第62話 勤め人の苦悩
マナ・マテリアルズ株式会社 本社ビル5階。
探索者対応統括室――通称「探対」は、都心の喧騒から切り離されたように静かだった。
永井結月は、モニターに映る取引履歴の一覧を前に、眉間に皺を寄せていた。
「……これは、どういうこと……?」
彼女の指先が、タッチパネルを滑る。
表示されているのは、ある無所属探索者――中村大輔の取引ログ。
魔石、素材、希少鉱石、未査定物質。
まだ査定ができていない品がある中、まぼろしキノコのような特徴的な物だけでなく、ありふれた魔石ですら取引時の査定額からは想像もつかない高値で市場に流れていた。
「……うちが買い取った価格の三十倍以上……?」
端末に表示された査定基準表を見つめながら、彼女は静かに思考を巡らせ、社内向けの説明資料を整えるため、改めて魔石の買取ルールを言語化してみる。
「……基本は三軸評価。
ダンジョン等級、魔石エネルギー量、そして構造純度」
彼女は指先で画面をなぞりながら、独り言のように続ける。
「等級は、庁が定めたダンジョンランクに準拠。危険度と希少性を反映して、1級から10級まで。
エネルギー量は、社内基準でA〜F。Aが最高、Fはほぼ無価値。
構造純度は、結晶の安定性と混入率。90%以上で高評価。混入がある場合は、別途査定。」
一度資料を閉じ、手元のメモに視線を落とす。
「この三つのうち、最も低い評価を基準単価にする。
……つまり、どれか一つでも低ければ、全体の価値は引き下げられる。」
これは、企業としてのリスク回避であり、査定部門の負荷軽減でもある。
だが、探索者からすれば、納得しづらい部分もあるだろう。
「買取価格は、基準単価×重量。単価は月次で改定。
市場価格と庁の規制、社内在庫で変動――」
永井は、中村大輔の取引履歴に目を戻す。
魔石採取は9級と10級ダンジョン。
ダンジョン出入履歴も確認済みで、適正に処理されている。
その結果、ほぼ最下位の基準での買取価格となり、いずれの魔石も3万円での買い取りを行っていた。
価格交渉は一切せず、提示された額で即決とある。
問題は、その後の魔石の評価。
9級、10級ダンジョンでは、今まで採取された事のないエネルギー量を持ち、さらに極めて高純度の魔石。
採取ダンジョンにより、評価が極端に少なくなってしまっているけれど、それでも1つに、100万円程の値が付けられていた。
つまり――安く買い叩いてしまっている。
『謎の液体』と『謎の石』は、まだ査定が出ておらず、値付けも難航が予想される。
最悪、未発見のダンジョン成果物として、公の機関へ回す相談を持ち掛けることにもなりかねない。
静かにため息をつき、背もたれに身を預けた。
スーツの襟元を指で整えながら、視線を天井に向ける。
天井の照明が、白く冷たい光を落としていた。
「……まだ救われたのは金鉱石ね。」
企業の横のつながりを駆使し、精製業者と渡りをつけることができた。
とはいえ、あまりに少量では足が出すぎる。
だが、逆に言えば量さえあれば、中村大輔の役に立てる。
つまり――中村大輔がウチを必要とする。
万が一、魔石の取引に買取業者を試す意図があったとしたら、もう取引に来ない可能性もあるが――
上からの指令を思い出す。
内容は、簡潔だった。
「中村大輔との関係を強化。専属契約。個人的な信頼関係でも可。」
篭絡――その言葉が、脳裏に浮かんでは消える。
自分が可愛げのない女であることは自覚している。
だからこそ、まずは可愛げに自信を持つ松村 真理亜を支店に派遣しているのだ。
女の私から見ても、男はああいう女は好きだろうと思わずにはいられない。
そういう魅力を振りまく女。それが松村真理亜だ。
上の嗅覚は正しいとは思う。
これほどの逸材を、他社に取られるわけにはいかない。
しかも、彼は無所属。どこにも属していない。
今なら、まだ間に合う。そういう判断なのだろう。
企業の本質は『利益の追求』。
物、サービスなどを提供し、対価を得ることが目的であり、利益を得られなくなった企業は単純に倒産するだけ。
企業である以上、金儲けをしてこそ成り立つ。
金儲けをしない企業など存在できない。
そして『彼』は大きな利益を生み出してくれる可能性がある。
恐ろしい力を持っている……が、社交性も高い。
会社の為にも、私がやらなくてはならない。
胸元の社員証を見下ろす。
探索者対応統括室 永井結月
28歳。
入社7年目。
現場も知っている。交渉も得意。
けれど、そういうやり方は、これまで避けてきた。
立ち上がり、スーツの裾を整え、髪を結い直す。
「やるしかない。……でも、私は、私のやり方でやる。」
彼女は静かに、探索者対応統括室を後にした。
その背中には、企業の意志と、個人の矜持が、複雑に絡み合っていた。




