そこまで話した所で、針澄がコテを鉄板に置いた。腕をまくって、ずんずんと大股で詰め寄ってくる。


「待て待て! まだ話し合いの余地は……」


 しかし、針澄の目的は鰐淵であった。甚兵衛の胸倉を捕まえて、わめくように言う。

「しっかりしてよ! せっかく魔女さんが紹介してくれたんだから、悪魔っぽい働きを期待してるの!」

「んな無茶な……」


 鰐淵は、このまま犬飼の屋台前で言い合っては営業妨害と取られかねない事を危惧する。既に妨害されているのはこちらだが、犬飼にその意思はないのだから。

 しかし、事態は鰐淵の想像とは違う方向へと転がった。


「……魔女の紹介した、悪魔?」


 職業柄、引っかかる言葉なのだろう。犬飼はゆっくり立ち上がると、ローテーブルの下からボストンバッグを取り出した。それから胸の十字架を強く握り込むと、針澄と鰐淵を視界に収める。


「どうやら、冗談ではなさそうですね」


 その濡れたように黒い瞳が、きゅうっと小さくなるのを鰐淵は見た。瞳の色が黄色く変色しているのがわかった時、鰐淵は咄嗟に針澄の肩を抱え、背後に跳び退った。


「確かにそれは魔女と、悪魔の気配……。お二人は憑りつかれています。私がお助け致します。今ッ! すぐにッ!」


 瞬間、地面がはじけ飛んだ。敷き詰められたタイルが散弾のように打ち出され、犬飼の屋台を損壊させる。その土煙から飛び出した犬飼は、既にボストンバッグの中身を両腕に構えていた。


「悪魔よ立ち去れ!」

「う、おぉぉ!」


 間一髪で、鰐淵が転がって避けた場所には、金属で補強された十字架が突き刺さった。否、それは十字架と呼ぶには大きく、攻撃的な代物でもあった。


「立ち去れってレベルじゃねえだろ! 何考えてんだ!」


 犬飼の両腕にあったのは、握って振り回す事に特化した棍棒。つまり、十字架の形をしたトンファーであった。


「神気よ! 私に宿れ! 我が主の御名の元、我が敵をブッ殺す力を!」

「くっそ……! 地雷娘! さがってろ!」


 鰐淵は突き飛ばすように針澄を背に回し、足を開いて構えた。そして両の腕に力を込める。犬飼のトンファーが殺意を巻き込むように高速で回転し、鰐淵の顔面を狙って振り回される。


「舐めんなイカれシスター!」


 トンファーはしかし、鰐淵の顔面を沈める事ができない。鰐淵の右手が素早く受け止めたのだ。

 本来なら骨折は免れないが、鰐淵の腕は黒く変色し、皮膚が革のような質感と光沢を得ていた。その長い腕の先には、変形して節くれだった指と、頑強である事が一目でわかる爪を備えてすらいる。


「とうッとう! 本性を見せましたね! さぁ今すぐその体から出て行きなさい!」

「大興奮の所悪いけど、これは自前なんでね!」

「ならッ! あなたごと滅します! 立ち去れ悪魔ァァ!」


 滅するのと立ち去れというのは矛盾しているのでは? という旨の悪態を言おうとするが、犬飼は両のトンファーで素早く乱打してくるため、鰐淵にその余裕はなかった。

 左腕も右腕同様に変質させると、鰐淵は次々とトンファーを受け止める。隙を見て攻撃に転じたいが、動きにくそうな修道服でありながら、その足運びに迷いがない。下手な攻撃をした場合、手痛いしっぺ返しを受けるだろう。


