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1-12 半年遅れのレシピブック

 毎日食事を作ってくれていた妻の遺品に、毎日の献立予定を書いたレシピブックがあった。

 妻の料理教室に通っていた生徒からその存在を聞かされた私は、そのレシピの料理を再現してみようと考える。

 日付は半年前。時期外れな料理も多いけれど、彼女が作ってくれるつもりだった料理を作り食べることで、私は彼女の想いに触れられるような気がしていた。

 妻が亡くなって、もう三ヶ月が経つ。

 六十歳半ばの年齢でも快活だった彼女は、突然の体調不良で倒れ、食道がんが見つかって入院。なまじ健康だったことで進行も早かった。

 薬で意識朦朧としながらも私の手を握って微笑んでくれた彼女に、私はどんな言葉を口にするべきか迷って、結局は「大丈夫だ」と何の根拠もない励まししか出なかった。


 それから数日後、妻の死は当然のように訪れて、遺族として慌ただしい日が過ぎたかと思うと、気づけば戸建てに一人寂しく過ごす独居老人となっていた。

 娘たちが嫁いで出て行ってしまったとき同様。いや、それ以上に家が広く感じる。


 妻が使っていた台所。

自宅で料理教室として使っていたダイニング。

 床の間、寝室、仏間……どこを見ても妻がいない部屋は虚しい。

 しかし遺品を片付けようとも思わなかった。このまま、今まで通りに妻の物と私の物が混在するこの場所で死ぬまで暮らしたいと思ったからだ。


 そんなふうに、妻の手料理ではない惣菜を食べていること以外は「今まで通り」を続けていた。

そんなある日、一人の女性が訪ねてきた。

 どこかで見覚えがあると思ったら、妻の料理教室の生徒さんらしい。三十代半ばくらい。私の娘たちと同年代だが、もう少し大人びて見えた。


「たしか葬儀にも来ていただきましたね。その節は、ありがとうございました。妻も喜んでいることでしょう」

「ありがとうございます」

「それで、今日は何か……ああいや、どうぞ中へ。良かったら妻に線香をあげてください」


 私がお願いすると、女性はそっと微笑んで了承してくれた。

 案内した仏間で仏壇のろうそくに火をつけると、女性は丁寧な所作で線香に火を点ける。

 妻のために手を合わせてくれた彼女は、仏壇から少しずれた場所に座りなおして、私に深々と頭を下げた。


「実は、お願いがありまして。先生……奥様がレシピを遺されていると思うのですが、入院された十月からの分をお譲り頂けないかと……」

「レシピ、ですか」

「失礼なことを言っているとは重々承知の上ですが、ぜひお願いします。先生は自宅で作る夕食を毎月一冊の手帳にまとめておられました。幾度か写させていただいたのですけれど、とても美味しい料理ばかりで、書き方もわかりやすくて……」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 少しずつ声が大きく速くなってくる奥野さんを止めて、私は自分の眉間を押さえた。

 レシピが書かれた手帳と言われても、私にはその存在を知らない。妻が料理をする姿は四十年ほど見てきたが、ここ二十年は何かを見ながら料理をしている姿など目にしたことがなかったからだ。


「私は見たことがありませんが……」

「以前に見せていただいたことがありますが、数か月分は書き溜めておられました。きっと入院される前まで書かれていたはずです」

「わかりました。探して、見つかりましたら連絡します」

「ありがとうございます。……生前は先生に料理だけでなく色々と相談にのっていただきまして……本当に、良い方でした」


 そっと目元を拭った奥野さんに、私は言葉を選んでいた。

 自分の知らなかった妻の表情を知ったような気がして、嬉しい反面、寂しさも募る。あるいは、嫉妬かも知れない。

 私は本当に妻のことをちゃんと知っていたのだろうか。


 電話番号を残して奥野さんが帰ったあと、手帳はすぐに見つかった。

 台所の一番左の吊戸棚、そこには小さな本棚が据え付けられており、料理に関する本がずらりと並んでいる。

 まだ三十代半ばのころ、妻に頼まれて私が作りつけた簡素な木製の棚だった。「ここは私の場所だから、あなたは使っては駄目よ?」と、そんな言い方で喜んでくれたのを憶えている。


「言いつけを破るけれど、許してくれよ。お前の生徒の頼みだから」


 二段になった棚の上段には市販の料理本が並び、下段には小ぶりな手帳がずらりと並んでいた。

 真ん中あたりの一冊を手に取ると、表紙には二年前の西暦と8月の記載があり、開くと1日から31日までの夕食のレシピが書かれていた。

 全てボールペンで書かれており、見覚えのある文字で用意する食材と手順が綺麗に整理されている。


「……食べた記憶がある。本当に全部、予定を決めていたんだな。×印が書かれたページは……ああ、作らなかった分なのか」


 時々、私や娘たちの提案で外食になるときがあった、その時に妻は小さく「×」を書いていたらしい。合わせて「再来月には作る」等の書き込みがあるものもあった。

 見てみると、翌々月の手帳にはそのレシピが早々に再登場していたから、つい笑ってしまった。作ると決めたら作る。なかなかに意志が強い。


「そう。あいつはやると決めたらきちんと手順立ててやる人だった」


 最後の三冊を取り出してみた。奥野さんの予想通り、妻が入院した去年の十月から年末までの三ヶ月分だった。

 奥野さんに電話するべきかと思ったが、私はふと思い立って十月一日のページを開いてみた。


・十月一日 はちみつ味噌のチキン・ソテー(豆ごはん・白菜のお吸い物)


