黒ノ聖夜 BLACK SANCTION26
月明かりが眩く照らす病院脇の街路樹に、夜風が強く吹き付け、木々がざわめき枯れ葉が空へと舞い上がった。
擦り切れ、まだらに汚れた白衣は、まるで道化の衣装だ。羽村の『ハーメルンの笛吹き男』としての歪さを、そのまま着ているようだった。
「待ちやがれ、羽村!」
講堂の高窓から飛び出した夜咎クロウが、しなやかに膝を曲げて衝撃を逃がし、軽やかに地面に降り立った。
だが、クロウはその着地の瞬間、視界の端でキラリと銀が光った。瞬時に横へ転がると、今いた場所に羽村の『投てきナイフ』――医療用のメスが地面に次々と刺さった。
羽村は虚空へ手を突っ込み、さらにメスを取り出すと、まるでジャグリングのように、己の周りにメスを舞わせた。
そして、突如、銃弾のように弾かれたメスがクロウに襲い掛かる。
クロウは雨のように飛んでくるメスを、自身の影から呼び出した鎖で弾きながら、しのぎ続ける。
だが、全てをかわすのは難しく、数本のメスが頬を掠めて、うっすら切り傷を作る。クロウの頬に、じわりと淡く血が滲んだ。
「防戦一方ってのもな」
黒い鎖が空中で弾けると、一瞬にしてクロウの腕にぐるりと巻き付いた。
まるでガントレットのような腕で頭をかばい、クロウは雄たけびをあげながら、一気に羽村へ距離を詰めた。
「うおぉぉぉ!! 医者なのか、大道芸人なのか、はっきりしろや!」
鎖が巻き付いた拳を大きく振りかぶり、走る勢いのまま羽村の腹を打ち据える。
羽村が苦痛に顔を歪ませながら、大きく後ろに吹き飛び――そのまま、ふわりと空中に逃れた。
「ちっ! 直撃の瞬間に飛び退きやがったな」
思いのほか手応えがなかったことに、クロウが舌打ちをする。乾いた音が空気に虚しく響いた。
「降りてこい、このネズミ使い!」
羽村は口元を拳で拭うと、空中に浮かんだままで銀のフルートを口元に添え、音楽を奏でる。
その音色に応えて、空気も地面もザワついた。
「あなたは勘違いをしているかもしれないが――」
闇夜を切り裂き、つぎつぎと、無数のカラスが集まってくる。
そして、建物の影からは、瞳を輝かせた野犬や野良猫といった動物たちが、ジワジワとクロウを取り囲む。
「私が操れるのは、ネズミだけではないんですよ?」
羽村の合図で、動物たちが一斉にクロウへ飛びかかった。
上空からは無数のカラスが黒い弾丸となって降り注ぎ、地上からは野犬と野良猫が牙を剥いて飛びかかる。
全方位からの同時攻撃。逃げ場はなかった。
「ちっ!」
叩き落とせば済むだけの話だが、罪のない動物への攻撃をクロウは躊躇った。
クロウはステップを踏むように身体をひねり、カラスの嘴を紙一重でかわした。
続けて、足元に食らいつこうとした大型犬の顎を、蹴り上げるのではなく、足の甲で優しくすくい上げるようにしていなす。
右へ、左へ。
襲い来る牙と爪を、クロウはまるでダンスでも踊るかのように回避し続けるが、全てをかわすことは難しく、少しずつ皮膚の表面が裂け、血が滲んだ。
「ぐっ!」
それでもなお、粘るクロウに羽村は苛立ちを覚えた。
動物たちを、より鋭く、凶暴に、
銀色のフルートの旋律を変えようとした時、異変は起きた。
動物たちが、皆、その場で大地にひれ伏した。
羽村は何が起こっているのか理解できず、両眼を見開いた。
羽村のわずかな硬直――その瞬間をクロウは見逃さなかった。
クロウの手元から解き放たれた黒い鎖が、瞬時に銀色のフルートを絡め取り――わずかにギシッと音を立てると、そのまま真っ二つへとへし折った。
銀の欠片が夜空に煌めく。
「おい、お前、マジでおせーんだよ」
クロウはイヤホンを取り外しながら、空に向かって悪態をついた。
「遅参、平にご容赦願いたき」
闇夜に舞う黒い翼、黒い仮面に山伏の服。
天狗もまた耳栓を外しながら、詫びれもなくそう言ってのけた。
クロウは病院侵入前に、メッセージアプリで天狗に「耳栓をして旧市立病院に来い」と送っていたのだ。
『幻想の者の隠れ家』へ呼ぶための内部からの招待状。これだけで要件は満たしていた。
「『すまほ』の操作はあまり慣れておらんのでな。見るのが遅れた」
「ジジイぶんなよ、お前若いだろ! それに酒の席ではあったけど、オトモダチ登録する時に色々説明してやったろうが! ……まぁいい。今は羽村が先だ」
そう言うと、クロウは羽村に向き直った。
「あ、あぁ……私の、私のフルートが……!」