「うっわ! なにそれ!」


 鰐淵の腕を見た針澄が声を上げる。が、鰐淵に返答する余裕はない。


「行け! やっちまえ! その綺麗な顔面ぐしゃぐしゃにしてやれ!」


 暴力的な応援を背に受け、鰐淵はトンファーの連続攻撃を受け止める。


「なんて言葉づかいッ! あぁッ! やはり悪魔に乗っ取られています!」

「あのガキも自前だよ!」


受けるのではなく、トンファーを捕まえた鰐淵。掴んだ腕を攻撃されるより早く、勢いよく突き飛ばして一度距離を作った。


「それは間違いなく、悪魔の腕……。自前なんて、よくそんな嘘を堂々と……」

「まぁ、悪魔の腕ってのは否定しねーかな……」

「彼女の言葉づかいも、悪魔や魔女と契約した者の言いぶり……。自前なんて、よくそんな嘘を堂々と……!」

「まぁ、魔女級のクソガキってのは否定しねーかな……」


 犬飼はトンファーを回転させ、腰を低く構えた。


「きぃぃぃ! 人間の体を盾にとるなんてッ! 汚い! さすが悪魔ッ! 汚い!」


 絶叫した犬飼は、その身に力を漲らせる。


「私の信仰が真っ赤に燃える! 悪魔を殺せと輝き光る! 浄ォ滅ッ!」


 トンファーが白く輝きを帯び、犬飼が踏んだ地面はえぐれ、その体が弾丸のように飛び出した。


「シャァァイニングッ! トンッファァー!」


 必殺の一撃は、鰐淵も受け止める自信がなかった。ギリギリで避け、渾身の一撃での反撃を狙うしかない。そう判断した鰐淵は、その視力と体の反応速度レベルを上げ、迎え撃つべく拳を振り上げた。

 しかし、両者の間にやってきた女により、両者の攻撃は止められてしまう。


「え、何ですかこれ」


 鰐淵の前に立っていたのは、ゆるいパーカーを着た蛇川だった。その足を振り上げ、犬飼の顔に蹴りを突き出すかのような姿勢で止まっている。だがスニーカーの裏は空中を踏みしめており、そして犬飼のトンファーは振り下ろす体制から動かない。

それはまるで、犬飼との間に出現した見えない壁が両者を隔てているように見えた。


「これ、は……」

「足場を作る魔法です」

「物質ではない……? 概念魔法? そんな事ができる人間なんて……」


 蛇川の登場に言葉を失った犬飼は、再びトンファーを振る。確かに空中には見えない壁がある事を手応えで確認すると、一歩二歩と後退する。


「概念なので、威力に関わらず物質では貫通できません。そんなものを振り回して、人に当たったら危ないとは思いませんか?」


 蛇川はいつもの調子で続ける。


「ふ……。やれやれ、と言った所ですね。副店長に言われて来て正解でした。私がここにいるので、今お店は無人です」

「鍵は? ちゃんと鍵かけて来た?」

「鍵はだいぶ前に失くしたので、それ以来一度もかけていません」

「もー何してんだよ! そういうの報告しろよ!」

「昼間は営業していますし、夜間は私が住んでいる訳ですから、中から施錠しています。大丈夫です」

「そうか、大丈夫か……。……なにが?」


 鰐淵と蛇川がやり取りをしている間、犬飼は悔しそうに唇を噛んでいた。


「今の装備では勝てません……! だがッ! 丸顔の魔女ッ! 次こそは必ずッ……!」

「は? 丸顔じゃありませんけど。手足も長いしセクシーな体をしています」


 蛇川の、全くもって心外である、という表情はさておき。犬飼は最後に、思い切り地面にトンファーを叩きつけて心情を表現すると、おとなしく背を向けて歩き出した。


「見逃す訳ではありません。ただ、私の力と信仰が足りなかった事は認めます。二人を同時に相手しては勝てません。……今日の所はおとなしく引きましょう」

「意外と物分かりが良いな……」


 両腕の変質を元に戻し、鰐淵はちらりと背後の針澄を見る。


「さ、こっちもおとなしく商売に戻ろうぜ」


 そして鰐淵と針澄は屋台に向かう。新しい焼きそばを準備しようか、という所で鰐淵は気が付く。蛇川が帰らない。


「え、鍵かかってないんでしょ? 店戻ってよ」

「そいつはご冗談、ですよ。せっかくの夏祭りです。私だって見て回ります。何だか楽しそうじゃないですか」

「ダメだよ? ……なんだその意外そうな顔。本気でブン殴りたくなるな……。鍵ないと泥棒が入っちゃうだろ? 副店長だけじゃ困るだろ?」

「副店長なら、俺に構わず行って来い、と言ってくれるでしょう。……と言うか、もう夏祭りを楽しむ気持ちになっています。カレーの口でケーキは食べられませんよね? それとも鰐淵さんはカレーの口と気持ちで別のものを食べるのでしょうか? えぇもちろん鰐淵さんの言いたい事はわかります。が、これはどうにもなりません。早く焼きそばを焼いて下さい」


