五十三 春待桜
──『某の咲き誇る姿、如何か』
はっとして柚は顔を上げた。
今の声は、どこから。問うてから、それが疑問に思う必要のないことであるのに気付いた。見上げた先に春待桜の巨大な影が広がっていたからだ。
目覚める前の言葉で春待桜との意思疏通は終わりだと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
ゆるゆると潤う瞳の幕に春待桜が揺れた。声は可笑しげに、柚の傷を負った心をつつく。
──『これ、せっかくの大きな瞳が血と水に濡れておる。それでは某の姿もまともに見れぬで御座ろう』
「だっ……て……」
──『いったい何を案じておるのじゃ』
そうではない。違うのである。柚は首を振った。
ただ、心のあるべき姿を見つけることができなくて、それがひどく哀しくて。
「案じてなんかないです。……嬉しい、ですよ」
まだ残っていた涙を拭って、へにゃり、と笑った。「あなたがちゃんと、咲いてよかった。それだけで嬉しいです。私、あなたの願い、叶えられたんですよね」
並ぶ屋根の向こうに立ち上がる春待桜の影が、少し、風に枝を揺さぶられたように身体を震わせる。それは本物の桜の木ではないけれど、ああ、間違いなく春待桜なんだ、と思えた。またも力が抜けて、柚の笑顔は足元に向かった。
「あなたが咲いて、みんながそれを見て喜べたなら、私……もう何も言うこと、ない」
──『左様か』
「強いて言うなら、私がこんなことになって、みんなに迷惑たくさんかけちゃったな、って」
春待桜は今度は返事をしない。
あなたには関係のないことでしたよね──。熱くなった目頭が花びらの陰に隠れて、それが手をついた床の上へと落ちてゆくのをぼんやりと眺めながら、柚は小さく、小さく、首を振った。
明日の自分がどうなるのかなんて分からない。どこへ行くのかも、病が快方へ向かうのかどうかも、ともに過ごした拝島のみんなとの関係はどう変わってしまうのかも。春待桜がこうして花開いた以上、目指したいと願えるような目標さえも失われてしまって。
その上、今度は春待桜そのものさえも失う未来が待っている。
だから、今はせめて、あの雄姿をこの目に。
うつむくのをやめて空を見上げた。高空に屹立する春待桜の“影”が、柚の視線が向いたのを悟ったように、その体躯を少し膨らませた。
「怖く、ないんですか」
──『何故、怖いと思う』
「だって、もうすぐ伐られてしまうんですよね。そうしたらあなたもきっと、消えてしまうんだろうし……」
──『怖くは御座らぬ。もとより某、主の銘を全うするために生まれたものにて、務めを果たせなくなれば消えゆく宿命。足掛け数百余年も生きておれば、もう、十分じゃ』
「……でも」
──『そなたは退屈に感じるかもしれぬが、移り行く人の世を黙して見つめておるのは、たいそう愉快で趣深いものなのじゃ。皆、某を見上げては、悲喜こもごもの反応を刻み立ち去ってゆく。その者が如何なる感慨で某の下に立つのか、某には手に取るように分かる。それが何故、面白からぬことがあろうか』
耳元を吹き抜けた風が、二つ結びの解かれた柚の髪を後ろから掻き乱した。視界を花びらの雨が舞う。思わず、わ、と声を上げて髪を押さえた。
──『のう、中神殿』
武者の声は囁くようだった。まるで、泣き止まない赤子を宥めるかのように、
──『そなたは以前、思索を深めておったことがあろう。某とそなたは似ておる、いずれも孤独のうちに生きておるのじゃと』
「……知ってたんですか」
──『案ずるには及ばぬ。そなたは決して、ひとりではないぞ』
「…………」
──『学問所の主は申しておった。いつかそなたの目覚めし時のために、春待桜を守ってやりたい、とな。そなたが病に倒れたことを気に病んでおらぬ者など、学問所にはおらなかったのじゃ。況して、その筆頭の名は、そなたもようわきまえておるはず』
樹、か。
また、風が髪を掻き上げた。春待桜は柚の頭を撫でていた。
桜は柚の感情の捻じれを、ベクトルの歪みを、ちゃんと知っていたのだ。
──『確と覚えておくがよい。そなたは多くに愛されておる。もしも、その姿が見えぬと云うのならば、そなたの手で咲かせた某のことを見ておれ。然らば、某はそなたの居場所を示す目印で──“春待桜”で在り続けよう』
