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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
48/69

四十一 ブローチ







 空は蒼々と澄み渡り、少し冷えた空気を貫いて陽の光が温もりを届けてくれる──そんな日和(ひより)の三月二十一日、水曜日。

 日本全国に先駆けて東京都の全域に出されていた桜の開花予想日が、ようやく拝島の町を訪れた。

 そして、この日。拝島の中央に座する一つの中学校が、長きにわたったその役目を終え、眠りに就くことになっていた。




 午前七時。最後の打ち合わせにと、校舎一階の職員室には邸中学校の教職員全員が顔を合わせた。


「いよいよなんですね」

 ブラインドを上げて窓の外に目をやりながら、同僚がどこかのんびりとした声でつぶやく。上川原(じょうがわら)(ただし)はスーツの胸に花弁形のブローチを付けながら、やれやれと笑った。

「担任クラスがないと気楽でいいな、栗沢先生」

「そんなことはありませんよ! これでもそれなりに胸、痛いんですよ」

 同僚──栗沢(くりさわ)(あずさ)は振り返り、しおらしくため息を吐く。「手が空いている教員は少ないというので、校長や副校長の手伝いに私も駆り出されるんですよ。教委の出迎えやら、PTA代表の出迎えやら……」

 そっちのため息か──。突っ込みをこらえて上川原は応じた。

「そんなもの、黙って頭を下げているだけでいいじゃないか」

「楽は楽ですけど。……せっかくですからクラスを受け持って、担任の子どもたちと一緒に最後の日を迎えたかったです」

 見慣れたジャージではない、スーツ姿の彼女の背中は、今日はなんだかいつもより小さい。

 まぁな、と上川原は笑った。教諭の数の割には邸中の学級数は少ないので、クラス担任を持たない教諭が必ず毎年、一人か二人は出てしまうのだ。気持ちは分かるが、難しい年頃の中学生たちを『閉校』に向けてまとめるのは簡単じゃないぞ──。自分の体験は胸に仕舞ったままにしておくことにして、慌てたようにブローチを付け始めた栗沢を眺める。

 左胸を守るように光る、桜色のブローチ。

(こんな高そうなもの、いったい誰の金で調達したんだろうな)

 考えるまでもなかった。校長室へ続く扉の方を、上川原はちらりと見やった。名前を呼ぶ声がして、すぐに目を離してしまったが。

「上川原先生ー、栗沢先生ー! 打ち合わせ始めますよ!」

「すまん。今行きます」

 返事を寄越した上川原の横を、栗沢がぱたぱた足音を立てながら追い越していく。上川原も急ぎ足で、普段通りの会議室へと向かう。


 午前九時から十一時半頃まで、卒業式・閉校記念式典出席。

 その後、卒業生退場を見送ってから来賓と共に退席。校門まで来賓を案内し、校長室へ戻って執務の消化。

 すべてのクラスが解散したのを以て、再び会議室に集合。最後の会議を行い、そのまま教職員合同の打ち上げへ移動。

 ……それが、邸中学校長・宮沢(みやざわ)(まさき)の今日一日の動きである。昨日、校長のいない間をぬって秘かに校長室に侵入し、壁掛けのホワイトボードにあった予定表を無断で調べてきたものだ。


 それにしても、樹はどうしてそのようなことを調べさせたのだろう。

 打ち合わせの話に相槌を打ち、プリントに注意書きを加えてゆきながら、上川原は樹の申し出を思い返した。

 昨日の昼間、廊下で樹に捕まり、相談があると申し出られたのである。その内容は二つだった。閉校式後のホームルームの開始時間を、三十分から一時間ほど遅らせてほしいということ。そして、閉校式前後の校長の動きを、逐一調べておいてほしいということ。

 特に反対する理由もなかったので、言われた通りに校長の動きは調べて伝えておいた。樹が何の考えもなしにそんなことをするとは思えないが、それでも気になるものは気になる。

(ま、素直に楽しみにしていれば、それでいいか)

