三十九 望み
叫んだのは樹ではなかった。上川原が中途半端な姿勢のまま、その場で動きを止めた。
すぐ前の席の林が、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「待ってよ。みんな本当にそれでいいのかよ」
林の声の矛先が変わる。「卒業式じゃなくて閉校式なんだぞ。オレたちだって、立派な当事者なんだぞ。せっかく今まで色々と準備してきたんだろ!」
樹は声が出なかった。その話の中身よりも、林の振り搾ったであろう勇気の重たさに。
だが、声が出ないのは樹だけのようだった。途端に教室のあちらこちらから異論が噴出したのである。
「そんなこと言われたって無理なものは無理だしっ……!」
「そうだよ! 中神が来られなくなってるってのに、そんな普段通りに振る舞うなんて薄情だろ!」
「うちらだけ気楽に準備を進めるなんて、そんなの、あの子に可哀想だって思わないわけ……⁉」
静寂に沈んでいた教室が嘘のようだ。上川原は立ち止まっている。飛び交う反論に怖じ気づく様子もなく、林は怒鳴り返した。
「悲しいのはみんな同じだよ! だけど、そこで立ち止まりっぱなしでいいのかよ。こんな暗い気持ちのまま邸中を『卒業』して、みんなそれでいいのか? オレはそんなの、ごめんだ……!」
「偉そうなこと言って、林だってこの二日間、何もしてなかっただろ!」
虚を衝かれたように林の勢いが止まった。揚力を失った視線が机の上へと墜落してゆくのを、樹はまともに目の当たりにした。
──『オレらだって別に、何かをしようって集まってるわけじゃないんだよ』
昨日の林の言葉が脳裡を過った。自分自身であのように語っていたのだから、林にも自覚はあったのに違いなかった。
(バカ。ブーメランだろ、そんなの)
樹は唇を固く閉じた。胸の奥が痛い。早くこの嵐が止んでほしいと、ただひたすらに願った。
ところが、林は思ってもみない言動に走った。
「……確かにオレだって、何もしてなかったよ。悪かったって思ってるよ」
肩が震えている。その震えを隠すように声を張り上げ、林は樹を指差したのだ。
「だけどオレは知ってる! このクラスで一人だけ、装飾作業を先に進めようとしてたやつがいたのを、みんなが知らなくたってオレは知ってるからな!」
樹は目を見開いた。
樹だけではない。教室中の全員がそうだった。注目が集まっている今こそとばかりに、林は一方的にまくし立てる。
「だいたいみんなだって知ってるはずだよな? 『宮沢が偉そうに柚ちゃんの仕事を肩替わりしてる』って、梢がみんなに話して回ってたもんな。昨日だってそうだよ。教室に来た理由を聞いたら何て答えたと思う? 『手伝えること、ないかって思って』──そう答えたんだよ宮沢は!」
「だから何だって言うわけ⁉」
梢が立ち上がった。林は間髪を入れず、言い返す。
「教室に来ても準備も進めないで、何となく駄弁りながらぼうっとしてたオレたちより、宮沢の方が何倍もマシだってことだよ!」
勢いでも正しさでも打ち負かされた梢は、凄まじい目付きで樹を睨んだ。血走り、涙ぐんだその表情に、残りのクラスメート全員分の感情が載っているようにさえ思えて。
(もう、やめろ)
樹は梢も林も、見られなくなった。
林は言い過ぎだ。樹はそんなに褒められた人間ではない。昨日だって、あっさりと敵視の前に白旗を掲げ、準備に何の手も付けないまま逃げ出したではないか。いつだって自分の正義を盾にして、向き合うのを拒み続けてきた。
目を固く瞑る。瞑りながら胸の奥で叫んだ。
(もうたくさんだ。そんなに嫌なら俺が出て行けばいいだろ。それで円満に解決するんなら、それで閉校式をちゃんと迎えられるんなら……)
もはや誰の顔も視界に入れたくなかった。何の見通しもなかったが、樹はうつむいたまま黙って席を立った。
止める声はない。カバンを机の脇に放置したまま、一歩、二歩と教室のドアへ近付いたところで、樹は少しばかり面を上げた。目指す扉が遠く見え、軽い絶望を覚えた矢先。
「宮沢」
それまで黙りこくっていた上川原が、不意に言葉をかけてきた。
「……この場所なら、貸すぞ」
樹は上川原を見た。教卓の前のことを示しているらしい。それの意味するところに気付いて、樹はますます足早に教室を立ち去りたくなった。みんなに言いたいことがあるなら、この場所をスピーチの舞台として使っていいと上川原は伝えたいのだ。
足がすくんだ。冗談ではない、それでは公開処刑も同然である。が、上川原が余計なことを言ったせいでまたも樹に視線が集まってしまった。正面切って無視するという選択肢さえ奪われた。
そんなに晒し者にしたいのかよ──。自棄を起こしそうになった樹の心を、そっとなだめて落ち着かせたのは。
──『……いつまでこんなこと続けてればいいんだよ、オレら……』
昨日の林の刻んだ、その台詞であった。
結局、なすがままに、教卓の前に樹は立ってしまった。
立ったはいいものの、何から話せばいいものだろう。何を求められているのだろう。
まずは、疑いを晴らしておくべきなのだろうか。破壊工作をしようとしていたわけじゃないと。
「俺」
口を開いて、言った。乾ききった風が吹き込んで、口腔の中がからりと痛くなる。
林が、梢が、立った姿勢のままこちらを向いていた。上川原は教室の隅に引っ込んでいた。二十九人分の視線を集中砲火のように浴びる感覚を、樹は久々に味わっていた。
