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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
49/69

四十二 寂しがり屋の矜持





 体育館には全校生徒二百七十名、全教職員五十二名、その他の来賓、保護者、そして参加を希望した地域の人々が集まった。

 『卒業証書』を授与される三年生の生徒が、中央に。『進級証書』を授与される二年生と一年生は、その両側から挟むように並んで、椅子に座っている。式辞や証書授与に使われる舞台左側の袖には教師たちが待機し、右側には吹奏楽部の生徒たちが銘々の楽器を手にして着席。舞台の真下、生徒たちが昇り降りをする階段の周囲は、二年A組の尽力によって豪華な飾り付けが行われている。

 『ありがとう、桜と邸中』──。遠くからでも目立つ段ボール製の巨大文字は、あまたのペーパーフラワーと一言コメントの書かれた画用紙の花びらに彩られ、保護者たちの関心をさっそく引いていた。

 副校長が開会の言葉を述べ、続いて国歌『君が代』の斉唱。それが済むと次は、三年生の卒業証書授与である。


(……あ、あの人、知ってる先輩だ)

 マイク越しの声に聞き入りながら、何度そう気を留めただろう。

 両手を膝の上に揃え、福島(ふくじま)(こずえ)は粛々と進む名前の読み上げを黙って聞いていた。二年生と一年生まで読み上げたらきりがないので、全員の名前が呼ばれるのは三年生だけだ。自分の名前がこの()びた体育館に響くことはないのだと思うと、少し、寂しい。

 梢は部活には入ったことがない。だから部活繋がりで親しくしている先輩もいない。委員会活動の中で知り合った数少ない年上の知り合いも、今、一人ずつ名前を呼ばれては校長から卒業証書を手渡され、『中学生』という身分から羽ばたいてゆく。

(あたしはそんなに悲しくないけど、やっぱ部活に先輩のいた人は悲しくなったりするんだろうな)

 そう思って、並んで座るクラスメートたちの横顔を見た。

 少し離れた席に座る林が、うつらうつらと舟を漕いでいる。退屈なのは分かるけど、そんな露骨に寝ないでよ──。梢は青汁を飲み干したような顔になった。

 空白の隣席を挟んだ向こう側の席では、樹が背中を真っ直ぐに伸ばして前を見つめている。

 樹がテニス部だったことを、梢は今さらのように思い出した。思い出したが、樹に限って先輩の名残を惜しんだりはしないかと考え直した。テニス部の解散の時の打ち上げにも、樹は姿を現していない。

 梢にしてみれば、クラスメートとの対話を怠らない今の樹の姿勢よりも、そちらの方がよほど本来の樹らしい気がする。

(柚ちゃんが来てから、あいつ、ほんと変わったな)

 ()ねそうになる気持ちをそっと胸の奥へ押し戻した梢も、樹に負けないように背筋を伸ばした。


 梢が樹と出会ったのは、小学三年生でクラスが同じになった時であった。もともと同じ学区なので、実際はすでに八年間、寸分違わず同じ学歴を辿っていることになる。

 樹の他者への物腰がきついのは、昔も今も同じだった。いくら誘っても一緒に遊びたがらない。そればかりか、だんだんと軽蔑するような目付きを向けられるようになり、学年が上がるにつれて梢も、樹の存在が次第に苦手になっていった。

 ──あたしの何がそんなに気に入らないの?

 ──どうして普通の子どもっぽく振る舞っていたらいけないの?

 ぶつけてみたい質問など、昔から山のようにある。けれど、ついぞ一度もじっくり話し合う機会を持てないまま、中学二年の春に関係は最悪のところまで()ちた。自分勝手なことをして体育のチームを振り回したことを咎めたら、逆上した樹に殴られたのだ。

 梢は泣いた。周囲に心配をかけるほど大泣きした。痛みのせいではなくて、樹と分かり合える可能性が限りなくゼロに近いことに気付いてしまったがゆえの、絶望に打ちのめされて。

 そしてそれが済むと、泥水のように濁った心の奥底には、樹に対する敵愾心(てきがいしん)ばかりが堆積していった。


(あたし、寂しがり屋だからさ)

