四十八 解かれた封印
──『某が主の願い、漸く遂げられたように御座る。然らば、某は往かねばならぬ。
中神柚殿、世話になった。宮沢樹殿にも伝え申すよう願いたい。
……達者でのう』
声が遠ざかる。
一歩、一歩、どことも分からぬ空間を踏み締める音が響いて、思わず手を伸ばした。待って。待ってよ。置いていかないで──。
「────あ……っ」
微かなその声とともに、中神柚は目を覚ましていた。
見覚えのない部屋。見覚えのない服装。心電図のモニターの打つ規則正しい電子音が、そこがどうやら病室であるらしいと教えてくれる。
いつの間に入院なんて──。
困惑に押されて上半身を起こした。胸が、痛い。苦しい。訳が分からなくて怖くなって、辺りを見回して、すると背後の壁のハンガーに吊るされた血まみれの制服が視界に入って。柚はようやく、起こったことのすべてを思い出した。
柚は倒れたのだ。大量の血を吐き、息を詰まらせて。
(それじゃ、今日は……!)
焦って手にしたスマホは充電切れだった。その下に、幾つもの手紙が置かれている。お見舞いのものだろうか──とにかく今は、それどころではない。
春待桜はどうなった。
樹はどうしているだろう。
閉校式は済んでしまったのか。
床頭台の上のデジタル時計に、今日の日付が表示されている。三月二十一日、正午。閉校式当日の日付である。
「そんな……」
柚は掠れた声でつぶやいた。
目の前で起きている現実が信じられない、信じたくない。誰か嘘だと言ってほしい。誰も、誰も……この病室には他に誰の姿もない。
泣きそうになりながら、柚は窓の外に目をやった。
窓ガラスの向こうで、桜の花びらが舞っている。
ひらり、ひらりと、まるで雨のように。
「…………えっ」
目を見開いて、柚は眼下を眺めた。地面がずいぶん遠い。地上数十メートルほどの場所で、どうして桜の花びらが舞っているのだろう。花びらのせいで視界が悪い。窓ガラスに隔てられた外の世界が、空が、街が、桜の色に染まっている。
まさか、と思った。
『何かに例えるとするなら、そうね……。桜の雨、かねぇ』
──梅の言葉が耳元で再生され、桜の花びらたちの中へと溶けていった。
◆
三月二十一日、午後0時。
邸中学校の校庭に屹立する一本桜『松原の春待桜』が、およそ七十年にわたる沈黙を破り、開花した。
空いっぱいに伸びた腕のような枝枝に、数え切れないほど並ぶ緑のつぼみ。
それが内から盛り上がり、頂点を破り、ぱっと弾けるように花びらを吹いた。
湧き起こった凄まじい上昇気流が、放たれた花びらたちを刹那のうちに巻き込み、吹き飛ばし、瞬く間に天空の彼方へと持ち上げていった。さながら爆煙のような巨大な姿を春待桜の上空に形成した無数の花びらは、やがて風に乗り、あるいは揚力を失い、拝島の街中にゆっくりと降下を始めた。
つぼみが弾け、花びらが開いて舞い、さらにその下から新たなつぼみが現れては花びらを放つ。七十年分の貯蓄を使い果たさんとばかりに繰り返される花びらの連続生産で、空は埋め尽くされ、雨のような勢いで市街地に花びらを降らせていった。
樹たちは教室にいた。
「お、おい! あれ────!」
林の大声が、クラスメートたちの視線を窓の向こうに引き寄せた。すでに中神家から戻ってきていた樹も、目を見開き、校庭の真ん中で咲き乱れる春待桜の光景を食い入るように見つめていた。
教室は大騒ぎになった。「本当に咲いた……!」「初めてだよね⁉ 初めてだよね!」「見ろよ、こっちの方まで花びらが舞ってきてる!」──窓に続々と飛び付いた少年少女たちの瞳に、桜色の煌めきがちらちらと反射して輝いた。
隣の教室でも同じことが起こっているのが、壁伝いに感じられる。
咲いた。
本当に咲いた。
それでもまだ、幻を見せられているような気分が抜けきらなくて、樹はしばらく一言も発することができなかった。
職員室には各教室から教師たちが戻ってきていた。そろそろ行くかと重い腰を上げ、進級証書の入った茶封筒を手に取った上川原の耳に、悲鳴のような栗沢の言葉が飛び込んできた。
「み、見てください! 校庭! 春待桜!」
上川原は危うく封筒を落としそうになるところだった。
各個のデスクから立ち上がった教師たちが、揃いも揃って窓に押し寄せている。集る黒山の向こうに花びらの雨を見、思わず上川原は上の階を振り仰いだ。
──まさか、樹はこのことを知っていて。
「どうなってるんだ……」
声の震えは、しばらく取れそうになかった。校庭に立つ生徒たちが口々に叫んでいる。窓を一つ隔てただけのはずの場所が、むやみに遠くに感じられて。
その校庭にはまだ、梢たちが残っていた。綺麗に写真撮れたね、あたしたちだけでもう一枚撮ろっか──梢の提案で改めて並び直し、インカメラに切り替えたスマホを右手で構えた時であった。
梢たちの背中に、爆発するような勢いで桜色が広がったのは。
「えっ」
全員がその場で振り返った。ほんの十五メートルほど先で、見慣れたはずの味気ない色をした春待桜が、見たこともないほどの数の花びらに包まれていた。
「咲いた!」
「ウソ! ウソだよね⁉」
口々に叫ぶ声を、舞い降りてきた花びらの雨が遮ってしまう。梢は呆然と立ち尽くしていた。立っているという意識さえ、ともすれば失ってしまいそうだった。
樹は約束を守った。春待桜を、咲かせたのだ。
胸の前を、一枚の花びらがふわりと泳いでいる。
柾はその一枚を、そっと掌で包み込んだ。年寄りにもなると思うように首が回らない。ただ、舞い降りてきたその一枚に、やっと対応できたくらいで。
「咲いた、わ」
梅が消え入りそうな声で言った。「本当だったのね」
「……あの日と同じ景色だね」
柾の視界に、七十年前のこの場所で見たものが重なる。空も地も、どこまでも桜色に塗り込まれた世界。ああ、と感嘆を漏らすことさえ憚られるほどの、美しい世界。
梅の目にも、同じものが見えているだろうか。
一歩、横にずれた梅が、柾にぴったりと寄り添った。服越しに浸潤した温もりが、柾の、梅の心を奥から弛緩させてゆく。
「若返ったみたいだな」
つぶやくと、梅はくすっと微笑んだ。
「いいえ、変わっていませんよ。……あの頃のまま、だわ」
そうだなと伝える代わりに、柾はそっと手を、握った。
緑街道沿いのスーパーの入り口は、吹き込んだ桜の花びらでカーペットのようになった。物珍しさに飛び出してきた買い物客たちで、屋上駐車場はたちまちごった返した。
拝島駅へ向かう青梅線の車内からは、電車が『桜の雨』に突入する瞬間をはっきりと確認することができた。視界不良で電車が減速する中、乗客たちは我先にと窓に顔を押し付け、異変をカメラに収めようとした。
花びらの降雨は南の多摩川や八王子の滝山城跡、北は在日米軍横田基地にまで及んだ。花びらの形成する雲は高くまで昇り、隣の市からも眺めることができた。
風に舞い上げられた無数の花びらの成すその姿は、さながら、太い幹や長い枝をのびのびと伸ばした春待桜そのもののようであった。
「きれいだけど……。私、素直に、嬉しいって思えないや……」
▶▶▶次回 『四十九 夢見た夢を前に』




