黒ノ聖夜 BLACK SANCTION24
丘の上にあるその建物は、冬の冷たい夜風にさらされて、露出した金属部分に淡く霜が張り付いていた。
フェンスに囲まれ、誰も立ち入ることのできないはずの敷地内にふたつの影が滑り込んだ。
「マジで着いちまったな」
クロウの声に良子は小さく胸を張った。
月光を背負ってそびえ立つ、巨大な廃病院。
冬の底冷えだけではなく、その雰囲気に呑まれて、思わず良子は身体を震わせた。
「よし、じゃあ良子はここで――」
「待って! 私も行く。子どもたちを助けるなら、クロウさんだけじゃ怖がられちゃうでしょ」
「そんなことねぇわ! ……まぁでも、そうだな」
置いていけばまた、目の届かないところで何かのトラブルに巻き込まれる。だったら連れてった方がまだ安全か。クロウの頭の中でそう結論づいた。
「わかった、ついてこい。何かありそうなら俺が守ってやるよ」
良子は顔を強ばらせながらも頬を熱くする。
思わぬところで飛んできたクロウの「守ってやる」という言葉を、忘れないように頭の中で反芻していた。
クロウの視線が、良子の頭からつま先へと動いた。
「とりあえず、護身用具もなんもなしってのもな」
クロウは虚空に手を突っ込むと、箒の柄のような一本の長い棒を取り出した。なんの飾り気もない黒い棒。それを良子に渡した。
「これは?」
「お仕置き棒。悪い子はそれで叩くんだよ」
「ええー? 体罰は反対だなぁ」
「……お前、それは俺の前で言うなよ。傷ついちゃうだろ」
その後も、スマホのライト機能の確認や、バッグの中を確認するなど、二人は必要な物を交換し、言葉を交わしながら軽く突入の準備を整えた。クロウもスマホを何度かタップするとポケットにしまった。
そうして、クロウは静かに親指で病院の入口を指し示した。
良子は黒い棒を握りしめ、真剣な顔で頷いた。
クロウは病院の扉に手をかけると、グッと力を入れる。
鍵はかかっておらず、錆びついた蝶番が嫌な音を立てて、驚くほどあっさりと開いた。
ここにたどり着くまでが『鍵』みたいなものなのだろう。物理的な侵入者は想定されていないようだった。
真っ暗な病院に足を踏み入れた。
しんと静まり返ったロビーは、長年放置された埃とカビの臭いが充満していた。
クロウは油断なく周囲を警戒しながら、慎重に奥へと進んでいく。
その後ろから、良子も肩を縮こまらせて続く。黒い棒を握りしめたまま、足元をスマホのライトで照らして歩いた。
受付カウンターの前を通り過ぎようとした時、良子がハッと立ち止まり、クロウの袖を強く掴んだ。
クロウがゆっくり振り向くと、良子は自分の耳を指さし、恐怖を滲ませた顔でパクパクと口を開いた。
「笛の音が聞こえるって? お前は影響受けねぇから大丈夫だ。演奏会だと思って楽しんどけ」
クロウは肩をすくめる。
その他人事のような言い草に、良子はムッとして頬を膨らませた。
良子は恐怖を怒りで上書きすると、意を決したように顔を上げた。
音は、奥の階段の方から聞こえてくる。
良子は大胆にもクロウの前に出ると、スマホのライトを闇の奥へと向けた。
光の筋が、埃の舞う廊下を切り裂いた。
良子は振り返り、クロウに「こっち」と手招きをした。
「ここでも道案内してくれんのか? 頼もしいこって」
ニヤリと笑みを浮かべたクロウは、大人しく良子の小さくも勇敢な背中について行った。
階段をひとつ登り、さらに奥へと足を運ぶ。
フロア案内図、ナースステーション、処置室のプレート。当たり前だがどこもかしこも、空っぽだ。
「さすがに廃病院じゃ、働き者の『ブラウニー』――お掃除妖精も出てきやしねぇか」
冗談めかして呟きながら、目の前にあった病室の扉を開いて中を覗き込んでみる。
先を行く良子が錆びたストレッチャーを脇に寄せ、折れたパーティションの隙間を抜けると、足を止めた。
「……音は、こっちの渡り廊下の先からだよ」
良子がこちらを振り返って見ているのに気付くと「あぁ、わりぃ。そっちか」とクロウは再び後に続いた。
良子が指差したのは、病棟とは別の、ドーム状の屋根を持つ建物へと続く通路だった。
案内板には掠れた文字で『講堂・多目的ホール』と書かれている。
近づくにつれて、良子の耳に届く笛の音は、より明瞭に、より甘美な旋律となって響いてくる。
まるで、極上のコンサートホールに招かれたかのように。
「講堂か……。大勢の客を集めてリサイタルとは、いい趣味してやがる。まあ、俺はお上品な演奏会より、ロックの方が好きだがね」
そう言うとクロウは耳元を指先で軽く叩いた。
そして、良子と入れ替わるようにして扉の前に立った。
良子は一歩引くと、クロウの目を見据えて力強く頷いた。
クロウが扉に手をかけ、息を吸う――。そして、扉の向こうを覗き込む。
講堂の奥、一段高い場所で、擦り切れた白衣を揺らめかせた男が銀色のフルートを口にあて指を動かす。
そこに至るまでの座席には、目の色を失った子どもたちが、ただぼんやりと座っていた。
バァン――!
力いっぱい乱暴に開かれた入り口の扉が、壁に叩きつけられて派手な音を響かせた。
黒いサンタ帽を被った黒ずくめの男が、両手を広げ得意げに入ってくる。
「さあ、『良い子』の皆、メリークリスマス! ってな」
クロウの野性的な声が、ドーム状の天井に反響した。




