黒ノ聖夜 BLACK SANCTION15
倉庫整理を手伝ったあと、ホテルに戻った良子は着替えもせずにベッドへ沈みこみ、そのまま泥のように眠ってしまった。
久しぶりの肉体労働で、全身にのしかかる疲労感。
目が覚めたのは、カーテンの隙間から白々とした光が差し込む頃だった。
鏡に映るボサボサに乱れた自分の髪を睨みつけると、良子は慌ててバスルームへ駆け込んだ。
――XX市に入って五日目の朝。
良子はガラステーブルの上にノートPCと手帳を広げた。
――中学校の校長・伊東の話。
『どこの施設にも、同じだけの資材が大量に配られた』
あの当時、学校だけではない。保育園や養護施設も。
市からの「手厚い支給」があったと誰もが信じていた。
それに協力する形で、市立病院の羽村院長が資材確保に奔走していた――それが、市民の認識だ。
だけど、事実は違うかもしれない。
良子は手帳のページをめくる。
倉庫の棚裏から拾った、あの走り書きの紙片。
『羽村・寄付』
『支払 羽村先生 あとで精算』
表向きは「市からの支給品」。その実態は「羽村の寄付」。
ここまでは、美談で済む。
だが、『支払』『精算』という言葉が、その美談に黒い染みを浮かび上がらせた。
「……おかしい」
思わず声が漏れた。
良子はPCの検索窓に『XX市 財政状況資料集』と打ち込み、エンターキーを叩いた。
年度別のPDF。決算の概要、資料集、決算カード。
良子は次々とファイルを開き、ページをめくっていった。
そこには体裁が整った数字が並んでいた。
もちろん何の違和感もない。――だからこそ、おかしい。
「……やっぱ変だよね」
良子が清田のメモから感じた違和感を差し込める余地が、どこにもない。
感染症対策関連のページで指が止まった。
物資関係の支出が、良子が想像していたよりも遥かに大きい。
『物資の確保』『衛生用品等』『購入費』――項目はもっともらしいが、どれも金額が跳ね上がっていた。
もし、物資が寄付で賄われたのなら、市の持ち出しは軽くなるはずだ。
あるいは歳入に「寄付金」としての記載が出てくるだろう。
けれど、ここにあるのは市が正規の予算で『購入した』実績だけだ。
羽村が寄付したのであれば、大量の物資がタダで手に入ったはずだけど、市は巨額の金を払っていた。
――この金は、どこへ消えたのだろう。
「ネットで拾える『公表資料』じゃ、ここまでかな」
良子はPCを閉じ、紙パックのカフェオレをストローで吸い上げた。
表面の数字ではなく、その裏にある伝票を見なければ。
◆◆◆◆◆
四日ぶりの市役所庁舎。
ロビーには、例の展示が今日も鎮座していた。
『パンデミックを完封した奇跡の街XX市』
整列した写真と、誇らしげなスローガン。
良子はそれを横目に、迷わず受付へ向かった。
「すみません。決算関係の資料を閲覧したいのですが」
「決算、ですか……会計課になります。お名前とご用件をお願いします」
受付の女性の視線に、わずかな警戒心が混じっていた。
良子は構わず、愛想よく答えた。
「公開資料の確認です。ちょっと調べものをしていまして」
案内されたフロアで閲覧手続きを済ませる。
無機質な蛍光灯の下、渡された分厚いファイルが机に置かれた。
良子はページをめくった。
歳入。歳出。款。項。目。節。
紙面に軽く目を走らせながら、目当ての項目に行き着くまで、絶え間なく指先を動かし続けた。
ほどなくして求めているページが見つかった。
感染症対策――物資配布に関する項目。
そこには、ネットの資料で見た通りの巨額が計上されていた。
問題は金額そのものではない。
寄付の記載が一切なく、これだけの金を「使ったことになっている」ことだ。
羽村が金を出して買った物資を、市が買い上げたのか。
それとも、「市が買ったことにしている」のか。
二重計上か架空発注の疑いが出てくる。
架空発注だとした場合、巨額の金が「どこかへ消えた」ことになる。
良子は手帳に挟んだメモを強く押さえた。
『支払 羽村先生 あとで精算』
このメモに書かれたことが本当ならば、市の帳簿は嘘をついていることになる。
「……これ、内訳までは見られませんか?」
良子は顔を上げ、カウンター越しの職員に声をかけた。
若い男性職員は、張り付いたような笑顔で頷いた。
「こちらは公開資料ですので……。ただ、個別の支出先などの詳細は、規定により……」
「支出先の一覧、つまり誰にいくら払ったかが分かる契約書類はありますか?」
単刀直入に切り込むと、職員の笑顔が固まった。
視線が泳ぎ、口調が慎重になる。
「ええと……契約関係は、別の担当になります。確認しますので少々お待ちください」
職員が奥へ引っ込んだ。
大丈夫、想定通りだ。ここからが本番だろう。
良子は小さく息を吐いた。
待っている間に、手帳にページ番号と項目名を書き写していく。
数字、年度、摘要。
この「きれいな数字」の皮を一枚めくれば、腐った実が出てくるかもしれない。
美しく描かれたこの街の『奇跡』は、大きく形を崩すことになる――。
◆◆◆◆◆
数分後、職員が戻ってきた。手には申請用紙が一枚握られていた。
「申し訳ありません。契約の相手先が記載された資料については、閲覧するには申請が必要です。使用目的を確認したうえで、担当課での審査になります」
やっぱり、すんなりとは見せてくれないか。
良子は喉の奥の渇きを、つばと一緒に無理やり飲み込んだ。
ただ、ここから先は、資料をめくれば済む話ではない。
どうしても役所の堅い扉をこじ開ける手続きが必要になる。
「分かりました。その書類をください。まず、どこに出せばいいですか」
震えそうになる指先に力を込め、良子はペンを握り直した。
金の動きはもう掴んだ。
次は、その金がいったい『誰に』流れたのか――。
その先を確認しないことには『奇跡の街』を語ることはできなかった。




