五十六 朝の光
引かれたカーテンの隙間から、一筋の目映い光が差し込んでいる。
微睡む頭が、重たい。目蓋とどちらが重たいだろう。寝惚けたままでは判別もできなくて、
「ん…………」
小声で、呻いた。
布団の奥に仕舞われていた両手が、自然と出てきて突き上がる。うーんと声を上げながら、力一杯の伸びをした。目蓋はともかく、たったこれだけで頭の重みは取れてしまうから、不思議なものだと思う。
見上げた白壁に時計がかかっている。今の時刻は、午前五時半。いくらなんでも早起きのしすぎか。病院では午後九時になると強制的に消灯させられてしまうから、結果的に早い時間帯に目が覚めてしまうことが多くなった気がしている。
でも、それは言い換えれば、眠りから覚めたばかりの静かな街の景色を眺められるということ。
カーテンに手を伸ばして、思いきり引っ張った。軽やかに笑いながらカーテンがレールを滑って、明るい外の世界の光があっという間に病室を飲み込んだ。
紗幕のような白い光の中に、スーパーの看板が見える。
建ち並ぶ団地や屋根の連なりが見える。
彼方へ延びゆく電車の線路が見える。
遠方には山々の緑が霞んでいる。
たったひとつの場所を除けば、ここから望む景色には何の変化もない。
今日も、明日も、変わらぬ日常が続いてゆきますように。──中神柚は深呼吸をして、つぶやいた。
「おはよう」
◆
七月、上旬。春待桜の開花騒動から、いつしか三ヶ月が経過していた。
四月になれば転居という話だったにもかかわらず、柚は今もなお、拝島にいた。
正確には拝島から動くことができずにいた。肺がん治療が道半ばのため、わざわざ手間をかけて転院する理由が見当たらなかったからである。
肺がんの治療は順調に進んではいる様子だった。放射線治療の継続が功を奏したのか、先日ついに転移先の臓器から悪性腫瘍が消失したらしい。自覚症状も段々と落ち着いてきたことを告げると、主治医の新畑は顔を綻ばせていた。
──『本命の原発がんへも治療の効果が及んでいるということでしょう。このままの経過が続いてほしいものだ』
そうであってほしかった。呼吸困難や喀血で苦しむのは、もうたくさんだった。
ある程度の落ち着きが見られるようになったとはいえ、今でも口元を血で汚してしまうことはある。咳に苦しめられるし、痰だって吐くし、胸痛も残っている。それでも柚は未だに自分の余命を聞いていない。進んで聞きたい代物ではなかったし、聞く必要もないと感じて。
余命などがなくとも、柚の命の尽きる時は決まっている。──それに、己の余命を知り得ても泰然自若と立ち続けていた、あの春待桜ほどの強さが柚に備わっているかと尋ねられたら、頷ける自信はあまりなかった。
朝、起きる。午前六時になると担当の看護師が回ってくるので、その前にバレないようにスマホの着信をチェック。梢たちからメッセージが飛んできていると、朝からちょっぴり気持ちが浮き上がる。
塩分の調整が入るせいか、配膳される食事は心なしか味が薄い。梅の作ってくれていた白味噌の汁が、こういうとき無性に恋しくなる。見舞いのたびに梅は差し入れをくれるが、それだって水っぽい果物ばかりだ。
(私はまだ、普通じゃないんだな)
看護師の検査を受けながら、薄味のご飯を前につくづく思い知らされる毎日だった。
午前中の間は治療や検査に専念しているので、柚もあまり悠長にはしていられない。連れ込まれる先といえばもっぱら放射線科棟で、病室から棟の入り口までのルートも今ではすっかり記憶してしまった。車椅子に揺られて病室へ戻り、お昼の食事を食べてしまうと、ようやく柚の待ち望んだ時間帯がやってくる。
面会時間である。
気管支喘息ではないと判明したタイミングが遅かったので、両親はすでに新たな家を買ってしまっていた。それは多摩川を挟んだ対岸の八王子市にあるらしく、両親はいつも八高線に乗って見舞いにやって来てくれる。会社が遠くなって大変だと、父はなぜか嬉しそうに語ってくる。
──『ね、今度の家ってどんなとこなの?』
以前、梢に尋ねられたことがあったが、まだ柚も立ち入ったことがないので説明のしようがない。なんでそんなこと聞くのと尋ね返したら、梢は胸を張って答えていた。
