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1-19 アウトロは雨催いの残照の中で

 学生の頃に抱いた夢にしがみつきながら生きる山崎翔平は、その姿を見かねた恋人から別れを告げられてしまう。それ以降言い様のない無力感や虚しさを抱えて日々を過ごし、ふと見た空があまりにも綺麗だったために命を絶つ決意をする。

 訪れた団地の屋上からは雨催いの景色が一望でき、死ぬにはもってこいだと喜ぶ翔平だったが、そのとき隣に立つ影に気付く。


 囁かれるのは福音か、蛇の甘言か。

 これはある男の生涯の、孤独なアウトロの話。

 大学の小説サークルで出会ってからもう10年ほど付き合い、同棲している恋人の絢香(あやか)から別れを告げられた。いや、それは懇願(こんがん)ともいえるものだった。ここ数年のスランプを抜け出せそうなネタが浮かび、まさに文字にしている最中だった。

 意味がわからなくて思わず彼女を見た。

 派手さはなくても愛らしく、春の陽射しのような印象だった絢香は、初めて見る泣きそうな顔で言った、『そろそろ翔平(しょうへい)も現実見てよ』と。


『夢が夢がって言うけど、もうそんな歳じゃないんだよ? 翔平の夢なら働きながらでもできるじゃん。実際そうしてる人だっていっぱいいるし、そもそもずっとパソコンに向かってたって、ここんとこ全然書けてないよね?』

 絢香はそう言うが、僕だって短時間バイトはしているし、それ以外にも家のことも多少はしている。それでもやっぱり時間のロスが発発生するし、仕事中で書けないときにいいアイデアが浮かび、それを忘れてしまうと凄く損した気になる。

 そんな僕の言い分など(はな)から聞く気がないように、絢香は話し続けていた。


『あたしたちもう30過ぎたんだよ? この先身体だって悪くなるかもだし、今のままじゃふたりでも生活苦しくなるってずっと言ってたのに全然真面目に聞いてないし! もうね、いろいろ。いろいろ、駄目になっちゃったよ』


 ……少し前に会った元同級生にも言われた。

 同じサークルにいて、けれど僕や絢香に比べて明らかに文才がなくて。でも気楽だからとサークルに居続けていたやつ。そんなやつと再会したのは偶然だった。

 絢香には言わないが、僕は時々気晴らしに風俗に行っていた。絢香はいつも疲れていそうだったし、そんな時に変に迫って機嫌を損ねたくもなかった。一応自分の稼ぎを使うのだし、何よりふたりが円満に過ごすためと自分に言い聞かせながら月に何度か、バイトのない昼に(かよ)っていた。

 その帰りに会ったそいつは、無個性なスーツ姿であれこれ尋ねてきては不躾(ぶしつけ)に口を出してきた。絢香の言葉はやつそっくりで。


 だから口に出た、結局金かよと。

 そのときの絢香の顔は書き表す(すべ)も見つからない悲痛なもので。けれどすぐ『やっぱりそうだよね』と呟いて。


『そういう翔平でよかった。これでもう、迷わないで済む』

『え?』

村上(むらかみ)くんに連絡しなきゃ、終わったよって』

 絢香が口にしたのはつい先程僕が思い返していた、早々に自分の夢に見切りをつけた同期の名前だった。落伍者のようなものと見ていた村上の名前に、僕はただ戸惑うばかりで。


 絢香は何も具体的なことを言わなかった。

 だけど、寂しげな顔の中に確かに安堵の色が見えた。

 村上とのことを問い詰める言葉も、僕だってその気になればと食い下がる言葉も、絢香が部屋を出ていく姿を前にまったく喉から出なくて。

『今月分の家賃は置いてくね。もう若くないんだから、翔平もいろいろ気を付けて……元気でね』

 最後にそんな白々しい──けど心配げな眼差しと言葉だけを置いて、絢香は僕の部屋から出ていった。部屋には私物とかも残されていない。きっと前から少しずつ片付けていたのだろうことにも、全く気付かなかった。


 現実を見ろって何だ。

 何が現実なんだ。

 ただ問うようにキーボードを叩いた。傑作の予感がしていた壮大な物語は無味乾燥な文字列に早変わりしていたようで、それはWebサイトに公開した後の、他の作品と何ら変わらないPV(ページビュー)にも(あらわ)れていた。


 そういえば、絢香と最後に小説の話をしたのはいつだろう。学生の頃のように話が盛り上がらなくなったのはいつからだったろう。絢香が何か思い詰めた顔をして僕を見ている気がしたのは──用があれば話してくるだろうと画面に向き直った日は、いつだったろう。

 思い返せば心当たりになりそうなことはたくさんあって。

 だからといって今更何をすればいいかわかるはずなくて。


 絢香と別れた日に書き始めた物語が行き詰まった日、傾く太陽に燃やされる雨催いの空がやけに綺麗に見えたから、僕は部屋を飛び出した。

 とにかく高いところに行こうと、思い付いたのは近所の廃墟化した団地だった。セキュリティなんて利いておらず、誰でも入ることができる──それは屋上も例外ではない。なるべく高いところから景色を見たかった。ずいぶん長いこと、画面ばかり見ていたような気がするから。