 深呼吸をして気持ちの整理をつけた上川原は、汗ばんだペンを握り直す。

 半端なことをする子ではない──。協調性を欠いている部分は確かにあったかもしれないけれど、少なくとも上川原は樹にそのくらいの高い評価を送っていたつもりだ。



     ◆



 午前八時。二年A組の教室にはすでに続々と生徒たちが集まり、めいめいに配られたブローチを付けながら、上川原がやって来て体育館へ誘導するのを待っていた。


 全員の机の上には、式次第の書かれた桜色のプリントと、教職員が付けているものと同じ桜の花びらの形をしたブローチが置かれている。教室に入ってきた宮沢(みやざわ)(たつき)は、ブローチを拾い上げて思わず、なんだこれ、と口にしてしまった。

「左胸のポケットのところに付けるっぽいよ。先生とか事務の人、みんなそうしてるぞ」

 早々とブローチを付けた林が、前の席から振り返って教えてくれた。樹が顔を曇らせたのは言うまでもない。

「ただでさえピンクの目立つ制服だってのに」

「いーじゃん。ほら、その方が邸中生(オレら)っぽいし!」

 そのブローチを付けさえすれば、“オレら”の中に宮沢だって入ってこられるんだぞ──。言外にそんなメッセージの存在を感じ取ってしまいそうになって、さすがに少し躊躇(ためら)われて。

(ま、みんな同じだし)

 樹はブローチを手に取った。

 教室には伸び伸びとした雑談の声が溢れている。大きな窓からは朝の光が燦々と差し込んで、その向こうに校庭の景色が覗いている。窓際に寄り掛かっている女子たちが、桜咲いたねー、なんて笑っている。

 樹も校庭に目をやった。中央の春待桜はつぼみのままだが、校庭の周囲を取り囲むように並ぶソメイヨシノの木々たちは、一斉に桜色の花をつけていた。

「開花予報、当たったな」

 思わず独りごちると、なー、と林が応じた。「怖いくらいぴったりだよなぁ。どうやって予想してるんだろ」

「俺もよく知らないけど、やっぱり気温なんじゃないのか。桜って気温が上がると咲くらしい」

「あー、道理で東京から先に咲くわけかぁ」

 林は椅子にもたれながら、なるほどなぁと繰り返す。東京はアスファルトの天国だ。桜の開花が早いのは、ヒートアイランド現象と無関係ではあるまい。

 合わせるようにちょっぴり笑いを添えてから、樹はまた桜並木へ目を戻した。

 秋のうちに花の芽を用意したサクラの木は、葉で休眠ホルモンを作って休眠状態に入る。冬になり気温が一定程度まで下がると、休眠が打破されて花芽は成長を再開。その後、春を迎えて気温が上昇するにつれて、つぼみが花開く仕組みになっている。

