黒ノ聖夜 BLACK SANCTION21
記憶の蓋が開いた瞬間、忘れ去られていた景色が、濁流のように良子の脳内へ流れ込んできた。
――二十年前。
園辺良子、五歳。
研究室勤めの父は、年の瀬になっても家に帰ってこなかった。
母も仕事で忙しく、それでも幼い良子は文句も言わずひとりで留守番をしていた。
寂しくなかったと言えば嘘になる。けれど、そんな良子の元に、黒い影が窓から訪れた。
『メリークリスマス』
黒いサンタクロースは、泣き虫な良子の頭をぶっきらぼうに撫で、プレゼントを手渡した。
そして、チリン、と黒い鈴を鳴らすと、すぐに闇夜へ消えていった。
翌朝、良子も母も、それを『父がこっそり良子に贈ったプレゼント』だと信じ込み、本当のサンタの姿は記憶の彼方へ消えていた。
――間もなく、父は帰ってこなくなった。
その後、母は女手一つで良子を育ててくれた。
良子は母を応援し、家事を手伝い、明るく生きた。
毎年クリスマスになると、枕元にはプレゼントが置かれていた。
時には鉢合わせすることもあった。「父の友人だ」と名乗られたこともあった。
けれど、鈴の音が鳴るたびに、その記憶は雪のように溶けて消えた。
なぜかそれを不思議に思うことはなかった。不自然なほどに、疑問を抱かなかった。
そして、良子も大人になった。
もうサンタが来る年齢ではなくなった。
毎日それなりに幸せを満喫しているつもりだが、良子はたびたび『厄介事』に振り回された。
質の悪い男においまわされたり、変な詐欺に引っかかったり、目の前で火災が発生したり。
そのすべてを、良子は「運よく」切り抜けてきた。
どうやって助かったのか。なぜ無傷だったのか。
肝心なところには、いつも靄がかかっていたけれど、「結果オーライ」で済ませてきた。
極めつけは、去年だ。
恋人だと思っていた男が、実は父の研究データを目当てに近づいてきた悪人で、結果、良子は半グレの集団に拉致された。
絶体絶命の危機。
……けれど気が付けば、良子は何事もなかったかのように公園のベンチで目を覚まし、穏やかな日常へと戻っていた。
不自然な空白。
都合の良すぎる幸運。
今なら、はっきりとわかる。
いつだって、そこには『彼』がいたのだ。
ストーカーをねじ伏せた、圧倒的な暴力。
朝靄の中で自分を抱きかかえてくれた、黒い革のジャケットの匂い。
幼い頃に頭を撫でてくれた、あの手の平。
いつだって、この「夜咎クロウ」と名乗った、黒いサンタクロースが助けてくれていたのだ。そのすべてが良子の中に蘇った。
「……全部、思い出しました」
現在――廃倉庫。
良子は溢れ出る涙を拭うこともせず、目の前の男を見つめた。
積み重なった二十年分の『忘却』が、許容量を超えてあふれ出したかのように、もう鈴の音は彼女の記憶を縛り付けることはできなかった。
「あなたが……ずっと、守ってくれてたんですね」
クロウは絶句していた。
良子の目の前で黒い鈴を振ってみるが、良子は首を傾げ、目を細めてニッコリとするばかりだった。全く効いているそぶりが無い。
サンタクロースの能力――『見なかったことにする』鈴の音。
人の意識を改変する『幻想の魅了』への過信。
クロウはそれが通用しないという前代未聞の事態に、口を開けたまま立ち尽くした。
「本気で全部覚えてんのか?」
クロウは、ニット帽の男が落とした飛び出し式ナイフを拾い上げ、良子の手足を縛る結束バンドを断ち切った。
良子は手首に残る擦り傷に顔をしかめながらも、解放された安堵感に胸を撫でおろした。
「そうですね。なんだかずっと腑に落ちなかったことが、すとんと理解できるぐらいには」
「……去年のお前の元カレの名前は?」
さすがに良子は嫌そうな顔をしたが、それでも「御名浦巧くん……」と正しく名前を読み上げた。
その名前の持ち主は半グレのリーダーで、良子を拉致した主犯格でもあった。
クロウはチームごと叩き潰し、さらに、良子の父の研究から超常の力を掠め取った御名浦を奈落へと叩き落とした。その時に良子の記憶も消したはずだった。
「ガチじゃねぇか」
クロウは良子に肩を貸して立ち上がらせる。
良子は少しよろけながら、手近なパイプ椅子に腰を下ろした。
クロウは気絶したままの清田も、拘束を解いてパイプ椅子に座らせた。
「いろいろ聞きたいことはあるけどよ、ちょっと待ってな」
クロウはこめかみを押さえ、小さく息を吐くと、倉庫のシャッターを開けて外に出ていった。
数分後。
クロウは男たちが乗ってきた黒いワンボックスカーを倉庫内まで移動させると、そこらにあった鉄パイプを拾い上げ、大きく振りかぶった。
ドガンッ!! ガシャァァァン!!
