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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
61/69

五十四 フラワーウォール





 救急車のサイレンがどこからか響いている。

 腕の力がようやく弱められて、自由になった右手を柚は頬に持っていった。心なしか、粉っぽい。

 樹が呻くような声を上げた。

「──柚、それ」

 服の胸元が血の色に変わっているのに気付いたのだろう。肺の中に氷を投げ込まれたような悪寒が走ったが、すぐにそれも癒えて、ちょっとねと答えた。苦しさも、痛みも、樹の隣にいられるのなら我慢できる。

「ここに来る時、息が詰まって、何度か」

「そっか……。つか、そもそもなんでこんなところに来ようとしたんだよ。病院の中、大騒ぎだぞ。柚が病室にいないって」

「桜の雨、どうしても自分の肌で感じたかったから……」

 それに、目の前に突き付けられた病名(げんじつ)をその場でいきなり受け入れるのは、怖くて。

 心配かけてごめんと頭を下げた。心配しただろ、と樹はぼやいた。いつもと変わらない低い音色の声に、ここが教室だったらな、と思った。当たり前のように樹の言葉を隣で聞いていられた環境が、今となっては懐かしい。手放してしまうのは悲しい。

「閉校式、どうだった?」

 思い切って、訊いた。「みんなと喧嘩とかしてないよね? 大丈夫、だったんだよね……?」

「長くなるよ」

「長くたっていいよ」

「今は、病室に戻らなきゃだろ。まだ治ってなんかいねえんだから」

 にべもない樹の言葉に、ちょっぴり頬を膨らませてみる。せっかく待ち望んでいた、二人きりの時間なのに──。

 でも、ほら、と差し伸べられた樹の手を取ることができるのも、嬉しくて。よろめきながらもどうにか立ち上がった。少し背の高い樹の顔を見上げて──咳き込みそうになって、慌ててこらえた。「大丈夫かよ」と樹は眉を傾けてくれた。

「柚」

「うん」

「……ありがとう。お前がいなかったら、俺、きっと……」

「私こそ……。聞いたよ。樹が私のこと、助けてくれたんだよね」

「通報くらいしか、してやれなかったけど」

「そんなことないよ。樹がいなかったら私、本当に死んじゃってた。それに、心配して見に来てくれたっていうだけで、とっても……」

「……お互い様、か」

「……お互い様、だね」


 紙吹雪のように舞う花びらの雨の下に、二人。手を繋いで立ち上がった柚と樹は、揃って、背後の春待桜を見上げた。

 ライスシャワーのように降り注ぐ桜色が眩しくて、目を閉じた。鼻腔を満たす柔らかな香りと、隣に立つ愛しい人の温度に包まれて、これ以上の幸せはないと思えたほどだった。




 雰囲気を根こそぎ破壊する声が飛んできたのは、まさにその瞬間のことである。

「いた! いました! 見つけましたっ!」

 柚も樹も驚いて振り向いた。テラスの入り口に仁王立ちになった看護師が、二人を思い切り指差しながら叫んだのだ。

 ようやく、見つかった。

「……連れ戻されるっぽいな」

 樹がつぶやいた。九階の廊下をばたばたと走る幾つもの足音が響いて聞こえ、柚は渋々、頷いた。もっとここにいたかったのに。

 ところが足音の正体は、他の看護師でも医師でもなかった。──看護師を押し退けるようにしてテラスの入り口に飛び込んできたのは、梢だったのである。

「いた────っ!」

 絶叫がテラス中に反響した。樹が泡を食ったように手を離したが、時すでに遅し。梢はテラスを突っ切って、柚を目掛け走り出していた。校庭でも見たことのないような勢いだった。そうこうしている間に、どかされた看護師の横をすり抜け、梢を追ってクラスメートたちが続々と姿を現す。

 みんな、口々に柚の名前を叫んでいる。それにすっかり気を取られていて、梢の飛び着くのに柚は対応できなかった。無理な姿勢のまま数歩、後ずさった。

「うわわっ! こ、梢ちゃん、苦しい……」

「心配したんだからぁ!」

 柚にすがりつくようにして、梢は(わめ)く。

「あたしがどんだけ心配してたか……! 目、覚ましてよかったっ……! よかったよぉ……う、ぅ……っ」

 しまいには声にもならなくなって、柚に寄りかかるようにして泣き崩れた。その背後に、ばたばたと二年A組の生徒たちが駆けてきて揃いつつあった。

「あーずるい! うちもうちも!」

「わたしだって心配してたんだから!」

 と、梢の後ろから柚を抱き締める手があり。

「宮沢、お前このこと、知ってたのかよ……っ」

 と、息を切らしながら樹のことを詰問しにかかる声があり。

 羽交い絞めにされた柚は微動だにできなかった。樹を見ると、押し寄せてきたクラスメートたちを前にして同じように固まっていた。似た境遇の人がいると思えただけで、少し、安心して。

