表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
伍 アフター・リユニオン
65/69

五十七 青空





 樹の週末は、忙しない。テニススクールのレッスンが毎週のように入っている上、最近は中学校の知り合いに誘われたりして映画やゲームセンターに出向いたりもしているようだ。新たにリセットされた人間関係の中で、戸惑いながら樹も新しいことに挑戦を続けている。

 そんなわけで樹が柚のもとを訪れるのは大概が平日なので、樹の私服姿を目にする機会は極端に少ない。ひるがえって、今。

「──午後四時には病室(ここ)に戻ってくること。スタッフステーションのところで外出者の管理をしてるから、戻ってきたら顔を出してね」

 担当看護師・堀向(ほりこう)の説明を受ける柚の隣で、樹は珍しく私服の出で立ちをしている。ネイビーのクロップドパンツに白のTシャツ、その上から薄い水色の半袖シャツ。見慣れた姿と服装が違うだけで、なんだかいつもよりも視線が樹の方へと向かってしまう。

 入院服のまま外出するのはさすがに(はばか)られて、柚も持ってきてもらった私服に着替えてあった。ネイビーのハイウエストスカートと白い丸首シャツ、ついでに桜色のカーディガン。狙ったわけでもないのに色合いが揃っていて、ちょっぴり、嬉しい。

 一頻り説明は終わったのだろう。堀向は外出届の紙を取り上げた。

「質問、あるかしら?」

「ないと思います」

 たぶん、と小声で付け加えた。初めての外出だから、質問はなくても不安がないわけではない。

「ま、そんなにぴりぴりしないで大丈夫よ。中神さんに関しては食事制限とかも課していないし、思いっきり羽を伸ばしてらっしゃい」

 堀向は優しく笑ってから、その笑みを少し意地悪に歪めた。「次からはもっと堂々と外出理由欄に書いていいんだからね。『デート』って」

 柚が耳まで真っ赤になったのは言うまでもない。隅っこに細かい字で書いた自覚はあった。だって正直に書けって言うんだもん──。

 入院生活も早、三か月。柚の病状が回復傾向に入ってから、ずいぶん月日が流れていた。さすがの柚も長い入院生活に飽きてきた頃合いで、外出は許可してもらえるのか、と主治医の新畑に相談を持ちかけてみたのだ。すると意外にもあっさりと許可が降り、樹が同伴を名乗り出てくれ、数ヶ月ぶりに柚は病院の外へ出る運びになったのだった。

「あの」

 樹も口を開く。「俺が何か注意すべきこととか、同伴者としてやるべきことってありますか」

 そわそわしているのは樹も同じだったのだろうか。堀向は間髪を入れずに答えた。

「彼女さんをちゃんと守ってあげることね」

 樹まで沈黙してしまった。




 七月の風は、涼しい。陽の光に肌を融かされて浮かんだ小粒の汗を、風は爽やかに笑って吹き飛ばしてゆく。

 久々に嗅ぐ外の世界の空気は、なんだか暑くて、冷たくて、柚はわざと時間をかけて呼吸に励んだ。

 途端、けたたましい音をタイヤから跳ね上げ、目の前を大型トレーラーが通過する。

「深呼吸、しない方がよさそうだな」

「遅いよー。もう排気ガス、思いっきり吸っちゃったよ」

 二人揃ってしかめ面をしながら、歩行者信号の変わるのを待った。

 『緑街道』の標識の先へ、背中にプレハブのような設備を満載したトレーラーは消えていった。遠ざかる尾灯の赤を見つめながら、樹がふと、手を握る力を少し強める。

 あれからさらに細くなってしまった自分の腕を介して、今、樹と繋がっている。

 柚もちょっぴり強めに手を握り返した。

 木々のざわめきが優しく、夏の昼下がりの拝島を満たしている。病室では感じ取ることのできない柔らかな涼しさに、立ち止まってうっとりと目を閉じたくなる。

「邸中でいいんだよな」

 樹が確認するように尋ねた。うん、と柚は答えた。

「今は、『(やしき)公園(こうえん)』だけどね」


 邸中学校の校舎跡地を覆う防塵フェンスは、ずいぶん小さくなっていた。解体の音はもう聞こえなくて、代わりにフェンスの内側にはクレーン車の姿が(うかが)える。どちらにしても休日の今日は工事もお休みだ。

