四十九 夢見た夢を前に
柚もまた、半ば意識を奪われたままのような気分で、春待桜の引き起こした『桜の雨』を眺めていた。
「きれい……」
それ以外に、思い付く感想が存在しなかった。
梅の語ったままの景色。拝島の街が桜の海に沈んでゆくその様を、病院の六階からは一望のもとにすることができる。美しいのか、恐ろしいのか、それすら区別がつかなくて、柚は窓から目を離すことができなかった。
この光景を見たくて、見せたくて、この一か月間ずっと努力してきたのだ。
嬉しくなって──ふっと我に返った。柚は、ここにいる。樹は、ここにはいない。いったいどうやって樹は春待桜を咲かせたのだろう。
(っていうか……私、どのくらい眠っていたんだろう)
ともかくスマホの充電が欲しい。何が起きて、何があったのか知りたい。ここが病院なら、スタッフステーションで充電用コードくらいは貸してもらえるはずだ。ふらふらと立ち上がった柚はスマホをつかみ、歩き出そうとして。
絡まっていた点滴のコードに思いきり足を引っ掛けた。
ガシャン! ──大きな音が響いた。
「痛ったぁ……!」
膝から床に転んでしまった。患部をさすりさすり起き上がりつつ、柚が倒れた点滴のスタンドを起こすと、部屋のドアが勢いよく開いた。音を聞き付けた看護師が駆け付けてきたのだ。
看護師は柚を見るなり、目を真ん丸に見開いた。
「大丈夫です────って、中神さん! よかった! 意識が戻ったのね!」
「あ、あの、私」
「ほらほら、おとなしくベッドにいなきゃ駄目よ! あなたはまだ容態が重いんだから」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして駆け寄ってきた看護師に、肩を支えられて立ち上がる。やけに急かされている気がした。スマホの充電を申し出られそうな雰囲気ではなかった。
「ちょっと待っていなさいね、担当の新畑先生に報告して来るからね!」
ベッドに腰かけさせ、看護師はどこかに連絡をかけ始めた。渋々、ベッドに寝転がった柚は、どことなく浮足立った様子の看護師の背中をじっと見つめていた。
容態が重い。
この人は確かに、そう言った。
「……あの、私」
連絡を取り終えたらしい。機器をしまって振り向いた看護師に、柚はぽつりと問いかけた。「私、倒れてからのこと、何も覚えてなくて……。そんなに私の喘息って酷かったんですか」
「喘息?」
看護師は訊き返した。そして、さも当然のように、
「あなたの病名は肺がんじゃない」
心臓が止まったかと思った。
◆
二年A組の教室からは、いつの間にか喧騒が失われていた。
誰もが無言のまま、舞いゆく桜の花びらを見ていた。開いた窓の隙間から、ひらりひらりと入り込んできた桜色のカケラが、床にまだらな模様を落としていく。
「……宮沢」
林が隣で、つぶやいた。「やった、な」
樹は何も言わずに頷いた。声を出してしまえば、この美しさを呆気なく壊してしまいそうだった。
それに今の感慨は、嬉しいとか、美しいとか、そんな半端な言葉だけで表現しきれるような代物でもなかった。
(柚。俺、やったよ)
窓を少しだけ開き、手を差し伸べてみる。たちまち手のひらに舞い降りた数多の花びらが、皮膚に触れてくすぐったい。この感覚は何かに似ていると思った。多分、柚の隣に座って過ごしている時のそれに。
そっと目を閉じ、そっと微笑んだ。
(柚との約束、守ったぞ。守れたよ)
決して平坦な道のりではなかった。乗り越えなければいけない壁も、手に入れねばならない情報もたくさんあった。それでも多くの助力を得て、樹は今、ここにいる。
みんなで桜を眺めている。
眺めることが、できている。
校庭に出て写真撮ろうぜと誰かが提案した。「行こう行こう!」「よそもやってるよ!」──背中の向こうで声が飛び交って、次々に教室を走り出ていく音が響く。林が肩を叩いた。
「行こうぜ宮沢も」
樹は慌ててしまった。俺はいいよと答えようとして、少し、言葉を工夫した。
「……俺はもうちょっと、ここにいたいな」
「んじゃ、向こうで待ってるからな」
にっと白い歯を見せた林は、足早に教室の床を蹴った。その姿を見送ってから、樹もまた、校庭に目を戻す。握りしめた花びらに、肌の温度がじわりと滲んでいた。
こんな景色が見られることを、六百年前に春待桜を植えたあの人は想定していたのだろうか。
七十年前の戦争中、空襲の恐怖に怯えるなかで満開の春待桜を見上げた人々の胸中は、どんなものだったのだろう。
昔はちっとも想像がつかなかった。今だって完全に理解することはできないのかもしれない。手が届くと胸を張って言えるのは、桜色の世界を前にして苦しいほどに高鳴っている、鼓動の変化だけ。
今ならどんな苦悩も苦痛も忘れられそうだ。矢の雨が降ることになろうが、爆弾の雨が降ることになろうが、桜を見上げるこの瞬間だけは平和な気持ちでいられる。きっと、その予感だけを頼りに、人々は春待桜の巨躯を連綿と見上げ続けてきたのだ。大切な人とそれっきり、離ればなれになる運命だったのだとしても──。
「…………柚!」
樹の身体を稲妻のように恐怖が走り抜けたのは、まさにその時であった。
◆
気管支喘息だと誰もが思っていた柚の病の正体が、実は重度の肺がんであったこと。大量の喀血で意識を失い、倒れているところを樹たちに発見され、救急搬送されて一命を取り留めたこと。
あれからすでに九日が経ち、今日が邸中学校の閉校式であること。
がんの状態は極めて悪く、今もなお容態が急変する可能性が高いこと。……その余命は、かなりの短さになることが予想されること。
桜の舞う外の世界から隔絶された、隅々まで真っ白な病室のベッドの上で、柚は看護師にすべてを聞かされた。
「……そう、ですか……」
顔を直視することができなくて、うつむいた。道理で胸の痛みや苦しさが残っているわけだと思った。
黙ってベッドに横たわる。看護師が掛け布団をふわりと被せてくれる。すぐ先生も来てくれるからと、彼女は笑った。
「窓の外、すごいわよ。何が起きてるのか分からないけど、すっごくきれい……。外でも眺めながら待っていてね」
答えを考える気力も湧かなくて、柚はただ、こくんと頷いた。
春待桜が咲いた。つまり、咲かせるのに必要な条件を、樹は柚抜きで取り揃えたということになる。樹と梅の二人か、それとも校長と梅か。──いずれにせよ、相応の負担を樹一人に負わせてしまったことになる。柚が元気でいられれば、必要のなかったはずの負担を。
作りかけのままになってしまった段ボール文字はどうなっただろう。欠けたままにしたのか、あるいは誰かが代わりに作ってくれたか。
梅は。
両親は。
クラスの仲間たちや上川原は。
考えれば考えるほど、迷惑をかけてしまったかもしれない人の数が増えてゆく。
(きれいだな、桜)
窓の側に身体を向け、柚は布団の中で縮こまった。
桜色のシャワーの降り注ぐ眺めは、ただ、純粋に『きれい』という言葉を贈ることのできるほどに美しくて、儚くて。
不意に涙がこぼれた。
(きれいだけど……。私、素直に、嬉しいって思えないや……)
涙をシーツで拭う。ほのかな温もりの乗った染みに触れて、ふと──あの花びらにも触れてみたいと思った。
「宮沢がいません」
▶▶▶次回 『五十 焦り』




