表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
53/69

四十六 春風と、砂ぼこりと





 瞬間、ドアの向こうに人の気配を察知して、柾はとっさに手紙を手のひらの下へと隠していた。

 間一髪のところで間に合った。廊下に続くドアが開き、数人の女子生徒たちが校長室を覗き込んできたのだ。

「あのー、校長先生」

 首の傾き具合に何かしらの依頼のあるのを予想して、校長は手紙を決して晒さないようにしながら立ち上がった。「何ですかな」

 生徒たちは互いを見交わした。ショートカットの少女がこちらを振り向き、手を合わせる。見覚えのある顔だと思ったら、『桜庭』の台詞読みをしていた生徒会の子か。彼女は、はにかみながら言う。

「あたしたち春待桜の下で写真撮ろうって話してたんですけど、校長先生も入りませんか?」

「私でいいのかね」

「うちの担任と撮るのは飽きたんで!」

 壁の向こうの職員室からくしゃみが聞こえてきた。ま、それも一興か──。封筒を机の上に置いたまま、柾はにこにこと笑って自分を待つ少女たちのもとへ歩いた。

「わ、校長先生意外とちっちゃい」

 失礼なことを言う。

 行きましょー、と周囲を取り囲んだ少女たちが、背中を優しく押してくれた。通ったばかりの昇降口で、くたびれた革靴を履き直す。進級証書を受け取り終えた生徒たちが、すでに校庭には続々と出てきている。

 そのさまを眺めていたら無性に尋ねたくなって、柾は、口を開いた。

「……どうでしたか。この学校で過ごした時間は」

「あ、やっぱ気になるんですねー」

 けらけらと少女たちは笑う。笑い終えると、あの生徒会の子が柾の右に立って。

楽しい(・・・)ですよ」

「楽しかったですか。それは、それは……」

かった(・・・)、んじゃないです」

 柾は顔を上げた。生徒会の子の手には、進級証書の紙も筒も握られていない。

「あたしのクラスはまだ配ってないんですよ、進級証書(アレ)。だからまだ、終わってなんかいないんです」

 ねー、と微笑み合う少女たちの姿が、今はひどく眩しい。まだ終わってなんかいない、か──。

 柾は眼前に迫ってきた春待桜を見上げた。

 桜はまだ枯れてはいない。自分たちの育ててきた生徒たちは、共に助け合ってきた教員たちは、なお学校の中に残っている。

(……そうだな。今から終わってしまったような気になっていては、いかんなぁ)

 表情筋が、自然に緩んだ。

 先生こっち見てくださーい、と声がかかる。自撮り棒の先端に装着されたスマートフォンのカメラが、桜色の制服に囲まれて立つ、老いた柾の姿を隅々まで映している。

「ポーズどうしよっか?」

「ピースでいいじゃん! 校長先生もなんか適当にカッコいい顔してください!」

 無茶苦茶な注文である。それでも今は、自分の入る場所がここにあることが嬉しくて、柾は身体の前で両の手を柔らかく握った。パシャッ──軽やかに響き渡った音とともに、少女たちはいっせいにスマホに群がった。

「あ、ちょっとぶれてるじゃん!」「うち変な顔になってんですけど!」「校長がいちばんいい表情してる!」

 賑やかな声が弾けている。

 余ってしまった手を、柾はポケットに突っ込んだ。空いてしまった両脇の虚無を補えた気がした。

 暖かな風が吹き抜けた。白髪混じりの髪をかき上げた春風は空へ舞い上がり、木の葉のように花びらを吹く。ひらり、一枚の花びらが降りてきたように見えて、柾は手を伸ばした。確かに届いたはずだったのに、花びらは手のひらを呆気なく透過して落ちていってしまう。何も掴めなかった手を、そっと小さく握りしめた時だった。

 聞こえるはずのない声に、背中を叩かれたのは。




「柾さん」




 柾はきびすを返していた。


 威風堂々とそびえ立つ、春待桜の巨大な幹の隣。

 春風に服を撫でられながら、杖をついた一人の老婆がそこに立っていた。




「柾さん、よね」

 老婆は微笑をたたえている。対する自分がどんな顔をしているのか、柾には分からなくなってしまった。そんな思考にメモリを回す余裕はなかった。

 柾の記憶が正しければ、あの声色は。

 あの顔立ちは。

 あの、呼び名は。

 風が強く吹き付け、足元で湧き上がった砂ぼこりが瞬時に視界を曇らせる。七十年前、同じ光景を見たのを思い出した。あの時は砂ではなく、花びらだった──。

「やっぱり、覚えていないかしら」

 杖に身体を預け、彼女は小指で頬を掻いた。


 田中(たなか)(うめ)、その人だった。







「それでもわたし、気付くといつも、あなたの背中を探していた」


▶▶▶次回 『四十七 ありがとう』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