凄まじい轟音が倉庫内に響き渡る。
クロウはフロントバンパーがねじ切れ、フロントガラスが粉々になるまで、車の正面を何度も鉄パイプで殴りつけた。
まるで、壁に激突した事故車のように見えるまで。
「よし、こんなもんだろ」
クロウは鉄パイプを放り投げると、倉庫の中心にある鉄骨の支柱に、気絶している男たち四人をひとまとめに括りつけた。
そして、まだ意識が朦朧とした清田の横面を軽く叩く。
「おい、起きろおっさん」
「う、う~ん。なに……? 誰……?」
うっすら目を開く清田は、自身の置かれた状況を理解できていないようだった。
クロウは構わず、清田の片手に、さっき車をボコボコにした鉄パイプを握らせて、顔の前で黒い鈴を取り出した。
チリン、と澄んだ音が鳴る。
「災難だったな、おっさん。まさか拉致監禁殺害目的の悪党の車が倉庫に突っ込んでくるなんてなぁ? 車から零れたガソリンに引火しなくて良かったな。まあでも、おっさんが鉄パイプで強盗を撃退! とっ掴まえた! めでたしめでたし、だ」
一方的な英雄譚を植え付けられ、清田の瞳からスッとハイライトが消えた。そして、清田は眠そうな眼差しで周りを見渡した。
「そっかぁ……俺が、やったのかぁ……」
ぼんやりと納得し始めた清田を見て、横で良子が呆れたように口を開いた。
「そんな、雑なストーリーで良いんですか。警察が調べたら一発じゃ……」
「平気平気。あとは『不思議な力』が働いて、なんとなーく辻褄が合うようになるんだよ」
クロウは両手の埃を払うと、倉庫内を見渡し、落ちていたバッグを拾い上げ、良子に渡した。
「お前のもん、そんだけか?」
指折り数えながらバッグの中身を確認する良子。
「あ、スマホ……そういえばさっきの男がポケットに入れてた」
クロウは倉庫中央に固めて縛り付けている男たちに近づくと、短髪の男のポケットからスマホを取り出し、画面を眺めて苦笑する。
「ほらよ、これでいいか」
良子は突き出されたスマホを見て、眉をひそめた。
画面の端から蜘蛛の巣のように、全体へ向かって派手な亀裂が走っていたからだ。
さっきの戦いの余波だろう。
「……良くない」
良子は頬を膨らませ、側面の電源ボタンを押す。
ひび割れの下でバックライトが点灯し、ロック画面が浮かび上がった。
ひびに指を引っかけないよう気を付けながら、良子はそっとスワイプする。指先の動きに合わせて画面が反応を見せ、良子はほっと安堵しスマホを胸に抱えた。
クロウはふっと鼻で笑って頬を緩めると、大きな手で良子の頭をガシガシと撫でた。
「良い子にしてりゃ、また用意してやるからよ」
頭の上に触れる、黒いサンタの大きな手の温もりに、良子は頬を染め、思わず顔を伏せた。