 鶏もも肉、味噌、はちみつ、マスタード、グリーンピース、白菜。

 必要な材料、下ごしらえから大体の調理時間まである。料理の経験に乏しい私でも、これがあればそれなりのものが作れそうだ。


「これを作ってくれる予定だったのか」


 九月三十日の夕食後に倒れた妻は、結局この家に生きて帰ることは無かった。

 何度か食べたことがあるメニューだったし、私が美味いと伝えたことも憶えている。

 思い出すと腹が減ってきた。

 生きている人間は腹が減る。悲しみにくれていても、前向きに生きていても空腹は訪れる。


「夕飯の時間か」


 定年退職する前から、食事の時間は変わらない。

 朝食は6時半。昼食は12時。夕食は18時。妻を喪ってからも、決まりごとは変わっていない。

 ただ、食事内容が妻の手料理ではなく、昼間のうちに買い求めておいた総菜と、二日分ごとに炊く白飯になっただけだ。


 私は総菜をレンジで温め、次いでコップに注いだ酒を温めた。

 毎晩に飲むコップ一杯の日本酒。これをもう二十年は続けている。食事の用意がそろそろ終わるころに、酒を温めるのが習慣なのだ。

 そして、総菜を肴に酒を飲み、最後に白飯を食べる。


「今日は“本当なら”何を食べていたんだろうな」


 呟いた私は。自分の言葉に驚いていた。妻が死んだのは『嘘』だとでも言いたいのか、と。

私は目の前にあるパック詰めの総菜を見た。自分がなぜこれを食べようと選んだのか思い出せない。

 手帳を開く。半年前の十月一日のレシピ。『はちみつ味噌のチキン・ソテー』のページを見つめる。


 本当なら、妻が元気であったなら、この家にまだ居てくれたなら、半年前の私はこれを食べながら自分で温めた酒を飲み、いつものテレビ番組を見て、十時前には就寝していたはずなのだ。

 うまい飯が食えた。明日の朝食はどうだろうかなんて考えながら。


「う、うぅ……」


 通夜でも葬式でも堪えることができた涙が、気づけば胸を濡らすほど流れていた。

 膝に置いた手帳を、熱くなるほど握る。病室で触れた妻の手のように冷たい感触が、心臓を苦しくさせた。

 ひとしきり泣いたあと、私は上着と財布を引っ張り出して、近所のタクシー会社に電話を入れた。


 すぐに来てくれた馴染みの運転手は目を真っ赤にした私を見て驚いていたが、しっかりと目的地まで運んでくれた。

 妻と何度も通ったスーパーマーケット。最近は惣菜ばかりを買っているこの場所で、手帳を頼りに食材を買い揃え、店を出たところで自分の額を叩いた。


「しまった。タクシーに待ってもらうよう頼むべきだった」


 普段は自分の車で来ているせいか、あるいは少量でも酔いが回っているせいなのか、帰りのことを考えていなかった自分の迂闊さを呪った。

 しかしながら、その心配は杞憂に終わる。


「お買い物はお済ですか?」

「運転手さん、待っていてくださったのですか」

「このお店には待機のタクシーはいませんから」

「ああ、助かりました。本当に、どうも」


 礼を言って乗り込んだタクシーの中で、私は手帳のレシピを繰り返し読んでいた。

 運転手から声を掛けられるまで、家に辿りついたことにも気づかなかった。

 返す返すも気遣いに助けられたとお礼を言い、私は台所で買ってきた食材を広げてみた。

 そしてふと思い出し、家の受話器を手にする。


「奥野さん。手帳は見つかりました。ただ、コピーの方をお渡しします。原本は使いますので」

「使う、というと……」

「妻が遺してくれた手帳の料理を、作ってみようと思ったのです。早速ですが、一つ目の材料を買ってきました。今から挑戦してみます」

「そうですか、そうですか……」


 奥野さんの震える声が聞こえてくる。

 それでも私は、自分勝手に話を続けてしまった。


「半年前のレシピですが、私はこれを食べなくちゃならないんです。妻の料理を、ちゃんと食べなくては。だから申し訳ありませんが、写しを取るまで二、三日いただけませんか」

「もちろん待ちます。もしレシピでわからない部分があれば聞いてください。私、先生に色々と教わりましたから、きっとお役に立ちますよ」


 礼を言って電話を切った私は、また泣いてしまっていた。

 半年遅れのメニュー。時期外れのものだってあるだろうが、そんなことは少しも気にならない。

 妻の聖域であった台所。どこに何があるかを探すところから始めなければならないが、きっと大丈夫だろう。


 何も不安はない。ここは私たちの家で、妻のレシピがあるのだから。

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