「……どうして、来てくれたの」

 ようやく尋ねる言葉を口にできた。膝に手をついて息をしていた林が、あの馴染みの声で言い返してくれた。

「大切なクラスメートが復活したって聞いたら、来るに決まってんだろ!」

 誰もが、頷く。そうだよという声がいくつも上がる。

 胸を衝かれた。胸が、痛い。苦しい。苦しくて、その苦しみさえ(いと)しくて、柚はうなだれた。溢れ返りそうになった涙が振り落とされて、ぽたん、と桜色の海に溶けた。

 それからすぐに、また顔を上げた。呆れ混じりの低い声が響いたからであった。

「まったく、お前たち……担任を置いて教室を飛び出すとはどういう魂胆をしてるんだ」

 上川原だった。生徒たちが自然に道を譲り、並ぶ黒髪の間を抜けて柚の前に立った上川原は、そこに立つ柚を見て、不器用に表情を歪めた。

 髪も、スーツも、風と花びらにまみれて乱雑になっている。その口元に生じた小さな笑みがゆっくりと染みてゆく様を、柚は目の当たりにした。

「先生……まで」

「私の大切な生徒なんだから当たり前だろう。……目を覚ましてくれて、よかった」

 降りしきる桜の雨の向こうで、上川原の背中もまた、丸かった。

 目元が潤んでいる。先生まで泣いてるー、と誰かが鼻声で笑って、上川原は無言で首を振った。柚たちを取り囲む二十八人分の面に、漣のような笑みが広がってゆく。柚には笑えなかった。柚だってまだ、目尻のところに涙の(しずく)を残している。

 それまでぽつんと立ち尽くしていた樹が、あ、と小声でつぶやいた。「そういや俺、進級証書(アレ)、受け取らずに学校出てきたんだったっけ……」

「そうだぞ。このクラス以外はどこも配り終えているから、ここにいる宮沢と中神が、邸中学校最後の生徒だ」

 すかさず上川原が付け加える。

 邸中学校、最後の二人。柚と樹は思わず顔を見合わせた。特別はもう飽きたな──。樹の困ったように下がった眉が、今の柚には苦笑いに見えた。

 見れば、ようやく柚を離れて(そば)に自立した梢も、林も、その場の誰もが器用に丸められた進級証書の筒を手にしている。

(そうか)

 花びらの雨を浴びながら、思った。

(私も、もう、あの場所から旅立たなきゃいけないんだった)

 いつか覚えた強い淋しさが身体の隅で滲んだが、それも一瞬のことだった。樹が一緒なら、みんなが一緒なら、怖くはない。大好きになったあの人に温もりを分けてもらった今なら、そうやって前を向くこともできそうだ。

「ここでいいんですか」

 樹が尋ねた。上川原は後頭部を引っ掻きながら、小脇に抱えていた封筒を手にする。「ここしかないだろう。あの桜を拝みながら巣立ってゆくには、邸中の校庭は混み合いすぎだ」

「いや、それより病院の人たちが……」

 樹の目が、遠い。そこに至ってようやく柚は病院スタッフの存在を思い出した。生徒たちが慌てて背後を振り返ったが、花びらにまみれて並ぶ白衣のスタッフたちの顔には、戸惑った風の笑顔が一様に浮かんでいた。先頭に出てきていた白髪交じりの新畑医師が、そっと首を振った。

「手短にお願いしますよ、先生」

 みんなが一斉にスペースを空けた。何となく横並びになった柚と樹の前に、二枚の進級証書を握った上川原が進み出る。誰かが思いついたようにブローチを外して、柚の胸にピンで留めてくれた。柚の病院服はたちまち周囲の(よそお)いに馴染んだ。“邸中生(オレら)”の中へと、柚は戻ってきた。

 それを横目に見た樹が、微笑む。なんで笑うのと口を尖らせたくなる。でも、内心では樹たちと同じ壇の上へ登れたように感じて、ほっと胸の奥へため息を押し込んで。


──『(それがし)(はなむけ)、受け取ってくれたかの』


 不意の声だった。弾かれたように柚は空を見上げていた。舞い散る無限の花びらが目映(まばゆ)くて、桜の姿が見えない。

「大丈夫か」

 上川原に尋ねられた。

 あの桜にも届くように。はい、と笑った。隣の人には負けられなかった。

「もう、大丈夫です」




 中神柚と、宮沢樹。最後の二人が無事に進級証書をその手に掴み、邸中学校の在籍者はようやくゼロになった。

 閉校式の閉幕から、一時間以上が経とうとしていた。








「わたしとあなたが覚えてさえいれば、春待桜はいつでも、いつまでも、ここで咲いているわ」


▶▶▶次回 『五十五 雨はいつまでも』

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