四十六 春風と、砂ぼこりと
瞬間、ドアの向こうに人の気配を察知して、柾はとっさに手紙を手のひらの下へと隠していた。
間一髪のところで間に合った。廊下に続くドアが開き、数人の女子生徒たちが校長室を覗き込んできたのだ。
「あのー、校長先生」
首の傾き具合に何かしらの依頼のあるのを予想して、校長は手紙を決して晒さないようにしながら立ち上がった。「何ですかな」
生徒たちは互いを見交わした。ショートカットの少女がこちらを振り向き、手を合わせる。見覚えのある顔だと思ったら、『桜庭』の台詞読みをしていた生徒会の子か。彼女は、はにかみながら言う。
「あたしたち春待桜の下で写真撮ろうって話してたんですけど、校長先生も入りませんか?」
「私でいいのかね」
「うちの担任と撮るのは飽きたんで!」
壁の向こうの職員室からくしゃみが聞こえてきた。ま、それも一興か──。封筒を机の上に置いたまま、柾はにこにこと笑って自分を待つ少女たちのもとへ歩いた。
「わ、校長先生意外とちっちゃい」
失礼なことを言う。
行きましょー、と周囲を取り囲んだ少女たちが、背中を優しく押してくれた。通ったばかりの昇降口で、くたびれた革靴を履き直す。進級証書を受け取り終えた生徒たちが、すでに校庭には続々と出てきている。
そのさまを眺めていたら無性に尋ねたくなって、柾は、口を開いた。
「……どうでしたか。この学校で過ごした時間は」
「あ、やっぱ気になるんですねー」
けらけらと少女たちは笑う。笑い終えると、あの生徒会の子が柾の右に立って。
「楽しいですよ」
「楽しかったですか。それは、それは……」
「かった、んじゃないです」
柾は顔を上げた。生徒会の子の手には、進級証書の紙も筒も握られていない。
「あたしのクラスはまだ配ってないんですよ、進級証書。だからまだ、終わってなんかいないんです」
ねー、と微笑み合う少女たちの姿が、今はひどく眩しい。まだ終わってなんかいない、か──。
柾は眼前に迫ってきた春待桜を見上げた。
桜はまだ枯れてはいない。自分たちの育ててきた生徒たちは、共に助け合ってきた教員たちは、なお学校の中に残っている。
(……そうだな。今から終わってしまったような気になっていては、いかんなぁ)
表情筋が、自然に緩んだ。
先生こっち見てくださーい、と声がかかる。自撮り棒の先端に装着されたスマートフォンのカメラが、桜色の制服に囲まれて立つ、老いた柾の姿を隅々まで映している。
「ポーズどうしよっか?」
「ピースでいいじゃん! 校長先生もなんか適当にカッコいい顔してください!」
無茶苦茶な注文である。それでも今は、自分の入る場所がここにあることが嬉しくて、柾は身体の前で両の手を柔らかく握った。パシャッ──軽やかに響き渡った音とともに、少女たちはいっせいにスマホに群がった。
「あ、ちょっとぶれてるじゃん!」「うち変な顔になってんですけど!」「校長がいちばんいい表情してる!」
賑やかな声が弾けている。
余ってしまった手を、柾はポケットに突っ込んだ。空いてしまった両脇の虚無を補えた気がした。
暖かな風が吹き抜けた。白髪混じりの髪をかき上げた春風は空へ舞い上がり、木の葉のように花びらを吹く。ひらり、一枚の花びらが降りてきたように見えて、柾は手を伸ばした。確かに届いたはずだったのに、花びらは手のひらを呆気なく透過して落ちていってしまう。何も掴めなかった手を、そっと小さく握りしめた時だった。
聞こえるはずのない声に、背中を叩かれたのは。
「柾さん」
柾はきびすを返していた。
威風堂々とそびえ立つ、春待桜の巨大な幹の隣。
春風に服を撫でられながら、杖をついた一人の老婆がそこに立っていた。
「柾さん、よね」
老婆は微笑をたたえている。対する自分がどんな顔をしているのか、柾には分からなくなってしまった。そんな思考にメモリを回す余裕はなかった。
柾の記憶が正しければ、あの声色は。
あの顔立ちは。
あの、呼び名は。
風が強く吹き付け、足元で湧き上がった砂ぼこりが瞬時に視界を曇らせる。七十年前、同じ光景を見たのを思い出した。あの時は砂ではなく、花びらだった──。
「やっぱり、覚えていないかしら」
杖に身体を預け、彼女は小指で頬を掻いた。
田中梅、その人だった。
「それでもわたし、気付くといつも、あなたの背中を探していた」
▶▶▶次回 『四十七 ありがとう』




