三十六 自業自得
次の日は、雨だった。
空気が冷たい。傘に身を埋め、水溜まりを蹴散らしながら樹は学校へ向かった。
こんな天気が続いて気温も低いままになったら、果たして予報通りに桜の開花は始まってくれるのだろうか。
不安を払いたくて空に目をやれば、鼻の頭に雫が当たる。なので樹はずっとうつむいていた。校門をくぐっても、校舎に入っても。
荒れ模様の天気にも拘わらず、教室にはかなりの人数が集まっていた。それまで交わされていた全ての会話が、樹が教室のドアを開いた途端に停止してしまった。
突き刺さる静寂と無言の視線の中を、樹は足元ばかりを睨みながら歩き抜ける。
(昨日の福島といい、今日といい……なんでそんなに学校に来たがるんだよ)
顔を隠して嘆息した。天気の良かった土曜日ならばいざ知らず、日曜日は大丈夫だろうと思っていたのに。
席にカバンを置くと、雨にも負けず劣らず冷たい梢の声が、ぽんと机上に放り出された。
「宮沢。あの文字、どこやったの」
「……体育館だよ」
樹は答えた。答えられる話題でよかった。それでも躊躇いがちになってしまったけれど。
飾り付けるのは教室ではない。どうせいつか誰かが運ぶのだからと、昨日のうちに使いそうなものは体育館へ移動させておいたのだ。画用紙の花びらに関しては何かしらのコメントを書き込むものと思って、教室に残してある。
ふーん、と梢は鼻を鳴らした。
「じゃあ今日は何しに来たわけ?」
今度ばかりは樹も尋ね返した。「……福島は何しに来たんだよ」
「話してやる義理なんて、あたしたちにはないから」
いちいち気に障る言い方をする。わざとそうしているのは分かっていても、不愉快で仕方なかった。沈黙を保つ教室の雰囲気のすべてが、寄って集って樹に牙を剥こうとする。
けれど、それもこれも全部、樹の積み重ねた過去の業のせい。
「……だよな」
樹はつぶやいた。小さく頷いてみたら、募りそうになっていた怒りも呆気なく霧散していった。
樹だって、何の用もなしにわざわざ学校へ来たりなどしない。
本当は今日、体育館の装飾作業を始めてしまおうと企図していたところだった。
柚が血を吐いて倒れたことで停滞していた作業を、せめて自分だけでも再開すれば、あとは自然に皆が気持ちを整理して閉校式へ意識を振り向けられるようになるかもしれない──。そんな風に、考えていたのだ。
けれど梢が、林が、今まで対立してきたクラスメートたちの面々が、さっきから教室に入ってきてからの樹の言動をじっと観察している。監視しているとでも言い換えた方が相応しいだろうか。
(やっぱ、無理だ)
自分の膝へ視線を落として、樹は思った。
(カバンを置いたら体育館に行って、ペーパーフラワーでも飾り付け始めようかと思ってたけど……。こんな空気の中で、体育館なんか行けるもんか)
考えてみれば無謀だったのかもしれない。樹などが勝手に作業を再開したところで、樹を信用していないクラスメートたちが同調する理屈などありはしないのだ。むしろ、嫌がられるだろう。『余計なことをするな』と怒り出す可能性すらある。
そして今、梢などはその寸前でどうにか立ち止まっているはずだ。
(柚のやり残した仕事って、装飾の準備に関しては『桜』の文字だけだったしな)
樹は自嘲気味に笑った。笑っているのを悟られないように、口元に手を宛がった。またも涙が浮かびそうになって、宛がった拳を強く握り締めた。
それが済むと、開いた手のひらでカバンの持ち手を握った。臨界を突き抜けたサインだった。
「……帰るよ」
誰に向けたつもりもなかったが、ともかく挨拶の言葉を机に置いて樹は席を立った。来た時と同じ姿のまま、衆人環視の地獄の中を足早に通り過ぎた。
自惚れるなよ、俺──。歩を早めながらうなだれた。樹はただ、柚の『やり残したこと』だけをこなせばいい。それ以外のことに関わってはいけないのだ。この期に及んで、そのことに改めて気付かされた。
それに今の樹には、敵意の真っ只中で普段通りに振る舞える自信も、勇気もなかった。