 両膝の上に置いていた手を、梢はきゅっと握った。

(本当は敵なんか作りたくないよ。誰とでも仲良く、みんなと楽しく毎日を過ごせれば、それ以外に望むものなんて何もなかった。だから柚ちゃんのことも誘ったし、あの子を仲間に引き入れられて嬉しかったし……。だけど宮沢は、そうは思ってなかったんだね)

 見渡せば、この一年間を楽しく過ごしてきた仲間たちの姿が見える。林、(じゅん)(なつめ)(けい)(あんず)(たけし)……。普段の呼び名で数えながら、自分は独りでこの学舎(まなびや)を旅立ってゆくのではないのだと、無性に安心する。

 そして最後に、“(みやざわ)”を数えた。

 みんな仲良しを梢は望む。ならば樹は、何を望むのだろう。梢には樹が周囲を遠ざける理由が分からなかった。一度くらい話を聞いてみたいけれど、今はまだ、素直な気持ちでその場に臨める自信が持てないでいる。

 それと、機会ができたらついでに聞いてみたい。何が樹の向き合い方を変えたのか、も。

(やっぱ、柚ちゃんか)

 梢は口元に笑みを作った。

(宮沢はきっと柚ちゃんの告白、受け入れたんだろうな。……っていうかバレバレだっての。柚ちゃんのことだけ下の名前で呼び始めるし。心配して家まで見に行くし。春待桜にまで、あんなに関心を持ち始めるし)

 恋は人間を変えてしまうという。樹も例外ではなかったようだ。いいなぁ、恋。顔を覗かせかけた羨望を、梢は勢いよくハンマーで埋め戻した。別に羨ましくなんてないんだからと、自分でも言い聞かせた。

 いずれにしても言えるのは、柚がいなければ樹の態度は軟化しなかったということ。

 閉校して離ればなれになる前に、梢たちと樹が和解を迎えることができたのは、きっと柚のおかげに他ならないということ。

(宮沢のこと、まだ許すことはできないだろうけど)

 作った笑みを梢は消した。わざわざ作る必要もないかなと、ようやく思えた。

(今度は前より上手くやろうよ。……たとえ居場所(がっこう)がバラバラになっちゃっても、あたしたち、同じ町で暮らしていくことには変わりないんだから)


 つい、昨日のことだった。久しぶりに樹に話しかけられた。

──『相談があるんだ』

 林も呼ばれていた。席が近いがゆえの人選だったのか、どうか。ともかく樹は二人に向かって、ある話をした。

 柚と一緒に、春待桜のことをずっと調べていたこと。

 春待桜を咲かせられる方法に辿り着いた矢先、柚が倒れてしまったこと。

 そして、春待桜を咲かせるためには、自分と柚──もしくは同じ血の流れを()む者が、桜の木の下に揃わなければならないこと。

 そのために校長と柚の祖母を引き合わせたいと樹は語った。そして、その助力をお願いできないかと、机に手をついて頼み込まれた。

 あまりにも突拍子のない話だ、すんなりと信じる方が難しいはずだった。だが、林が『面白そう』という理由で早々と賛意を示してしまい、梢は味方を失った。梢がすぐには信じないことを見越していたのか、樹もそれまでの調査で使ってきた史料を次々と積み上げ、本当なんだ、ここにもこう書いてあると、熱心に説得を試みた。

 そして最後に、付け加えたのだ。

──『柚のためだけじゃない、きっとみんなのためになる。もしも何も起こらなかったら、その時は俺のこと、責めてくれていいから』

 と。


 三年生の授与が終わったらしい。一年生と二年生の各クラス代表の名前が呼ばれ、階段の前に列を作ってゆく。

「次、なんだっけ」

 隣の子がひそひそと耳打ちしてきた。式次第を教室に忘れてきたらしい。梢は小声で答えた。

「校長祝辞、卒業生代表答辞、皆勤賞授与」

「なーんだ、まだまだ『桜庭』までは長いなぁ」

 分かるよ、緊張するよね──。くすっと笑った梢は、また少しだけ曲がってしまった背骨を整えて、自分に宛がわれたひとつの言葉を頭の中で確認した。




 後ろ髪を引かれることなく、愛したこの学舎(まなびや)を立ち去ることができるように。

 そして、ともにこの場所に座ることのできなかった、大切な人のために。

 梢は前を向いて声を張り上げ、樹の手を取る。







「だから、ちゃんと聞いててよね」


▶▶▶次回 『四十三 『桜庭』』

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