五十二 桜色の暴走
喧騒は病院内に入っても続いているかと思われた。案の定、正面玄関のドアに走り込むと、並ぶロビーのベンチにはたくさんの患者たちが出てきて、窓の向こうに桜の雨を拝んでいる。
その中を樹は、エレベーター目掛けて走った。
目指すフロアは六階だ。ここまで来てしまえば安心とさえ思えなくて、扉の開く速度がひどく遅く、もどかしい。樹を乗せたエレベーターはゆっくりと扉を閉じ、六階に向かって上昇してゆく。
ひとりぼっちの箱の中で、懸命に息を落ち着かせた。
(大丈夫だ)
痛いほど高鳴る胸に手を押し当てて、頷いた。
(きっと大丈夫だ。だって病院にいるんだぞ。そんな簡単に死んだりするわけ、ない)
それよりも今は、どんな顔をして柚と向き合えばいいのかを考えたかった。意識があろうと、なかろうと、あの病室にいる間はせめて素直な表情でいたいから。
もしも柚が目を覚ましていたなら、何と声をかけよう。伝えたいことも、伝えられていないことも、放っておけばいくらでも思い付く。
(『よかった』でもない。……『ありがとう』でも、ないよな)
口の端から乾いた笑みが漏れかけた。まだ意識が戻ったって決まってもいないのに、何してんだか──。考え込んでいるうちに六階に着いて扉が開く。すぐさまスタッフステーションへ向かい、樹は面会証を受け取ろうとした。
「あ!」
横を急ぎ足で通り過ぎようとした看護師が、樹を見るなり足を止めた。「あなた、よく中神さんのところに来てる子よね?」
「そうですけど」
「中神さん見てない⁉」
質問の意図が分からなかった。見ると、スタッフステーションの中には平時の半分ほどしか人影がない。それでも訝しむ表情を崩しきれずにいた樹に、焦った口調で看護師は続けた。
「あの子、つい今しがた意識を回復させたの。それで少し目を離した隙に、ベッドからいなくなっていて……。トイレにもシャワー室にも姿が見当たらないのよ!」
目の端に、つんと痛みが走った。
「……俺は、見てません」
そう答えるのがやっとだった。ありがとうと言葉を残し、看護師はスタッフステーションの奥へと駆け込んでゆく。
樹にもようやく訳が分かった。ステーション内のスタッフは皆、捜索に出払っているのだ。
柚が行方不明。
そんな、まさか。
面会証を手にすることもないまま、ふらふらと柚の病室へ向かった。中は確かに空っぽだった。電源の切れたスマホ、梢たちの残した手紙、制服──すべてがそのままになっている。ぽつんと置き去りにされた点滴のスタンドが、床に長い影を落としていた。背後の廊下を走り回るスタッフたちの足音が、正面の窓いっぱいに広がった桜の雨の景色を微かに揺らした。
「嘘、だろ」
樹は茫然と、つぶやいた。自分以外の誰かに嘘だと言ってほしかった。
樹の懸念は、現実になってしまったのだ。
この期に及んで悔やまれることなんて、いくらでもある。──喧嘩した時、首元を掴み上げてしまったこと。いちばん難しい段ボール文字の製作を引き受けた時、手伝ってやらなかったこと。柚が吐血して倒れたことに、いち早く気付いてあげられなかったこと。
柚を、ひとりぼっちにしてしまったこと。
ひとりぼっちの痛みなんて自分自身がよく分かっていたはずだった。そればかりか、いつも共感してくれる存在に飢えては、そのたびに窓の外の春待桜へと目を向けていたほどだった。校庭の真ん中にぽつりと取り残された春待桜だけは、なんだか自分と同じ心のカタチを持ち合わせているような気がして。
──だからこそ、あの桜と正面から向き合うのが、怖かったのに。
桜の吹く音がする。そこへ、苦しいほどに強い自分自身の鼓動の音色が重なって。
(どこにいるんだよ)
床に視線を突き刺し、樹は拳を握り固めていた。
(教えろよ。お前、また、ひとりぼっちなんだろ。それとも俺はそっちに行っちゃいけないのかよ)
居場所を教えてくれないというのは、つまり。
不安定な足取りで廊下に出た。丸く曲がった廊下の先に、階段がある。その奥の通路を曲がればスタッフステーションがあって、エレベーターが設置されているのはその正面だ。窓から差し込む桜色の光で、病院の白壁は柔らかな彩りに変わっている。
(まだ、言いたいこと、言えてないこと、山のようにあるのに)
インカムに手を当て、病院スタッフが駆け抜けてゆく。それをぼんやりと見送りながら、樹は階段に足をかけた。
これだけ探されても見つかっていないのだから、少なくとも階を移動しているはずだ。なおかつ、スタッフステーション前のエレベーターを使ったのでは人目につく。可能性があるとしたら階段のみだと考えた。上か、下か。いつもの癖で上へ向かう方に踏み込む。
一段、一段が、とても遠い。
(どこなんだよ────)
目尻が熱くなって、じわりと大きくなりかけた滴は、次の瞬間には見開いた目の隙間へと流れ込んでしまった。
階段の踊り場に、見覚えのある赤い痕跡が落ちていた。
しゃがんで、その匂いを確かめる。鉄の死臭がつんと香る。それは紛れもなく血の臭いであった。
この血の持ち主は。叩きつけられてひしゃげた血の跡を、樹は見下ろした。踊り場の窓を覆う花びらの色が強く輝いた時、その脳裏に鮮烈によみがえったのは──いつか柚に追いかけられながら登った邸中学校の階段の景色だった。
まさか──。
気付けば立ち上がり、きびすを返して上のフロアを睨んでいた。
猛烈な勢いで階段を駆け上った。途中、通り過ぎた壁のフロアガイドに、【九階 テラス】の文字が見えた。
階段のところどころに深紅の液体が散っている。誰もがエレベーターを使っているので、気付かれなかったのか。それが柚のものである保証など、どこにもない。それでも。
(あいつを、もう、ひとりにしたくない)
一段飛ばしで階段を蹴った樹は、ついに九階に辿り着いた。
(俺だって、もう……!)
息が切れそうで、胸が痛んで、されど止まらずにテラスの入り口を目指す。目指す出入り口のガラス戸には無数の花びらが貼り付いて、何も、見えない。しがみつくように扉を開け、桜の雨の下へと躍り出る。
早く。
早く。
春待桜が散ってしまう前に。
この命と魂を削って咲かせた“約束の花”が、散ってしまう前に──。
柔らかな桜の香りで満たされた空気を吸い、渾身の力を込めて、怒鳴った。
「然らば、某はそなたの居場所を示す目印で──“春待桜”で在り続けよう」
▶▶▶次回 『五十三 春待桜』




