四十五 テガミ
校長室の主が戻って来たのは、それからさらに数分が経過した後のことである。
邸中学校校長・宮沢柾は、校門での来賓の見送りを終えたあともしばらく、校庭に立ち続けていた。
校庭には三々五々、生徒や保護者たちが出てきている。しかし大半のクラスは、まだ最後のホームルームを行っている最中のはずである。人影の少ない校庭の縁は満開に咲いたソメイヨシノの木々に彩られ、校舎と木々に取り囲まれた春待桜の存在感をいつもよりも打ち消してしまっている。
これで例年通りの光景だった。そして来年、この景色を柾が目にすることはない。
(……結局、最後まで当たりはつけられなかったな)
柾はうつむいた。
春待桜の保全を依頼できないかと問い合わせた会社の数は、もはや両手の指の数を軽く超えていた。精一杯の努力はしたつもりだったけれど、努力がいつも報われるわけではない。ただ、今となっては残念に思うばかりで。
校長室の机の上にはまだ、やり終えていない仕事が積み上がっている。それらが仕上がれば最後の教員会議を開いて、それから打ち上げである。打ち上げにどんな気持ちで望めるかは分からないが、せめて少しは前向きな心情を繕いたいものだと思った。後腐れを残すことなく、邸中を立ち去れるように。
「…………」
校舎を見上げ、ため息をひとつ。それから柾は一歩を踏み出した。
『目を醒ませよっ! 春待桜はもう、二度と、永遠に、咲かないんだよっ!』──樹の涙ながらの怒鳴り声が、呪いのように柾の足取りを重たくしていた。
今日を限りに、柾は校長職の座を永遠に降りることになる。延べ五十年以上に及んだ教員の生活も、校旗が返納されたあの瞬間、ようやく終わりを告げた。
初めて教師を目指そうと志したのは、戦争が終わって少しした頃のことであった。
柾の学校生活は、戦況の悪化もあってどうにも不完全なものになってしまった。授業はしょっちゅう中断する。学徒動員前の若い働き手として、方々の現場に駆り出されては農作業や建設作業、被害家屋の解体などの労働に追われる。当然、空襲で命を狙われるのも日常茶飯事で。そんな中でも柾たちの心に癒しをもたらしてくれたのは、人の世の憎しみなど知らぬとばかりに咲き誇る季節の花たちだったように思う。
中でもとりわけ、春先を飾る桜の開花は思い出深いものだ。──そこには終戦の年の春、たった一度だけ花を開いた、あの春待桜をも含めることができた。
(この学校に勤めることができれば、あの桜がふたたび咲くのを見られるんじゃないか──)
教師の世界に飛び込んだ動機など、その程度のものでしかなかった。在任中に春待桜が咲くことはとうとうなかったけれど、教師として生きる日々はそれなりに忙しくて、楽しかったと思う。悔やまれることがあるとすれば、それは一番近くにいたはずの“教育対象”を、忙しさを言い訳にしてきちんと育ててやることができなかったことか。
校舎に入る。昇降口で靴を脱いでロッカーへ入れ、代わりに出したスリッパに足先を通しながら、ふっと苦笑いが口元を汚した。
そうだ、後悔の材料なんかいくらでもある──。それは自分の側を向いた苦笑いだった。
例えば、大地主の跡継ぎであることで調子付き、我慢や忍耐を学習しないまま大人になってしまった息子のこと。そんな不肖の息子のもとに生まれてしまったばかりに、樹にたくさんの苦労をかけてしまっていること。自分のわがままのために、部下の教員たちを振り回してしまったこと。……それから、もうひとつ。
七十年以上前の、あの日。降り注ぐ爆弾の雨から、己よりも大切に想っていたはずの彼女を守ることができなかったこと。
激動と呼ぶに相応しい戦後の世界を、自分なりに前を向いて必死に生き抜いてきたと思っていたが、そうやって記憶を整理してみると、なんだか後ろばかりを振り返りながら生き永らえてきてしまったような気がする。
(中途半端なのが、お似合いか)
自嘲に変わりつつあった笑みを、そっと腕で拭って消し去ったところで、柾は校長室の前にたどり着いていた。反省の時間はもう終わりである。
何気なく扉を開いて、それから閉じる。古めかしい香りの漂う校長室の空気を感じながら、わざと遅い歩みで執務の机に近寄った。
見覚えのない封筒が、そこへ置いてあった。
「…………?」
取り上げて、裏返した。差出人の名前も切手もないところを見ると、郵便物ではないらしい。
職員室の誰かが持ち込んだのだろうか。
不思議さに気を取られていて、封筒の上下が逆さまになったのに気付かなかった。ばさ、と床に紙擦れの音が落ちて、しまったと慌てて柾は手を伸ばした。
そしてその姿勢のまま、数秒間、固まった。
初恋の人、田中梅に贈るためにかつて綴ったはずの手紙が、往時の姿のままそこに落ちていた。
なぜ、こんなところに。
持ち込んだ覚えなど柾にはないというのに。
すぐさま拾い上げてほこりを払い落とす。誰にも見られていなかったのを確認して、柾はいそいそと椅子に腰掛けた。もしも本物ならば、こんな恥ずかしい代物を部下の教師たちに見られるわけにはいかない。
(筆跡も、当時のままか……?)