廊下に出てしばらく歩いたところで、背後で靴音が聞こえ始めた。落ちた肩を誰かが叩いて、樹は面を上げた。
「宮沢」
林だった。
反射的に樹は速度を上げていた。逃げるように腕を振りながら、ごめん、と口の中で告げた。
「待てよ」
それでも林は追いかけてくる。早歩きで隣に並ぶと、樹の顔を覗き込んできた。
「本当は理由、あるんだよな。こんな雨の中をわざわざ学校まで来た理由……」
「手伝えること、ないかって思って」
樹は蚊の鳴くような声で答えた。「俺がいたら邪魔だろ。出てくよ、俺」
およそ樹らしからぬ弱気な態度に、林もさすがに違和感を抱いたようだった。待てよと繰り返しながら、林は樹の前に腕を差し出そうとする。樹も、避ける。
「待てって。オレらだって別に、何かをしようって集まってるわけじゃないんだよ」
「…………」
「てか、装飾そろそろ始めなきゃいけないって危機感はオレらも同じだし……。クラスとして取り組まなきゃならないんだから、宮沢だって参加できるだろ」
「…………」
「だから待てってば!」
ついに大声を上げた林が、樹の前に回り込んできた。
樹は立ち止まった。林の顔を見て、梢たちの顔を思い浮かべて、首を横へ振った。
「仲直りしてほしいだなんて言い出す権利、俺には……ねえよ」
林が固まった。その大柄な身体の脇を、樹は床だけを見つめながら幽霊のようにすり抜けて通過した。自分が恥ずかしくて、情けなくて、今はとにかく学校から出たかった。
雨はまだ降っているだろうか。なるべく制服は濡らしたくないと思った。そのままの足で中神家に向かって、梅に話を聞きにいくつもりだ。柚と同じ学校の制服を来ていけば、怪しまれる可能性も多少は減らせるだろう。学校でやれることが何一つないとしても、樹のやるべきことがなくなるわけでは、ない。
下へ降りる階段に足をかけたところで、だいぶ遠くになってしまった林の独り言が、背中を打った。
「……いつまでこんなこと続けてればいいんだよ、オレら……」
思わず立ち止まりかけた足を、樹は強引に前へと放り出した。
◆
初めて目にする柚の祖母──中神梅は、気のせいか皺も多く、窶れているようだった。足の動きもぎこちない。転倒して痛めたのは本当のようであった。
「宮沢樹って言うんですが……」
そう自己紹介した途端、梅の態度は軟化した。あなたのことは柚ちゃんから聞いているよ、邸中の校長先生のお孫さんなんですってね──。いきなり言い当てられた樹が、嬉しいやら嬉しくないやらで複雑な気持ちになったのは言うまでもない。
傘を手に玄関先に立ち尽くす樹を、梅は快く家の中へと招き入れてくれた。
「昨日、退院したばかりでね。柚ちゃんと同じ病院に入院していたのだけど、あの子の病室へ通えたのは、とうとう一度きりだけでねぇ……」
樹がこたつに座ると、その前に湯飲みを置きながら梅はため息をついた。重たい息がこたつの天板で波打つのを、樹はじかに見てしまった。
「足、今もお悪いんですか」
たまらなくなって尋ねると、梅は笑顔を作ってみせた。「まだ痛むし、思うようには動かせないわ。だけど自業自得だねぇ。無茶をしたわたしが、悪かったからね」
自業自得という言葉の響きは、今の樹には格別、堪える。
「あの子が喘息だと言われていたのは聞いてるかしら。実際は肺がんで、わたしたちは誰一人として気付いてあげられなかったのだけど……」
「聞いてました。それで、少しでも空気のいい場所で静養することになって、昭島のお祖母さんを頼ってきたって」
「二つ返事で了承した時は、嬉しくて仕方なかったわ」
目を細めた梅の口元から、ゆっくりと作られた笑みが流れ出していく。「息子が独立して、お祖父さんも亡くなって、独りで暮らすようになって何年経つかしら……。同居の相手ができる、それもかわいい孫ともなれば、喜ばない理由なんてなかったわ。……でも、こんなことになってしまうくらいなら、初めから引き受けなければ良かったのかねぇ」