「話には聞いてたけど、ほんとに校庭は手付かずなんだね」

 青々と繁る桜の木々を眺めながら、思わず、尋ねた。樹は頷いた。

「せっかく平らに(なら)された土地だし、なくすのも勿体ねーだろ」

「だね。春待桜(あれ)も、そのままだし」

 柚の視線の先、かつて校庭だった広場の真ん中に、どことなくくすんだ色に化けた春待桜の大樹が、変わらぬ姿で(そび)え立っていた。

 血を吐いて倒れて以来、本物の春待桜の姿を目の当たりにするのは初めてだった。ここなら深呼吸をしてもいいかな──。懐かしいシルエットを前にすると、安心して胸を膨らませられる。

 少子化の影響が想定よりも大きくなることが見込まれたため、邸中学校の復活は当面先送り、事実上の白紙になることが、すでに市議会で決まっていた。駅前の好立地ということもあって、コミュニティーセンターや店舗の併設された都市公園を整備する跡地利用方針が示されているという。校舎を解体した場所に平屋のビルを建設し、校庭や桜並木はそのまま残す計画らしい。

 春待桜の開花は、多摩有数の桜の名所として、拝島の名を思いがけず全国に知らしめてしまった。観光名所として生まれ変わりつつある『邸公園』の整備事業に、商工会や観光協会もさっそく熱っぽい視線を向けている──とか何とか。

 ともあれ、すべてはまだ、途上の段階。

 春待桜の枝に葉の姿はない。その真下に置かれた木製のベンチに、足並みを揃えて歩み寄った。座ろっか、と樹が声をかけて、頷いた。

 木々のさざめきを作るのは、風と、枝に繁った無数の葉たちだ。緑を欠いてしまった頭上の春待桜からは、以前のような笑い声は聞こえない。春待桜は静かに眠っている。──死んでいるという感覚を抱くのは、柚には少し、難しくて。

「来ている人、思ったより少ないな」

 あたりを見回して、つぶやいた。「休みの日なのに」

 だな、と樹が応じた。犬の散歩に来ている人影が二、三人。ボール遊びをしている親子連れが数組。ほかにベンチでのんびりとしている人が何人か見当たる程度である。このくらいの人出の方がのんびりできるので、かえって幸いだったかもしれない。

 樹や梢たちに伝え聞いたところでは、春待桜の開花していた三月の二週間、ここは自由に歩き回ることさえ困難なほどの人で溢れかえっていたという。柚もそこへ立ち会ってみたかった。数多の人に囲まれて、独りぼっちではなくなった春待桜の咲く姿を、この目で確かめてみたかった。

 あれから、もう三ヶ月。

「なんか、あっという間だったなぁ」

 柚は足を伸ばして、笑った。

「あっという間?」

「うん。桜が咲いてから、今日まで」

「俺には長かったけどな」

「そうなの?」

 そうだよと返した樹も、同じようにして足を伸ばす。

「俺は、今も割と挑戦の連続だから。……誰かに気を遣うのって、体力とか神経、消費するし」

 柚には答える言葉が思いつかなかった。樹の学校で味わっている苦労の大きさを、柚が推し量ることは難しい。安易に同意することは、できそうもなかった。

 楽しい日々は瞬く間に過ぎ、苦痛の日々は際限がない。時間の感覚は人それぞれだ。柚や樹がどんなに頑張って長生きしようとも、たとえば春待桜が見れば短く感じるものなのかもしれない。この先に広がる未来を長く感じるも、短く感じるも、それはきっと柚の生き方次第で。