少し覗き見る。自分の書いたものに間違いなかった。動悸の激しくなるのを感じながら、すっかり色の褪せてしまった便箋を、改めて開いてみる。
記憶が正しければ、梅に想いの丈を告白するために書いた手紙のはずだった。果たして、【貴女がどうしようもなく好きなんです】【どうか僕の気持ち、貴女にも届いてほしい】──歯の浮くような台詞の羅列に、せっかく消し去ったはずの苦笑いがまたも首をもたげてきた。
柾はしばらく、浸るようにして手紙を読みふけった。
春待桜が数百年振りに開花する、その三ヶ月ほど前。冬の拝島の町中で、柾は梅と出会った。男女別学が当たり前だった時代である。きっかけはよく覚えていないが、互いの通う学校を知り、家を知ったあたりから、親しく話したり遊ぶ関係が徐々に育っていったのだったと思う。
田中家に米軍機の爆弾が命中し、全滅の報が町を行き交うまでの三ヶ月間。幸せな日々だった。
(梅さんは穏やかな人だったな)
目を閉じて、あの頃を想った。日を追うごとに胸の奥で梅への愛しさが募ってゆき、つけていた日記にも梅の名前が躍り狂うようになった、あの頃。
梅は柾が隣にいることを嫌がらなかった。時に学校生活や動員への不満を漏らした柾の話を、いつも黙ってにこにこしながら聞いてくれた。そんな日々が続くうち、やがて自分自身の日常や不安のことも、梅の側から語ってくれるようになって。
あんなことが起きなければ、きっと今でも──。
夜更けの地を揺るがす爆発音を思い出し、柾は手紙を閉じてしまっていた。
(あの日を境に、春待桜の花びらもみんな散ってしまったんだったか。哀しかったというか、虚しかったというか……しばらくは何も手につかなかったな)
懐かしい記憶は時に心に傷を付ける。手紙を封筒に仕舞い込み、それをそっと机の脇へ退けながら、柾は視線を床へ落とした。
同時に、安堵にも似た感情の和らぎを感じてもいた。
梅を失った出来事を、きれいな思い出として処理したくはなかったのだ。底知れぬ喪失感をどうにか乗り越え、励ましてくれた別の女性の手を取り、あれからそれなりの安寧を築き上げた身として、梅の身に起こった悲劇を忘れたくはない──。今、こうして思い出せるということは、自分はあの誓いを守れているのだろうと思った。信じたかった、と言い換える方が適切かもしれなかったが。
春待桜の開花を拝めなかった、せめてもの慰みに、この手紙は家へ持ち帰ろう。
退けた封筒に手が伸びて。封筒の色艶の良さに、ふと気が留まって。
待て、と手も止まった。
春待桜の花開いた日、この手紙は確実に梅に渡したはずだ。それがなぜ、梅の身体を木っ端微塵にするほどの爆弾の雨を浴びても、こうして無傷で残っている?
「かった、んじゃないです」
▶▶▶次回 『四十六 春風と、砂ぼこりと』