 思わず手が出そうになる鰐淵だったが、ふと気になる事に気が付いてしまう。犬飼が帰らない。


「えぇっ、おいおい、なんで普通にカタヌキの屋台そのままなんだよ。帰れよ、今負けただろ?」


 つい言葉にしてしまうと、犬飼は意外そうな顔で鰐淵を見る。


「な、何故ですか……? 許可は頂いてますし、子供たちにも喜んで頂けていると……」

「嘘だろ……つい今やりあっただろ。いや、そうじゃなくてもダメだよ。そんなふざけた商売を目の前でやられちゃ……」


 鰐淵が言いかけると、すぐ隣から勢いよく水蒸気が噴き上がった。じゅわわわ……と鉄板から上がるそれは、鰐淵の言葉を覆ってしまう。


「がちゃがちゃうるさいな。要は、シスターが何やってもウチが売れれば良いんだ」


 勢いよくコテを操る針澄は、犬飼にウインクをひとつ。


「本気でドツきあったなら、次は仲良く飯でも食おうぜ。というのはウチの教え。シスターの分は奢りだよ」


 針澄は手早くソースを回しかけながら、蛇川にも視線を送る。物欲しそうな目で見ている蛇川に、針澄は声をかける。


「魔女さんは……。さすがに店に戻りなよ。無人はまずいよ」

「ふぇっ?」

「客商売は真剣にやらなきゃ。うちの焼きそばは後で届けても良いから、今は店に戻りなよ」

「うああ……」


 何なら、助けてやったのだから一皿くらいタダでもらえるだろう。そうタカをくくっていた蛇川は、目の前で香るソースで胸をいっぱいにし、だがそれを得られない悲しみで、同じくらい胸が潰れる思いだった。


「う、うあぁ……」


 悲しみを癒すには、別の何かが必要である。蛇川は涙がこぼれないように上を向きながら、よたよたとカタヌキ屋に向かう。


「う、うぅ……」


 そもそも蛇川の財布にはお金がない。屋台を手伝っているだろう鰐淵から焼きそばをもらい、ついでに助けた御礼として小遣いをもらうつもりですらあったのだ。店への帰り道で買い食いする予算はない。

 だが、これならば買える。


「か……カタヌキ、一枚ください……」


 既に犬飼の店が十円でお菓子セットを配っている情報を蛇川は得ていた。十円ならある。せめて、これくらいはもらっていく。それによって少しでも、この悲しみを癒せるだろう。

 蛇川の作戦は完璧であった。


「一枚、十円になります」

「はい……十円です……」


 若干強張った声で犬飼は十円玉を受け取ると、カタヌキと削るための道具を蛇川に渡す。


「……あ、割れちった」


 何度かゴリゴリ削ったそれは、簡単に砕けてしまう。しかし蛇川はにやりと口元を歪めた。お菓子セットをもらうべく両手を差し出し、が、いつまで待ってもお菓子が出てこない。


「え……あの、お菓子……は?」

「何の事でしょう?」


 犬飼は微笑むばかりである。


「……お菓子セットを、もらえると聞いたのですが……」

「えぇ。上手にカタヌキが出来た方にお渡ししています」

「そんな! さっきまでは……」

「あら……。申し訳ありません。やはり、ゲームに失敗してもお菓子がもらえるのはよろしくないと苦情があったもので、変更しております。……もちろん、敬虔なる神の信徒、ならびに純真無垢なお子様には、主も慈悲をお与えになるとは思います」

「あ、あんまりですよ! 私の、十円……。ぐ、くそォー! 呪われろォー!」


 お菓子をもらえなかった蛇川は、捨て台詞を吐き捨てると、走って逃げて行った。


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