あの桜の木の下で
荒れ果てた広野を、覚束ない足取りで歩み続ける男がいた。
彼の出で立ちは、見るも哀れなものだった。服は破れ、持ち物にはことごとく痛ましい傷が付いている。肌も帽も灰色に煤け、端正な外見を台無しにしてしまっている。
しかし男に、そんなことを案ずるほどの余裕など、ありはしなかった。
目指す先は、数多の人の営みが焼け落ち、崩れ去った、その無惨な跡地。
赤茶けた大地の上を、紫色の煙が燻る。折れた樹木が天に悲しい姿をさらし、人家に至っては跡形もなく壊されたまま。行く手を遮るのはただひたすらに、顔を背けたくなるような光景ばかりであった。
あらゆる希望がこの地を離れ、あらゆる絶望がここへ集っている。
しかし男に、高笑いする絶望の影に目を向けるほどの覚悟はなかった。
男は目指している。前方に少し開けた、庭の中心を。
そこが我が家だからではない。己の家が焼け落ちていることを、男は既に知っている。ここにはもう帰る場所がないのだと、男は身をもって理解している。
それでも目指さなければならないのであった。
なぜなら、その庭こそが──。
「…………ああ」
角を曲がった男は、足を引きずりながらつぶやいた。
その瞳に映ったものを直感的に判別した時、男の歩く勢いは増した。深い樹海の中に一筋の木漏れ日を見つけた者のように、庭を目指して走った。つまずいて倒れそうになっても、懸命に堪えて走り続けた。
そうして気付けば、そこに辿り着いていた。
枯れたような葉をつけた一本の桜の大樹が、男の見上げる先に立っていた。乾ききった色の光景を前にして、男の表情はいよいよ綻んだ。
「──お待ちしておりました」
優しい声が地を潤し、葉を揺らす。……桜のたもとには、男と同じくらいの年頃の女がいた。
彼女は柔らかに微笑んだ。その微笑みこそ、男の求めていたものに他ならない。今すぐにでも駆け寄りたい──。欲を飲み込むように深呼吸をした男の表情もまた、傷だらけで、汚れまみれで、されどその隅々まで晴れやかであった。
彼女の望む言葉は何であろうか。しばしの間を置いて、大きな両の瞳を見つめる。強い風が桜の木を揺らした。不意に目からこぼれた光の粒が、男にその答えを囁いていった。
「──待たせたね」
そっと手を取り合い、互いの温もりを確かめた男と女は、荒れ果てた大地へと共に一歩を踏み出す。一人では覚束ない道でも、漂う煙で先が見えなくても、歩いて行ける。その万能感に根拠は必要なかった。
背後を振り返れば、そこにいつでも根拠は立っている。
そう信じていたからだ。
約束の在処を示す──その大切な役割を成し遂げた、見上げるほどの桜の大樹は。
今はただ、風の吹くままに枝を揺すり、遠ざかる二人の背中の向こうで幸せそうに咲っている。
Fin.