 風が吹き寄せれば跡形もなく散ってしまう、まるで人の世の儚さを体現しているようなサクラの花だが、実際は秋に始まる長い準備の果てに咲いているのである。

 行為はすぐには実を結ばない。いつか大きな花が咲いてくれるのを、桜とて待ち侘びていたのだ。


「……宮沢」

 名前を告げられた。振り向くと、梢が腕組みをしながら立っていた。

「確認なんだけどさ。昨日のアレ……本当にやるんだよね」

「ああ。上川原にも話、してある」

 梢は困ったような、照れているような、微妙な眉を作った。「宮沢の話、信じてないわけじゃないけどさ……。やっぱり不安っていうか、そんな上手くいくのっていうか」

「てかさぁ、うちらは手伝うことないのー?」

 梢の後ろから別の女子たちが顔を覗かせた。大丈夫、と樹は首を振る。

「今のところ、最低三人いれば人手は足りるから」

「みんなでやったらいいんじゃね? 校長室に忍び込むのは一人の方がいいだろうけどさ、だってその方が楽しいだろうし」

 別の男子も口を挟む。それはそうなんだけど、と樹は頭を掻いた。

 梢の指摘は樹の懸念でもある。よその桜が咲いても春待桜だけは咲かなかったように、樹の立てた計画がきちんと実を結ぶのかどうかは、本当のところ予想がつかない。

「手伝ってもらって、何も起きなかったら悪いし……」

「でも“何も”起きないわけじゃないだろ?」

 林までもが割り込んできた。樹の言葉を遮った林は、にっと歯を見せて笑う。

「あ、ダメだった時は樹に何か(おご)ってもらうってことにしようぜ」

 樹の顔は瞬間的に引きつった。それいいね、と梢までもが言い出す。「宮沢ん家、金持ちなんだから」

「そういう問題じゃ!」

「冗談に決まってんじゃん」

 焦って声を大きくした樹に、梢は鼻で笑ってみせた。

 迷いも、困惑も、いつしかその笑みの下にふわりと隠れていた。




 昨日の夕方、樹を含めた数人で、柚の見舞いに行った。


 柚の意識はまだ戻っていない。放射線照射による肺がんの治療も本格的に始まり、容態は安定して推移していると説明されたが、動かないままの柚の唇を前にして、その説明を鵜呑みにするのはやはり難しかった。

 けれど、誰の声も届かない、誰の手も差し伸べられない場所で、柚は今も懸命に病と戦っている。心電図の同期音に、その息吹を確かに感じて。

──『もしも、春待桜が咲いたらさ』

 オレンジの眩しい病室の中で、梢は消え入りそうな声でつぶやいていた。

──『柚ちゃんのところにも進級証書、持ってきてあげたいね』

 樹も同じ想いを抱いていた。すべてが無事に済んだのを見届けたら、一刻も早く柚のところへ行ってやりたい。お前の夢は叶ったぞって、報告してあげたい。

 そのためにも。




 上川原がドアを開けて入ってきた。背筋をぴんと伸ばしたその姿を見た瞬間、教室中から笑い声が上がった。

「そのブローチ似合わなすぎー!」

「うけるんだけど!」

「うるさい。お前たちのものと同じなんだからな」

 飛び交う野次に顔をしかめ、上川原は右手でブローチをいじりながら言い返した。樹も席につく。俺も似合ってないんだろうな、なんて思いつつ、徐々に沈黙へと収束してゆく教室内の喧騒に、ゆっくりと耳を傾けた。

 皆の口が閉じてしまえば、残るのは窓の外を穏やかに渡ってゆく春風と、桜の木々の笑い声だけ。

 そこに上川原の言葉が加わった。

「お前たち、よく頑張ってくれた。ぎりぎりではあったが、閉校式の装飾も無事に完了だ」

 褒められても浮かれるでもなく、喜ぶでもなく、生徒たちは上川原の言葉に聞き入っている。

「式次第を確認してくれ。このあと九時から、まずは卒業式を行う。次いで十時半頃から、閉校記念式典に移る。練習してきてもらった卒業歌『桜庭(さくらば)』の演奏は、校旗返納の前に行う予定だ。他のクラスとの練習は昨日の一回きりしかできていないが、お前たちならばきっと昨日以上、最高の声と表情を作ってくれると、私は信じている」

 上川原の目は優しかった。

「……この一年、お前たちは色んなことを経験したと思う。私も経験させてもらった。その善し悪しや価値を振り返ることができるようになるには、もう少し冷静になれる時間が要るだろう。だから、今日の閉校式では、せめて楽しかった時のことでも思い出して、前向きな気持ちになって家へ帰ってほしい」

 樹の一件のことを言っているのかもしれない。樹は上川原をじっと見つめた。樹のことを見返そうとしない上川原の態度が、反省は後でいい、とでも言いたげに見えた。

 しんみりとした空気が、教室の天井から降りてこようとしている。さぁ、と上川原は手を叩いた。

「移動するぞ。安心しろ、退屈な時間が最小限になるように、来賓のスピーチ時間は各一分以内と校長が制限をかけてくださったからな」

「何それ、最高」

 誰かが口を滑らせた。湿り気を吹き飛ばして、教室はすぐに笑いに包まれる。樹もこらえられずに顔を崩してから、春待桜の姿を窺った。

 暖かな春風の腕に抱かれ、春待桜も笑っていた。




 午前九時。

 昭島市立邸中学校の閉校式が、いよいよ、始まる。










「今度は前より上手くやろうよ。……たとえ居場所(がっこう)がバラバラになっちゃっても、あたしたち、同じ町で暮らしていくことには変わりないんだから」


▶▶▶次回 『四十二 寂しがり屋の矜持』

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