羽村は震える手で、空中で霧散していく銀の粒子を掴もうとした。
だが、その指は空を握るだけだった。
武器を失い、支えを失った羽村は、バランスを崩して無様に地面へと墜落した。
ドサリ、と鈍い音が響く。
「なぜだ、なぜ私の動物たちへの支配が解かれた」
羽村は地を掻きながら唸るように声を絞り出した。
「知れたこと。動物支配は天狗の領分。新参者の『幻想の者』に負けるはずもない」
天狗は腕を組み、羽村を見下すようにして答えた。
天狗が団扇で合図をすると、動物たちは元の住処へと帰っていく。
「さて、これで子どもたちも正気に戻ったろう。あとはこの『幽霊先生』にお帰りいただくだけだな」
クロウは虚空から『黒い袋』を引きずり出すと、羽村に手を伸ばした。
「待って!」
振り向くと、良子が息を荒らげて立っていた。その後ろには――多数の子どもたち。
その中の一人が羽村に駆け寄った。
「羽村先生、僕まだ先生のフルート聞きたいです」
羽村の顔に、生前の優しかった頃の、柔和な微笑みが浮かんだ。
「あぁ……シュウくん、すまないね。先生はもう吹けそうにないんだ。よかったら、これからはシュウくんが、皆の心を癒やす音楽を奏でてくれるかな」
遅れて良子が羽村の側に歩み寄った。
「あの……羽村先生でしょうか。私、東京のネットニュースの記者をしております、園辺と申します。……お聞きしたいことがあります。『奇跡の街』の真実を――」
「『奇跡の街』か……そんな物はどこにもない。真実など、何の役にも立たない」
羽村の身体が崩れ始める。
そもそも『ハーメルンの笛吹き男』が羽村を纏っていただけだ。幻想が砕ければ、羽村の形も保てない。
羽村は光の粒子として崩れゆく指先で病院を指し示した。
「院長室の写真の裏に――」
たったその一言を残して、羽村の亡霊は煌きを残してこの世から消え去った。
月明かりだけが光だった廃病院で、その煌きはまるでクリスマスのイルミネーションのようで。
子どもたちの誰かが「わぁ、きれい……」と呟いた。
光が空間に瞬きを広げていくと、やがて静かに空へと消えてゆく。
真っ暗の中に溶け込んで無くなるまで、皆は魅入られるようにその光を見上げていた。
◆◆◆◆◆
――その後、子どもたちの帰宅を天狗が手伝った。夜空を何度も往復しながら子どもたちを街へ送り届けた。
そのたびに、子どもたちの笑い声が夜空を満たす。
たとえこの記憶が消えるとしても、心の奥底のどこかで、きっと灯になるだろう。良子はそんなことを考えながら、夜空を駆ける天狗の姿をしばし眺めた。
天狗のおかげで旧市立病院の探索に時間を割くことができた。
クロウと良子は、暗い旧市立病院の中を、再びスマホのライトを頼りに歩いた。
「……羽村先生、子どもたちを人質にしなかったね」
「『子どもが好き』というのは、本当だったんだろうよ」
羽村が最期に見せた、優しそうな笑顔を思い出す。
「どうして子どもたちを連れ去ったんだろう」
良子が暗闇の先を確認しながら、後ろのクロウに問いかける。
「やつ自身もまた『ハーメルンの笛吹き男』の幻想に縛られていたんだろう。契約が果たされなかったと言ってたからな。そしたら――やつも物語に添って進むしかなかったんだろうよ」
ふたりが沈黙すると、病院の廊下には足音だけが響いた。
途中で案内図を見つけると、院長室を真っすぐ目指す。
扉を押し開けると、室内は当時の姿のまま残っていた。
クロウが、壁にかかっていた額に入った『当時のスタッフとの集合写真』を手に取って裏返す。――何もない。
横から覗き込んだ良子が、額をそっと取り外す。
するとその中から小さなUSBメモリが、ポロリと零れ落ちた。
◆◆◆◆◆
――成瀬市長、市を上げて感染対策をしないと、パンデミックはすぐにこの街にもやってくるぞ!
――いや、予算が無いんだよ、羽村先生。わかっておくれ。
――清田さんか? 至急アクリル板とパーテーションを手配してくれ。送り先は学校や養護施設だ。金? それは私が先払いする。パンデミックは待ってくれんのだ。
――金さえ貰えるなら俺は良いが、羽村先生、あんた生活どうするつもりだい?
――成瀬市長! これはどういうことだ! なぜ私の寄付が市の提供品になっている! ……いや、もしかして。あんた、まさか、公金の着服でもしているのか?
――羽村先生。あんたが悪いんだよ。黙って協力してくれてりゃあ、良かったんだ。




