夕方の一時
リディスと別れた後、アンジェは自室で買ってきたばかりの本を読んでいた。
王都には沢山の人々が行き交い、そして中には色々な種族の者達も居た。けれど、見ただけではその人の性質等わかる訳も無く、結果ルーンに相応しい相手探しは今回は断念することとなった。
ペラリとページを捲った時、ふとズキリと腕が傷んだ様な気がしてアンジェは指輪を取り、袖をめくる。
「うわっ……」
そして腕にある紋様を見るなり、アンジェは顔を歪めた。
魔紋の呪いを患って一ヶ月。
腕にだけあった筈の禍々しい紋様は、気付けば肩へと伸び、そして首をぐるぐると巻く首輪の様になっていた。
「あと六年後にはどうなってるのか想像もしたくないなぁ…」
アンジェは日記帳を手に取り、規則正しい字で今日の出来事を綴り始める。
リディスとイリスと王都の本屋へ出掛けたこと。
本の感想等を書いて、アンジェは日記帳を閉じた。
窓の外を覗けば、すっかり辺りはオレンジ色に染まっていた。
アンジェは指輪を再び身に付けると、見えなくなった文様に苦笑した。
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辺り一面が暗闇へと変わり、王都を照らす光が徐々に減ってきた頃、今日もまたルーンは屋敷へと帰宅した。
出迎えてくれた幼い頃からお世話になっている使用人に荷物を預けるなり、ソファーへとすぐ様沈む。
すっかり疲れきった様子のルーンに使用人はお茶の準備を始めた。
「……明日から一昨日魔物に襲われた集落へ行ってきます。帰りは多分、五日。それかそれ以上」
「畏まりました。奥様にも伝えておきます」
「頼みます。それで、今日の奥さんはどんな感じでした? 変わった様子は?」
「異性のご友人が遊びに訪れられていました。いずれご紹介したいと奥様が。親友との事ですよ」
「あー。この間聞いたあの子の事ですかね? 会ってみたいものですが、時間が…」
ルーンはそう言うと用意されたお茶を口に運ぶ。
仕事のスケジュールはギッシリ詰め込められ、休む暇もない程だ。
使用人達がアンジェが友人と言いつつも、異性の友人であるリディスに対して警戒心を持っている事にルーン勘づいている。けれど、ルーンからしたら別にアンジェが異性の友人と遊ぼうがどうでも良かった。
名ばかりの結婚。
名ばかりの夫婦。
この関係には愛なんて感情は一切無いのだから。
ルーンはまたもう一度お茶を口に運ぶ。
疲れた体を一気に癒さしてくれるような優しい味。それはまるで、ルーンがまだ幼い頃に飲んだ母がいれてくれたお茶の様だった。
「……ここ一ヶ月から急に魔物の活動が活発になり始めてます。まるで鍵が掛けられていた檻が何かを切っ掛けに開いたみたいに。偶然なのか、それとも何か切っ掛けがあっての事なのか…まだ何も分かってません」
「奥様にはお話になられたのですか?」
「しましたよ。私の目指す未来のことも」
ルーンは社交界でも魔導師界でもまた、心優しい人間だと言われている。だが、実際は口下手で、中々人に心を許さない人間である。
そんな彼がもうアンジェにそこまで話をしていた事に使用人は驚いた。
けれど、一番気になったのはその後だ。
ルーンの話を聞いて、アンジェがどのような反応を示したか。
なにせ皆、ルーンの目指す未来の話を聞いて、それを理解してくれる人は極わずかしか居なかった。殆どの人達がルーンの表面だけばかりを気に入り、中身は一切知ろうとはしなかったのだ。
「旦那様。どうか、奥様を大切にしてあげて下さいね」
使用人の言葉にルーンは手を止めた。
そして、カップをテーブルへと置くと呟く。
「放ってること、怒ってるんですか?」
「えぇ、少し。仕事とは言え、あまり放っておくと逃げられてしまいますよ」
「経験者が言うと、何だか言葉に重みがあるね」
白髪の髪と、白いちょび髭。少したりとも緩まない表情筋。勇ましい顔付きをした彼の名は、テヲと言い、彼もまたグレジス公爵家に命を救われた人間である。
空になったカップに紅茶を注ぎながら、テヲは言う。
「分かり合え無かったのですから、これは致し方無かったと思っております。しかし、旦那様には私と同じ道を歩んでは欲しくないのです」
「……同じ道って。あの子はまだ十二歳。恋愛対象にさえ見れないですよ」
「と、言いつつ初恋もまだじゃないですか、旦那様は。まぁ、恋愛どころでは有りませんでしたしね」
テヲの言葉にルーンは言葉を詰まらせる。
幼い頃から次期公爵家の当主として厳しい教育を受けて来た。そして何より、大切な人を失った事でルーンは魔法へとより力と熱を注いだ。
恋なんてしている暇が無かったのだ。
誰かに現を抜かす暇が有るなら、強くなりたかった。
もう、大切なものを失わない様に。
「テヲ。俺は……ちゃんとやれてるか? 父さんのように」
震えた声。そして、敬語を忘れた本来の口調。
テヲはまるで幼い頃のルーンを見ているような気持ちになり、強く心を痛める。けれど、テヲに出来ることはただ真実を肯定する事だけである。
「…えぇ。十分な程ですよ」
テヲはそう言うと、小さく頷いた。
暫く沈黙が続いた後、ルーンは口をゆっくり開く。
「俺だけ、幸せになってもいいのだろうか…」
そんなルーンの言葉にテヲは大きく目を見開いた。
そして拳をギュッと強く握り締めると、深々と頭を下げて言った。
「どうか、自分を責めないであげて下さい。旦那様の幸せをこのグレジス公爵家に仕える皆が望んでおります。それは旦那様のご……」
「ありがとう、テヲ。けど、暫く一人にしてくれますか? 大丈夫。ただ一人になりたい気分なだけですので」
「畏まりました……」
ルーンの言葉にテヲは一礼すると部屋を出た。
部屋の扉を背に、テヲは自分の不甲斐なさを責める。
テヲは命を救ってくれた、このグレジス公爵家に忠誠を誓っている。そして、何より約束したのだ。ルーンの両親に。彼を支えると。
しかし、ポッカリと空いてしまったルーンの心は、どうやらテヲでは満たす事が出来ない。そう薄々感じ始めていた。
「……希望は一つか」
テヲはそう呟くと、ゆっくりと歩き始めた。
小さな希望を一つ胸に添えて。