 最期くらいは、心惹かれる景色を見たくなったのだ。


「はぁ、はぁ……」

 その団地にエレベーターはない。

 設置こそされているがたぶんもう管理などされていないのだろう、ボタンを押そうがドアを叩こうが、まるで動く気配がないのだ。だから屋上へ上がるには階段を進むしかない。

 管理するものがいなくても、どうやらそれなりに住みつく輩はいるらしい。どこかの部屋から小さな子どもの叫ぶ声が聞こえてきた。騒がしい、きっと猿のような親から生まれてきたのだろう──そう思った途端、そんな猿みたいなやつらでも家族を作ることはできているんだと感じて、別に関係ないのに、余計な劣等感をひとつ抱くことになった。

 階段を昇り終えて、錆びて重くなってはいるものの施錠はされていない鉄扉を開けると、視界いっぱいに淡い暖色の空が広がっていた。


「おぉ……」

 もうずっと放置されているらしい管理設備だとか、鉄錆だらけの貯水タンクやらを通り過ぎて、ぼやけた色合いの街並みにもっと近付こうと(ふち)を目指す。

 雨雲は家で見たときより重苦しい色合いで、今にも雨粒を落としそうに見えた。雲間から悪足掻きのように差す夕陽は眼下の街並みを黄色く燃やし、木々も建物も、川も道路も、何もかもが同じ色に染まる光景は、見ていて気持ちが昂った。

 薄暗いからか、見える家々には明かりが点き始めている。ただの点にしか見えない明かりのひとつひとつに、誰かがいる──そう思うと何ともいえない気持ちが込み上げてくる。あの小さな点のなかでどんな出来事が起きているのだろう? 世界には多くの人が生きているようだと、改めて思わされた。


 じゃあ、そろそろ。

 柵のない(ふち)の前に立ち、湿っぽい風を顔で受ける。生死も容易に踏み越えられる一歩を踏み出す前に絢香のスマホに通話を繋ごうとも思ったが、きっと別れは遅かれ早かれ訪れるものだったし、問題があったのはきっと僕だから、余計なことはしないでおこう。

 それじゃあ。

「せーの、」

 柄にもなく威勢のいい言葉と共に、最期の一歩を踏み出そうとしたとき。


「あ、」

「……」

 先客がいたことに気付いた。


 いつからいたのか。

 何の感慨もなさげな目付きでこちらを見つめていたのは、小学校のいわゆる低学年くらいの少女だった。全てが画面の向こう側だと言わんばかりの目をしてはいたが、僕よりもう少し前──(ふち)の上に立つ、年格好の割に肉の少ない脚は小刻みに震えていた。


「なぁ、ここは危ないからもう帰りなよ」

 死を前に気でも大きくなっていたのか、僕は思わずそう声をかけていた。理由はわからなかった──自分だって死ぬのだから見ず知らずの少女がどうなろうが知ったことではないのに、何故か声をかけずにいられなかった。

「親御さんだって心配してんじゃないの? 何かあったらお友達だってどんな思いするか……」

 口に出すまでもなく薄っぺらく中身のない説教だった。もちろんそんなのが響いていないことは、それを聞く少女のセレンディバイトのような瞳からも(うかが)えた。


 幼児向けキャラクターがプリントされた、あざといまでに幼さの強調されるシャツ、決して発育がいいとは言えない身体つき、ちょっとした力で折れてしまいそうな首や手足、そして彼女の(まと)うどこか儚げで危うい──故に見る人の心を捕らえて離さない空気が、更に僕の口を滑らせる。

「ここから落ちたら怪我じゃ済まないよ。君はまだ未来があるし、この先いくらでもいいことあるんだからさ……、今日は帰りな」


 少女はしばらく僕を見つめたまま動かなかった。遠くから聞こえる夕焼けチャイムが、心臓を鷲掴みにされるような沈黙を際立たせる。この屋上だけ別の世界になったようでさえあった。

 風が冷たくなってきた。もう死にに来ているはずなのに、つい風邪の心配などもしてしまうほどに。そしていつになったらこの子は動くのだろう、さっさと帰ってくれ……そう思っていたとき。


 不意に、少女がこちらに歩み寄ってきた。思わず後ずさりした僕を嗤いながら、(ふち)からその華奢な足を下ろす。

「ずいぶんお節介ですね、死にたがりのくせに」

「……っ、」

 思わず言葉に詰まる。そのまま近付いてきた彼女は、反射的に前に出した手をすかさず握ってきた! 蛇のように絡み付く細い指の感触に脳が焼ける。思わず前屈みになった僕の耳元で、彼女は吐息混じりに囁く。


「それなら、お兄さんが感じさせてくれません?」

「え、」

「生きてればいいことがあるって、口にしたからにはできるでしょう? どうやって感じさせてくれるんですか?」


 耳から全身をくすぐるような甘い刺激に足を崩される。

 僕を見下ろす婉然とした微笑みには、毒々しくも目を離せない『華』があって。

 空気を求めるように僕は彼女に手を伸ばし、そして。


「ようこそ、これからよろしくね」

 嗤い声が聞こえた気がしたが、その意味を考える余裕も僕にはなかった。蛇に丸呑みにされるような感覚がひたすらに心地よくて、生きてることに感謝すらして。

 死ぬことなど、もう忘れていて。


 それが、栗山(くりやま)沙耶(さや)との出会いだった。

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