第68話 静かな着弾
「ところで、あなた。お名前は?」
左腕を見つめたまま、呆けたように立ち尽くす強面さんに、セリフィアが淡々と声をかけた。
それは、まるで何も特別なことなど起きていないかのような口調。
当然、声は届いていない。
強面さんは、ただ自分の左手を、指の一本一本を、何度も確かめるように動かしていた。
その表情は、夢の中にいるような、現実がまだ追いついていないような――そんな浮ついたものだった。
無理もないと思う。
実は俺もそう。
「あなた。お名前は?」
二度目の問いは、明らかにトーンが違った。
静かに、しかし明確に『圧』が込められている。
その瞬間、強面さんの身体がピクリと反応し、ようやくこちらに意識が戻った。
「な、なにか……あっただろうか?」
「あなたの名前は? ……ご事情は察しますが、同じことを3度も言わせないでいただけますか。」
セリフィアの声は、あくまで冷静。
だがその冷静さの中に、少しの苛立ちが滲んでいる。
彼女にとっては、腕が生えたことなど、大したことではないのだろう。
「あ、あぁ……そうか、すまない。俺は荒巻。荒巻英二だ。」
ようやく名乗ったその声には、まだ現実に追いつけていない戸惑いが色濃く残っていた。
そして、俺も内心で同じように戸惑いながら、ようやく現実を受け止める。
これは……えらいことになりかねん。
金になる。
金にはなるだろう。
だが、色々間違えると……えらいことになる気がしてならない。
――ということは、だ。
「セリフィア。」
「はい、マスター。」
振りむいたセリフィアを、じっと見つめる。
そして一度、じっくり頷く。
「セリフィアのことを信じてる。だから、この件。全て任せるよ。」
たのんだでー!
セリフィア様―!
――セリフィアは、俺の言葉を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
それは、彼女にしては珍しい反応。
わずかに、唇の端が持ち上がり、ゆっくりと瞳を伏せた。
「……ありがとうございます。全力を尽くします。マスター。」
その声は、静か。
凛としていて、けれどどこか強さが感じられる。
セリフィアは荒巻に向けた一歩前へ出た。
その動きに、荒巻の目も自然と引き寄せられる。
「荒巻英二さん。素晴らしい品であることは実感できましたね? あなた達にチャンスをあげましょう。」
声は静か。
だが、否応なく耳に届く。
拒否権など、最初から存在しないような響き。
「月に2本。供給はそれだけです。
価格は、そちらの提示を受けてから判断しますが、安ければ他所に流します。」
荒巻は、口を開きかけて、閉じた。
何か言おうとしたが、言葉が出ない。
セリフィアの目が、まっすぐに彼を見ている。
その視線は、冷たいわけではない。
ただ、揺るがない。
「……そっちで、値段を決めるんじゃ……」
「いいえ。私たちは『選ぶ側』です。
あなた方が『選ばれたい』のであれば、相応の価値を見せてください。」
荒巻の喉が、ゴクリと鳴った音が聞こえる。
左腕をもう一度見て、現実を確かめるように指を動かした。
「……わかった。親父に通す。……価値も、考えるように言っておく。」
「えぇ。あと、今後の交渉は、すべて私が担当しますので、よろしくお願いいたします。」
セリフィアは、軽く一礼。
荒巻は、ただ頷くだけ。
左腕を得た代償として、彼は『なにか』を失ったのかもしれない。
俺も、何も言う必要はない。
ただ『セリフィア専用のスマホを用意しよう』そう思うだけだった。
★ ☆ ★ ☆彡
午前の会議は予定を大幅に超過し、昼食も取れぬまま、九重澪は報告書の山と格闘していた。
D2免許保持者――とはいえ、実力だけでその資格を得たわけではない。
彼女の席は、鷹司グループ傘下の超常資源対策支援株式会社にある。
世界各地でダンジョンが出現し始めて以降、日本でも新たな利権が生まれた。
鷹司グループは、その波にいち早く乗り、官公庁との連携を軸にダンジョン関連事業へと深く食い込んでいった。
九重が所属するこの法人は、まさにその中核――
超常資源庁や、免許制度を管轄する超常資源庁公安管理局との調整を主業務とし、イレギュラー案件の調査・対応にも強みを持つ。
本来であればD3免許がやっとの力量である彼女が、D2免許を保持しているのも、この企業の後ろ盾あってこそだ。
だが、その『強さ』をもってしても、今回の案件は社内を揺らしている。
――中村大輔。
『超』のつく異質な存在。
これまでのどんな探索者分類にも当てはまらず、海外にも類例のない未知のケース。
常識外れの戦闘力。
武器や道具の運搬収納。
ダンジョン踏破能力。
魔石の異常な収集効率。
さらには、異能力者の召喚という前代未聞の現象。
どれ一つとして、通常の枠組みでは処理できない。
本件の依頼元である超常資源庁への報告、社内上層部への報告、超常資源庁公安管理局への報告。
証拠や動画を添えて送っているにもかかわらず、何度も確認が入り、机の上には未処理の書類が積み上がっていく。
睡眠不足も、そろそろ限界だった。
そんな中、端末に新着通知が届く。
差出人:中村大輔
九重は、眉をひそめる。
その名の連絡が、このタイミングで届くことに、嫌な予感しかしない。
嫌な予感しかしない。
が、見ないワケにもいかない。
見たくない気持ちを押し殺しながら通知を開くと、そこには動画ファイル付きのメッセージがあった。
――――
先日はご対応いただき、ありがとうございました。
中村大輔の連絡先を使用しておりますが、当日同行しておりましたセリフィア・アークライトです。
D1免許の件、その後の進捗はいかがでしょうか。
中村も、私たちを伴って1級ダンジョンに入れる日を心待ちにしております。
彼が1級から持ち帰るであろう成果を鑑みれば、特例措置は妥当と考えております。
現在、2日後の攻略開始を想定し準備を進めております。
お手続きのほど、引き続きよろしくお願いいたします。
さて、本日は別件でのご連絡です。
添付の動画をご確認ください。
該当の品につきましては、価格条件に応じて月間2本までの供給が可能です。
御社や庁にとっても、極めて有益な資源となると確信しております。
なお、条件が折り合わない場合は、他組織への流通も視野に入れております。
ご判断はお早めにお願いいたします。
――――
九重は、一旦、全ての感情を飲み込んで押し殺し、無の境地で動画を再生した。
映像の中で、男が瓶を受け取り、飲み干す。
数秒の沈黙の後、光が収束し、腕が生えた。
完璧に。
指の一本一本まで、再構築されていた。
ただ、息を呑む。
これは、これまで見た、どの資料にも載っていない。
『再生』の定義そのものが、書き換えられる。
九重は、端末をそっと閉じた。
机の上には、未処理の書類が山積み。
睡眠不足で頭も重い。
そしてまた、新たな厄介事――
しかも、特大の厄介事。
探索者の価値を塗り替え、
制度を揺るがし、
世間一般の常識を覆し、
他業界の利権の構造すら変えてしまいかねない。
九重は、静かに目を伏せた。
そして――涙が、頬を伝った。
誰にも見られないように。
ただ、静かに、静かに泣いた。
「……もうやだ。」