樹には、その嬉しさはいまいち掴みきることができない。それも折り込み済なのか、梅はそっと湯飲みに口をつけてから、傍らの写真立てを取り上げた。
そこに入れられていたのは、まだあどけない面影の少女と、満面の笑みをたたえ少女を抱き上げる梅のツーショット。
(柚だ)
身を乗り出しそうになって、慌てて樹は自制した。そういうことをするために来たのではない。……それに、今はどんなに想いを募らせても、肝心の柚には届いてくれないのだ。
「柚ちゃんが来てからしばらくして、あの子が誰にも言えない悩みを抱えていたことを知る機会があったの。その時、わたし決めたはずだったのよ。預かる以上は何があっても、柚ちゃんのことを守らなくっちゃ、助けてあげなくちゃ……って」
梅の声が湿り気を帯びていた。写真の中の柚に小指を這わせ、梅は哀しそうに眉を落とした。
「それなのに……。柚ちゃんに色んな負担をかけてしまって、心配もさせてしまって。その挙げ句、柚ちゃん自身の危機を救ってあげることもできなくて……。わたしはいったい息子夫婦に、何と言って詫びればいいんだろうねぇ……」
嘆くばかりの梅を前に、樹はただ、黙っている他なかった。
梅が安易な同情を求めているわけではないのは分かっていた。それに、一歩を過てば永遠に後悔の海に沈んでしまう、その手前の場所に立っているのは樹だって同じだ。ゆらゆらと虚しい温もりを吐く湯飲みを見つめながら、梅が落ち着くまでの時をやり過ごした。
一分も経った頃、そうそれで、と梅が言った。
「樹くんと言ったかしら……。確か、わたしに聞きたいことがあって来たんだったねぇ」
「はい」
樹は頷いた。何の目的で訪問したのか、すでに梅には玄関先で説明を済ませてある。
梅の表情が、ほんの端だけ和らいだ。
「こんな婆ちゃんでも役に立てるならいいのだけど……。何でも、聞いておくれ」
むしろ梅でなければ役には立たない。樹は少し、身体を起こした。
「うちの祖父をご存知ですよね。宮沢柾って言うんです」
「ええ、もちろん」
答えた梅の瞳が、やや、遠くなる。遠い日のことを思い返しているのだろうか。樹は畳み掛けた。
「ひょっとして、うちの祖父と梅さん、恋仲だったんではないですか」
梅は驚いたように口を開けた。「どうして知っているの」
「祖父の日記に書いてあったんです。あの日──春待桜が開花した終戦前の春の日、桜の木の下で梅さんに告白して、受け入れられたって」
そう、と梅はつぶやく。遥か彼方に遠ざかっていた瞳の焦点が、段々と樹の目の前へ戻ってくる。
コピーした日記の一ページを、樹は梅の前へと突き出した。四月二十九日と三十日の分だ。
「でも、祖父は今、梅さんが死んだものと思っています。四月二十九日の未明の空襲で、家族もろとも吹き飛ばされて安否不明、死んだと見なされたと、当時の日記には書いてありました」
梅にとっても悲惨な出来事であったのは承知している。それでも樹は、訊かねばならない。
「教えてはくれませんか。この日の田中家で、本当は何が起きていたのか。どうして祖父はあなたの生存を知らないのか……」
梅の目をしかと見据えて言い切ると、梅は一瞬、惚けたように空を見た。
だが、幾ばくもしないうちに、樹に目を戻した。
「……そうだねぇ」
その手が日記に伸びる。薄い紙に写し取られた日記の文字を視線の端で追いながら、梅は何度も、何度も、頷いていた。そして読み終えるや、じっと待っていた樹のことをもう一度、見た。
「このまま墓場に持っていくよりも、話してしまった方が役に立つかもしれないね。長くなるけれど、大丈夫?」
「大丈夫です」
樹は即答した。きちんとメモを取れるように、ルーズリーフとペンも出しておいた。
梅の目蓋が、沈むように閉じられる。代わりにそこへ、七十年前の真実が浮かび上がって来ようとしている。それを逃すわけにはいかないのだ。
「柚、ごめん……。役に立たない俺で、ごめん」
▶▶▶次回 『三十七 止まない雨』




