五十一 桜色の絶望
扉がコンコンと軽く叩かれた。磨りガラスの向こうに人影を見、すっかり手持ち無沙汰になっていた上川原は駆け寄った。
栗沢が立っていた。
「なんだ、栗沢先生か」
「……その、もう進級証書、配り終わりましたか?」
樹が揃わないので、完遂はまだである。上川原は首を横に振って、宮沢が見当たらないと答えた。互いの卒業アルバムにコメントを書き合いながら、生徒たちがちらちらと入り口の二人を窺っている。
眉をひそめた栗沢は、実はですねと声もひそめた。「たった今、玉州会病院さんから連絡があったんですが」
さては、良からぬ報告か。構えた上川原に栗沢は囁いた。繕う余地のない満面の笑みで、
「中神さんが意識を回復させたそうなんです!」
上川原よりも先に生徒たちが反応した。勢いよく席を立つ音が背後で響いて、上川原はようやく我に返った。
「ほ、本当なのか」
「はい! 今日、それもたった今」
絶句した上川原を押し退けて、生徒たちが次々に栗沢の前に駆け込んできた。「嘘⁉ 嘘ですよね⁉」「いつ分かったんですか⁉」──黒板の脇までどかされてしまった上川原の目に、瞳を大きく開いた教え子たちの姿が踊る。
凄まじい食い付き方である。本当よ、私もその旨を聞いたばかりなのと栗沢がなだめると、今度は何人かが「よかったぁ……!」などと鼻を啜り始める始末。
上川原は肩で大きく息をした。
(少しは冷静になれる暇を与えてくれ……)
柚の欠けた穴を生徒たちは見事に埋めてみせ、伐られる寸前だった春待桜がついに開花し、その上──。奇跡とはこんなに重なるものだっただろうか。ともかく喜ばしいことには違いなかった。
「あ──っ!」
いちばん後ろに立っていた梢が、不意に大声を上げた。「樹まさか、そのことを知ってたんじゃ!」
「ってことは、病院に……!」
応じた林の声が、心なしか青ざめていた。梢を振り向いた生徒たちの顔に一斉に衝撃が走ったのも束の間。肩を怒らせた梢が、教室の奥にあるもう一つのドアへ駆け寄る。
「あいつやっぱり絶対に許さない! そういうところばっかり独り占めして────っ!」
叫ぶや、そのまま教室を走り出てしまった。上川原が引き留める間もなかった。
「ちょっと、どこ行くの梢ーっ!」
「待てよー! お前が行くならオレも行く!」
「痛った! おい築地、足踏んだだろっ!」
梢に引き摺られるようにして、生徒たちは次々と廊下へ出ていく。もう、収拾が付けられない──。残り二枚の中身を残すのみとなった紙袋を抱え、上川原は盛大に嘆息した。担任を置いていくつもりか。
「追いかけないんですか?」
栗沢が尋ねた。私だって追いかけたいと答えかけて、あのな、と代わりに詰った。「いくらなんでも……」
「いいじゃないですか。あ、私の方で問い合わせておきますよ。宮沢くんのこと」
「だが────」
「明日が来れば、他人になってしまうんですから」
反論する言葉を落としてしまった上川原に、栗沢は淋しげに、笑った。
「よく走れる子たちなので、ちゃんと追いかけてあげてくださいね」
◆
昔から、身体が弱かった。
遊ぼうとすると息が詰まった。笑っていると咳が止まらなくなった。急げば胸に痛みが走って、長引けば体力が限界を振り切った。
誰かと仲良くすることもできなかったし、誰かを大切に想うこともなかった。何をやっても身体が上手くいかないから、夢や希望を感じることもほとんどなかった。──それが拝島に来て、変わった。仲良しな友達ができて、大切な想い人ができて、春待桜を咲かせるという夢を抱いた。
生まれてはじめて、周りを取り囲む世界とまっすぐに向き合った。
時には対立したり、喧嘩をしたり、後悔に沈んだり悩みや不安で悶々としたけれど。総じて生き生きとした日々を送れていたと思うし、何より、楽しかった。
その結果がこれだ。
夢を掴めるまであと一歩のところで、向き合うことから無理やりに引き離された。
テラスは無人だった。しがみつくようにドアノブに手を掛け、開く。はずみで立て続けに咳をした。口元を覆った手のひらに、桜色の痰がへばりつく。
その上に、ふわりと本物が舞い降りた。
「あ…………」
柚は思わず声を上げていた。花びらが降っている。雨のように降っている。ゆったりと舞い降りる無数の桜の花びらが視界のすべてに降り注ぎ、明るい色へと変えていく。見上げると邸中の方角の上空に、高さ百メートル以上にも達する巨大な樹のような、桜色の雲がぼうと浮かび上がっていた。
花びらはそこから舞い降りてきている。
これが、春待桜の開花──『桜の雨』なのだ。
(すごい……)
息を呑むほどの迫力、そして美しさであった。早くも身体中に花びらがついてしまっている。払ってしまうのも惜しくて、そんなエネルギーも出せなくて、柚はそのままよろよろとテラスの端に向かった。
花びらの色に霞む拝島の街が、よく見える。
邸中も見える。
あの麓に、春待桜があるんだ──。身を乗り出しそうになって、またも押し寄せた吐き気に身構え切れなかった。
「うぇ、げほっごほ……っ!」
頽れそうになって欄干に掴まりながら、柚は血を吐いた。テラスに血溜まりができたが、すぐにその上から桜の花びらが降りてきて色を変えてしまった。
肩で息をしても苦しい。
もう、ずっと、こんなままなのか。
それでも今は、喜んでいたかった。春待桜は望みを叶え、こうして満開に咲いたのだ。悲しむのは筋が違うと思った。
なのに心は、言うことを聞いてくれない。
今ごろ邸中の体育館では、閉校式が執り行われているところだろう。もしくはすでに終わってしまって、みんな進級証書を手にして最後の思い出作りに勤しんでいるところかもしれない。
春待桜が咲いたのだから、きっと梅は春待桜の下にいるのに違いない。梅は、校長は、開花を喜んでくれただろうか。
本当なら柚もそこにいたはずだった。疑問に思う必要などないはずだった。
閉校式にも出席せず、みんなにも迷惑をかけ、おまけにこんなところで独りで苦しむなんて、予定外もいいところだった。
(私、また、みんなと一緒の思い出、作れなかったな……)
悲しい気分を振り払いたくて、わざと「あはは」と笑ってみようとした。吐き気が込み上げそうになって、必死にすべてを喉の奥へ飲み込んだ。これ以上血を吐いたら、また──。
刹那、血の滲む口の端に、柔らかな花びらが触れた。
そこから一気に脱力してしまって、柚はテラスにぺたんと腰をついた。足元も、胸元も、手元も血の色と匂いをまとっている。それが少しずつ、少しずつ、花びらの色と桜の香りに置き換わってゆく。
「樹」
空を見上げ、掠れた声で名前を呼んだ。
「ねぇ、私……喜んでもいいんだよね」
目尻に膨らんだ水滴が、勢い余って頬を駆け降りて肩の上の花びらに跳ねた。
「喜ばなくちゃ、いけないんだよね……。だって、私の夢、叶ったんだもん……」
それならどうして、こんなに、淋しい?
どうして、こんなに、哀しい?
涙と花びらの区別もつかなくなってきた。空の彼方に浮かぶ『春待桜』の幻を見上げ、柚は膝に手を押し当てた。
強く、強く。
「まだ、言いたいこと、言えてないこと、山のようにあるのに」
▶▶▶次回 『五十二 桜色の暴走』