「そんな大したこと、しようとしてたわけじゃないです」
息を呑む音が、重たく響く。樹はうなだれた。
「築地の言うような崇高なことなんかやってない。……ただ、隣の席で中神がずっと作業していたのを見てたから、俺が中神のやりかけの仕事を終わらせてあげるべきかなって思って。それだけなんです。このクラスのペースを乱そうとか、勝手に物事を先に進めようとか、そんなの……考えたこともなかった」
懸命に顔を上げて、きっと自分に疑いの眼差しを向けているはずの人を見る。梢はいつの間にか席に座り、じっと机の模様を数えるように目を落としていた。
少し、安堵した。
「このクラスの人たちからどう思われてるのか、俺だって、知ってる。俺なりに知っているつもりです」
樹は手元に視線を引き寄せた。
「でも中神がいなくなって以来、俺にも色々と考える機会があって。その時、思ったんです。俺が今まで自分のこだわりのために、どれだけクラスの人たちの楽しみを奪ってきたんだろう……って。この期に及んで取り返すことなんてできないけど、せめてこれから先の楽しみは奪いたくない。そう、思って」
「黙って勝手に作業を進めようとしたのかよ」
視界の外側から冷たい声が飛んできて、樹に深々と突き刺さった。
樹は耐えた。これでも思っていたより軽い痛みだった。
「何も相談しなかったのは、いけなかったと思ってます。責められても仕方ないと思う」
深呼吸を挟む。
「許してもらおうとか、受け入れてもらおうとか、そんな図々しいことは望まないし、俺には望む資格もないし……。ただ、みんなの頑張りの邪魔にはなりたくなくて、気分を悪くする存在でいたくなくて。だからみんなが何かをしようとするなら、せめて俺も手伝えることは手伝って、閉校式を迎える気持ちを少しでも明るくできたらって……そう、思っただけなんです」
今ごろ上川原はどんな顔付きでいるだろう。手元を睨むばかりの樹には、その表情は想像で補うことしか叶わない。腹を立てているか、呆れているか、それとも無表情のままか──。
分かんないな、と思った。
上川原だけではない。表情や感情が上手く想像できないのは、クラスメートたちに関しても同じだ。分かっていたらこんな苦痛も味わわなくて済んだのだ。
「……そんな気持ちでした」
結局、それより先まで話を繋げることができず、樹は締めの言葉を口にしてしまった。
「迷惑、かけました」
話すことがなくなってしまうと、残るのは底の知れぬ畏ればかり。恐々と目線を戻してみる。教室中の目線が樹から外れていた。失望するやら、ほっとするやらで、樹もうつむこうとした。首が痛くてできなかった。
目を合わせていないということは、メッセージの受け取りを拒否されているということ。
樹のような人間が何を言ったところで、やっぱり伝わらないものは伝わらない。
分かりきってたけど、さ──。苦笑いを噛み砕いて消し去って、樹がその場を離れようとした時。
それまで机の木目に視線を落としていた梢が、言った。
「逃げないでよ」
樹はどきりとした。心を読まれたと思った。
「さっきから聞いてれば、自分の話ばっかり……。一度くらい、ちゃんと謝ってみたらいいじゃん」
梢は机の下で両手を組みながら、歪んだ顔で樹を見つめていた。樹を見ているのは梢だけだった。
吐き捨てられたように乾いていたその声色は、少しずつ、少しずつ、湿ってゆく。
「言っとくけどさ、あたしまだ一度も謝られてないよ。宮沢に叩かれた時のこと、謝られてない。勝手な振る舞いで体育のチームを乱したことだって、謝られてない」
「それは──」
「あの時、素直に謝ってくれてたら、あたしだってこんな気持ちになってない!」
梢の叫ぶ声が、樹を力強く揺さぶった。
「あと一年でみんな離ればなれになっちゃうって、去年の四月の時点で分かってたじゃん! だからあたし、嫌だったんだよ! 仲間外れとか仲違いとか、そんなのやりたくなかった……! この一年くらい、みんな仲良く後腐れなく、楽しい生活を送りたかったよっ……! だけど、だから……みんな……っ」
そこまでしか言葉にならなかった。ぼたぼたと涙をこぼしながら、梢は両手で顔を覆った。
漏れる嗚咽は責め苦となって、教卓の前に立つ樹の元へと否応なしに届けられる。周囲の子が引き摺られるように泣き出した。そうでなければ唇を噛んでいた。
梢の気持ちを、初めて知った。本当に必要だったのが何かを樹は今更になって思い知った。
今ならまだ、間に合うのか。謝罪の言葉を口にしようとした樹だったが、目の前の光景に心が圧倒されたままでは、言葉が思うように唇の外へ出て行ってくれない。
声だけでは駄目だと思った。凝り固まって動かない首と腰を、必死に叱咤した。頼むから、曲がれ。いつもテニスのために柔軟してただろ。こんな時くらい、思い通りに動けよっ──。
がくんと視界が下に折れ、クラスメートの顔が見えなくなる。
樹は深く深く、頭を下げた。
「ごめん。本当に……ごめん」
下を向いていても色んな声が聞こえてくる。顔が見えずに声だけが届く、ここはまるで地獄のような空間だ。次に誰かが何かを口にするまで顔を上げまいと、樹は折れ曲がりそうになる心を根性で保ち続けた。
そして、その時は思いのほか早く、やって来た。
「俺に前を向かせてくれた、柚のためにも」
▶▶▶次回 『四十 見えたミライへ』