──『だって広い家だったら、邸中のみんなを呼んで同窓会とかできるじゃん!』
──『福島家じゃダメなの?』
──『あたしの部屋は散らかってるから無理!』
どんな反応を返せばいいのか分からず、曖昧に笑ったことまでは覚えている。ただ単に梢が遊びに行きたいだけなのかもしれない。
梢が見舞いに来てくれるのは、週に一、二回ほどだろうか。転校先の中学でも梢は生徒会に入ったそうで、今度の生徒会は放課後が忙しくて大変だよー、などとぼやいていた。仲の良かった子たちと離ればなれの学校になってしまっても、梢は新天地でそれなりに楽しくやれているらしい。
元・二年A組のクラスメート三十人のうち、学区の東の端に住んでいたのは梢と、それから樹だった。邸中学校からの転出先は家のエリアごとに分割されているので、自然、二人は同じ中学校へと転校することになった。
──『あいつ、未だに俺のこと敵視してる気がする』
樹が柚にそう漏らしたのも、一度や二度のことではなかった。梢は今でも樹を見るときだけは目付きが悪くなるようだ。こともあろうに同じクラスにされてしまったらしく、新学期の開始から三ヶ月が経った今でも、樹はどこか居心地が悪そうだった。
──『悪気があるわけじゃないと思うけどなぁ』
宥めると、まぁな、と頷いて樹は参考書に目を戻す。柚も眼下のテキストに視線を落とした。
三月以来、樹は誰よりも頻繁に面会に来てくれていた。テニススクールで忙しい時を除けば、ほぼ毎日のように学校帰りに立ち寄ってくれる。それで何をするのかというと、柚と一緒に勉強に励んでいる。
退院した時に勉強が追い付かなくなっては大変なので、柚は転校先の中学校から教材の一部を受け取っていた。理解の進まない部分があっても、樹の説明が補ってくれる。優秀な家庭教師を得たような気分で、柚はいつもテキストに向き合うことができていた。他にすることがないという事情も、あるにはあったが。
たとえ名目が何であろうとも、樹の隣で同じ作業に従事できるのはやっぱり幸せで、楽しい。最近のお気に入りは、じっと参考書の字をたどる樹の横顔を、気付かれないように観察すること。気付かれると顔を背けられてしまうので、慎重にやらねばならない。
(樹にも幸せを感じてもらえてたらいいのにな)
こっそり横顔を窺うついでに、こっそりそんな願いを込めて、柚は面会の終わる夜までの時間を過ごしている。
柚と家が近く、同じ転出先の昭島市立緑中学校に進んだ林は、相変わらず合気道に明け暮れているそうで見舞いには来てくれないものの、たまにメッセージを寄越してくれる。二年A組からの転校生は他にも何人かいるので、もしも柚が復帰したとしても孤独に陥ることはなさそうだった。
よその市の学校に越境転校した子たちからも、時々ではあるものの身を案ずる連絡が来る。立川市の中学校に転任した上川原の様子を含め、近況は少しずつ、柚のもとへ集まってきている。
たったそれだけの積み重ねが、学校へ通うことのできない柚をどれだけ安心させてくれるだろう。
面会時間が過ぎ、夕食を食べ終えた頃になると、今度は梅からメールが届く。
階段から落ちた時の怪我が響いたのか、梅は今でも杖なしでは出歩くのが難しいらしい。面会に赴いてくれる頻度も、だいたい二週間に一回ほど。ささやかな寂しさを覚えつつあった先日、新しくケータイを買ったと連絡があった。
──『病室では電話はできないでしょう。おばあちゃん、頑張って使い方を覚えるから、せめてメールで連絡を取りたいと思ってねぇ』
その言葉通り、梅は毎晩きちんとメールを送り返してくれている。一日一往復の連絡が嬉しくて、柚もついつい長文を送り付けてしまう。メールの文面を考え、それを文字に起こしている間は、少しでも孤独を紛らわせることができた。
柚には、梅がいる。
樹がいる。
梢や林や、クラスの友達がいる。
柚のことを受け入れ、一緒にいてくれた人が、拝島にはたくさんいる。
想ってくれる誰かがどこかにいるのだと信じられるから、闘病生活を踏ん張ることができている。都心にいた頃の自分だったならば、どうだろう。時たま考えが及んで、恐ろしくなって何度も思考を止めた。
「……私は、幸せになれたかな」
▶▶▶次回 『五十七 青空』




