第66話 ある日の煙草の匂い
駅を出た途端に、アルコールか油の混じったような匂いが鼻につき、思わず眉をひそめた。
まだ陽の光も眩しい時間帯だというのに、缶チューハイ片手の酔っ払いが数人、目につく場所で下品な笑い声を上げている。
その向こうでは、周囲を多少、気にしながら自転車の鍵をいじっている男の姿。
駅前のパチンコ屋から流れる電子音、たむろする若者たちの声、耳馴染みのない言語でのやり取り――雑音が耳にまとわりつく。
「……ここは、また随分と雰囲気が違いますね。」
隣でセリフィアが静かに呟く。
目を向けると、白衣の裾が風に揺れ、銀髪が淡く陽の光を反射していた。
この街の空気とはまるで違う、清潔な存在。
その美しい姿が視界に入るだけで、周囲の不快なざわめきが一瞬だけ遠のいたような気がした。
「そだね。……まぁ、俺もあんまり来たい場所じゃなかったんだけど。
検証に合いそうな人が、ここでしか思い当たらなかったんだ。行こうか。」
一度、来ている場所なので、さっさと目的地に向けて移動を始める。
「それにしても……面白いですね。『いかにも』といった言葉が似合う雰囲気です。」
駅前の雑踏を抜け、コンビニの脇を通り過ぎようとした時だった。
数人の男たちが、ニヤけながらこちらに視線を向けているのが目に入る。
酒の匂いと、妙に馴れ馴れしい笑い声。
そのうちの一人が、セリフィアに目を留めたのか、立ち上がって、こちらに一歩踏み出しながら口を開いた。
「よぉ姉ちゃん――」
その言葉と態度に、脳裏に一瞬『ぶち殺してやろうか?』という物騒な言葉が思い浮かぶ。
だが、すでにセリフィアが、静かに視線を向けていた。
――それだけで空気が変わった。
男たちの笑い声がピタリと止み、一歩踏み出していた男は、まるで見えない壁にぶつかったように足を止めた。
セリフィアは、ただ『見ている』だけ。
「……すまん、間違えた。」
そう言葉を振り絞り、告げ、男は何もなかったかのように踵を返し雑踏の中へ消えていった。
仲間らしき男たちも慌ててその後を追った。
俺たちも何事もなかったように移動を再開する。
「今、なんかした?」
「ふふ、見ただけです。……ちょっと不快な気持ちが入ってしまったかもしれませんが。」
「……ちょっと俺、『黎明の誓装』装備するわ。」
ガラの悪い土地。
そんな土地で『威圧をバラまいて迷惑かけちゃうかも』なんて配慮は、必要なかった。
俺も視線一つでトラブル回避できるよう、アクセサリをすぐに変更するのだった。
★ ☆ ★ ☆彡
今日も何事もなく終わるはずだった。
決闘場ダンジョン横の待機所になっている家で、ソファーに腰を下ろし、缶コーヒーを片手に、ただ窓から外を眺める。
閑古鳥が鳴いていた賭場も、戦いたい探索者と、運よく『アレ』に遭遇しなかった連中のおかげで、少しずつ人が戻り始め、配置転換を願った奴らの代わりも馴染みつつある。
窓を開け、缶コーヒーを窓の淵に置き、煙草を取り出して火をつける。
ダンジョンに潜るようになってから、ずっと吸っていなかった煙草。
だが、あの日以降、手が伸びるようになった。
ゆっくり煙を吸い込み、吐き出す。
うまくも、まずくもない。
だが、なんとなく落ち着く。
それだけで、少しだけ癒される気がした。
左腕の袖が空っぽのまま垂れ下がり、吹いた風に揺れる。
決闘場ダンジョンに残っているのは――惰性。
もちろん親父への義理はある。
だが、もう十分義理は果たした。
最近は、人並みの幸せを夢見ることも増えた。
七級娯楽興行連合会の看板を背負ってきた以上、非道なことも沢山してきた。
今でも時々、バカ野郎どもを締めることもある。
――ただ締めるにしても、これまでも派手に血が出る頭を狙ったり、綺麗に折ったり……再起不能にならない程度の手心は加えてきたつもりだ。
むしろ、この程度で心が折れるようなら、ダンジョンなんて目指さない方がいい。
俺みたいに取返しのつかない怪我をする前に気づければ、その後の選択肢が増える。
生きる道は、ダンジョンだけじゃあない。
……そうだ。
ガキの頃は喫茶店のマスターとかを夢見たことがあったっけな。
金なら、静かに生きるのには困らない程度はあるし、いっそのこと――
「俺じゃあ、できねぇよなぁ。」
喫茶店は出来るだろう。
だが、まっとうな喫茶店にはならない。
どうせ日陰者だ。
居ていい場所は狭い。
暗い事を考え出す前に、もう一度煙を肺に入れる。
つまらない考えを、煙と一緒に窓の外に吐き出していると、慌てて走ってくる舎弟の姿が目に入った。
「……めんどうくせぇ。」
慌てっぷりが、良くない。
あんな感じの時は『良くない知らせ』が来る。
「サンキュウさん! あっ! いえ、すみません! 荒巻さんっ! 来てます! アイツが!」
息を切らし、顔を引きつらせている。
その顔を見ただけで、誰のことか察してしまう自分がいた。
コイツも『アレ』を見ていた。
だからこそ、分かってしまう。
「…………笑う処刑人でも来たのか?」
「は、はいっ! アイツです! ど、ど、どうしましょう!?」
あの異常さ。
あの殺意。
思い出しただけで、この場から逃げ出したくなる。
煙草を挟んだ指が、わずかに震えた。
アイツと戦うつもりは、ない。
そもそも、戦えるわけがない。
気力も、とっくに擦り切れてる。
――それでも、逃げるわけにはいかない。
他の奴らじゃ無理だ。
俺しか、いない。
「……対応は俺がする。
お前らは下がってろ。あと、親父に連絡しとけ。」
そう告げると、舎弟は心底救われたような、嬉しさを隠し切れないような表情で、すぐさま離れていった。
足取りは重い。
心はもっと重い。
アイツが来る。
笑いながら、全部、壊していくアイツが。