噛んだ唇が、痛い。その痛みの間に、いつか樹と二人で語った春待桜の役割を思い出した時。
春待桜の武者は笑っていた。
──『それが、某の願いを遂げてくれたそなたに捧ぐ、せめてもの餞じゃ』
花びらの雨が、激しくなった。
その雨音に紛れるように、誰かが柚の名を叫んで。
幾ばくも経たないうちに、背後から伸びてきた腕が柚の肩を掴んで、引き寄せた。
「柚……っ!」
樹の声だった。
なすがままに樹の胸に体重を押し付けてしまった。弾みで飛び出しかけた「あ」という声は、身体ごと樹の腕の中に抱え込まれた。
「なんでこんなとこにいんだよ」
語尾が震えていた。必死に走ってきたのだろう、樹は荒くなった息を懸命に和らげるように、柚を後ろから抱き締めたまま肩で大きく息をする。くすぐったくて柚も身を屈めそうになる。
初めて、こんなカタチで触れられた。
いや──それ以前に、樹は閉校式の真っ最中ではなかったのか。
「樹、だって」
樹に身体を預ける中途半端な姿勢のまま、柚は喘ぐように尋ね返した。「どうして……ここに……」
その頬に、ぴとん、と水滴が跳ねた。
「心配だったからに決まってんだろ、バカ」
締め付ける腕の力が強くなった。
「もうどこへも行くなよ。頼むから、こんなとこ、来ようとすんなよ……。せっかく柚が意識を取り戻したって聞いても、居場所が分からねえんじゃ……喜べねえよ……っ」
頬を打つ水滴の数が、ひとつ、ふたつ、増えていく。
腕まで抱き締められているから、拭いたくても拭えない。それっきり黙ってしまった樹の腕の中で、柚も黙っている他なかった。こうしていると樹の胸の鼓動をじかに感じられて、それはひどく蒸して、暖かかった。
何から口にすればいいのだろう。
『あの桜を咲かせてくれて、ありがとう』か。
『迷惑かけて、心配かけて、ごめんね』か。
分からない。ただ、胸から伝わる温もりが頭の回路を真っ白にしてしまって、何も考えることができなくて。たまらずに空を見つめた。高く、高く、空へ舞い上がった春待桜の姿が、柚の瞳に燃えるように輝いた。
「…………たつき」
掠れた声でそっと、名前を呼んだ。
うん、と樹が応じてくれた。
樹ではなく、春待桜を眺めながら、柚は笑った。桜色の大きな幻影が、ぼやけて、膨らんで、それから崩れていく。もうきちんと笑えている自信もなかった。
「なんて言えばいいのか……私、分かんないよ」
それでも黙ったままではいたくなくて、訴えた。
「ねえ……。いま私、夢、見てないよね。現実の世界で、樹と会ってるんだよね……」
何言ってるんだとばかりに、樹の締め付けはさらに強まった。
痛いほど肌に食い込んだ、その確かな温かさが、今はこんなに嬉しいだなんて。きっと樹には届かないに違いない。届かないものは他にもある。肺がんのそれとは似て非なる、左胸に染みるようなこの痛みも。苦しさも。
「私……ひとりじゃ、ないんだよね」
「ここに俺、いるだろ」
樹が湿った笑い声を上げた。柚も釣られて、口角を持ち上げた。「えへへ」と小声で答えたら、溜まっていた目元の潤いが一気に堰を切って流れ出した。
そのまましばらく、嗚咽にまみれながら二人で笑った。
桜の雨に霞んだテラスの片隅で、彼方に浮かぶ春待桜の幻を望みながら、笑って、泣いて、笑った。
春待桜の告げた通りになった。樹は柚のことを、ひとりにしないでくれた。
柚はすべてを失ってはいなかった。
ありがとうの言葉をいくら並べても、なんだか陳腐にしか思えない。でも、こうして同じ桜色の景色の中で寄り添っていれば、いつかは柚の想いも伝わってくれるような気がしてならなかった。
なぜって──柚と樹はあの桜の下で、特別な色の糸を結んだ仲なのだから。
噎びながら何度も樹の手を握り締めた。触れたその場所を覆い隠すように、視界いっぱいの花びらが降り注いで、肌と肌の上で重なっていく。その静寂にも似たざわめきの中に、
──『某はそなたの居場所を示す目印で──“春待桜”で在り続けよう』
あの優しい声を、再び耳にした。
「もう、大丈夫です」
▶▶▶次回 『五十四 フラワーウォール』