 無反応ではいたくなくて、少しだけ身体を樹の隣に寄せる。樹も無言でそれを許してくれた。

 いつか、樹と同じリズムで時間を感じられるようになれたらな。

 隣の愛しい人には漏らさずに、そっと胸の奥で感慨を(もてあそ)んだ。




 穏やかな時間が、過ぎてゆく。


──『この辺りでは有名な話なのよ。春待桜は咲かない桜、咲いたのを目にした人々は幸せになれる──』


 春待桜は、最初から最後まで普通の桜ではなかった。

 決して花を開くことのない奇妙な桜であり、その幹に多くの因果を背負った桜であり、内に人ならざるものを宿した神秘の桜であり、学校や街に生きる人たちに愛され、慕われ、シンボルとして扱われた桜であった。

 そして何よりも、数百年前に果たされることのなかった再会の約束を遂げるため、目印(ランドマーク)としてここに立ち続けた。

 他の木々たちからも切り離された場所にあり、特別な役割を与えられた春待桜が、その長い終生の最期に命を賭して望んだのは、桜として当たり前のはずの『開花』だった。花を咲かせることが大切な(あるじ)のためになると信じて、桜の武者は柚に助力を()うたのだ。

 約束を交わした二人の命が(つい)えてしまっても、交わされた約束そのものだけはいつまでも二人のことを覚え、その幸せを願っていた。


 今、望みを遂げ、息を呑むほどの美しい『桜の雨』の中に命のすべてを注ぎ込んだ春待桜は、柚の頭上で永遠の眠りについている。

 見上げれば、枝々に切り取られた空がジグソーパズルのピースのようで、指を差し伸べれば、つまんで拾えそうな気がして。拾ったらどうなるのだろうと思った。

 がむしゃらに手を伸ばし、食らいつき、未来を向こうとしていた三ヶ月前の自分のことを、少しくらいは癒してあげられるだろうか。

「ねぇ、樹」

 柚は小声で言った。「私────」

 返答がない。隣に視線を降ろした途端、肩にずしりと重みが()し掛かった。

「樹?」

 見ると、樹はいつの間にか、柚にもたれながら船を漕いでいた。

 これではどちらが同伴者だか分からない。首元に流れ込む吐息がくすぐったくて、むずむずと落ち着かない身体を柚は深呼吸でどうにか(なだ)めた。せっかく寝てるんだもん、起こさないようにしなきゃ──。なんだか優しい気持ちになって、樹の頭に頬をそっと押し付けた。

 口に出しかけて引っ込めてしまっていた疑問が、胸の隅でぽんと弾け、欠片(かけら)になって空へと舞った。




 春待桜は咲かない桜、咲いたのを目にした人々は幸せになれる──。


(あの開花の日、みんなは幸せになってくれたかな)


 目を閉じた。


(……私は、幸せになれたかな)




 焦ることはない。

 たとえ、手に入れた幸せの姿を知ることができなくとも。未来の自分を宙に描くことができなくとも。

 この桜の木の下で、樹と一緒に、みんなと一緒に、やがてふたたび訪れるであろう暖かな春を待つことはできる。

 今はそれでいい。

 柚はもう、独りぼっちではないのだから。




 吹き込んだ夏色の風に身体をくすぐられ、隣の樹が目を覚ますまで。

 柚は、春待桜の枝越しに霞む、いつか無数の花びらに染められた青い空の彼方を、黙って見つめ続けていた。

 桜の足元を漂った穏やかな温もりが、黄色のリボンで束ねられた二つ結びの髪を(あお)って、(かす)めて、消えていった。













To be continued.











これにて『桜の雨、ふたたび』は完結となります!

長らくのご愛読、ありがとうございました。


本編完結後には以下のコンテンツを用意しております。

① 登場人物一覧

② ギャラリー(タイトルロゴ・作中地図・頂き物のイラストなどを掲載)

③ あとがき

終幕(エピローグ)


どうぞ、最後までお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