三十二 波紋
警察による現場検証、搬送先の救急病院での医師の診察により、柚の身に何が起きたのかはその日のうちに判明した。
「気管支喘息──そう診断されていたそうですね」
新畑柑と名乗った呼吸器内科の医師の静かな問い掛けに、母が鼻を啜りながら首肯した。
柚の眠る集中治療室には、緊急対処に当たった医師や看護師に加え、実家の月島から駆け付けてきた柚の両親、同じ病院内で怪我の治療を受けていた祖母・梅、それに担任の上川原が呼び出された。
規則正しい心電図の同期音が、部屋の底に点々と落ちる雫のように響いている。新畑医師の重ねた問いが、そこに再び大きな波紋を広げた。
「セカンドオピニオンは受けましたか」
「いいえ……。喘息は以前から患っていたので、今回も……喘息だとばっかり……」
「ぜひとも大きな医療機関で、適切な検査を受けていただきたかった。中神柚さんの容態を見る限り、これはまず間違いなく、喘息ではありません」
医師の声が、大きくなった。「重度の肺がんです」
巨大な鐘が打ち鳴らされたかのような震動が、部屋の中に乱反射して散ってゆく。
医師は説明した。肺がんと気管支喘息は自覚症状が酷似していて、時には医師でも正確な判定をするのが難しい時があるのだという。どちらも胸に痛みを感じ、時おり呼吸困難を伴い、そして血を吐く。決定的に違うのは、その血が気管支喘息の場合は血痰、肺がんの場合は喀血──泡沫混じりの明るい色の血だということ。
咄嗟に上川原が思い起こしたのは、いつか柚が樹と喧嘩になった際に吐き出していた血のことであった。
(そうだ。……あのあと、養護の先生に見せることもなく血を拭き取ってしまったんだった)
その正確な色を、今となっては思い出すことはできない。せめて確認してもらっていただけでも、少しは結果が変わったのだろうか。
人工呼吸器のマスクを装着し、蝋人形のような顔でベッドに横たわる柚。啜り泣く母親。視界に入るたび、やりきれなくてたまらなくなって、上川原は顔を上げることができなかった。
医師の説明はまだ、続いていた。
「柚さんの現在の容態としては、呼吸は確認できるものの意識を完全に喪失した状況。大量の喀血により一度に失血し、急激な血圧低下のために出血性ショックに陥ったものと思われます。呼吸に関しても喉に多量の血液が詰まっており、一歩間違えば窒息死しているところでした。発見した子により気道確保が適切に行われたこともあって、今は比較的、安定している様子です」
「……あの」
ぐったりとした様子の父親が、ぽつりと口を挟んだ。「娘はこれから、どうなるのでしょうか」
取るものも取り敢えず、職場から飛んできたのだろう。憔悴し切った姿の父親にも、医師のかけた言葉は無情だった。
「肺がんの悪化・これ以上の転移を防ぐため、しばらく入院治療をしていただかなくてはなりません。場合によってはですが──意識が戻らなくなる可能性についても、考えていただかなければならないでしょう」
仄暗い廊下に出ると、長椅子に腰掛けてじっと動かない人影があった。
上川原はそっと近付いて、声をかけた。
「宮沢」
樹は顔を上げた。無表情の瞳が上川原をもろに捉え、思わず上川原は隣に視線を落としてしまった。──そこにいたはずの梢の姿が、見当たらない。
「福島なら先に帰りました。『ごめん、無理』って言い残して」
上川原を見もしないまま、樹が教えてくれる。そうか、と上川原は返した。
それから、そうだろうな、と唇を噛んだ。クラスメートの無惨な姿を直に目にしてしまったのである。ましてや、それが仲のいい子だったならば無理もない。
「宮沢も今日はテニス部の打ち上げがあったんだろう。行かなくてよかったのか」
間髪を入れずに樹は答えた。「テニス部なんか、柚の容態に比べたらどうでもいいんで」
そうか、と上川原はつぶやいた。余計な口出しはすべきではないと考えた。
「……一命は取り留めたそうだ。意識に関しては、何とも言えないらしい」
樹の隣に腰掛けた。ずっと担任をしてきたのに、こうして同じ高さに目線を合わせることは今まで一度もなかったことを、固く閉じられた金属色の扉を見上げて思う。
樹は、何も言わない。
「お前たちには、感謝しないといけないと思っていてな」
上川原は樹の横顔を見つめた。「意識不明の重体とはいえ、中神は何とか生き永らえた。宮沢と福島が様子を見に行っていなければ、それすらも叶わなかったかもしれん……。宮沢が気道確保を済ませていたことに関しては、医師の先生も特に誉めてらっしゃった。こんなことを言っては無責任に感じるかもしれないが、ありがとうと言わせてくれ」
「いいですよ、そんなの」
樹は表情を少しも動かさずに吐き捨てる。
その瞳に、不意に青白い照明の光が鋭く刺さったように見えた時には、樹は上川原を遠ざけるように勢いよく立ち上がっていた。
「宮沢」
「俺も、帰ります。柚……中神のご両親には、よろしく言っておいてください」
上川原の手元に、樹のことを引き留められる言葉はなかった。
点々と明かりの灯る廊下の向こうへ、カバンを手に樹は消えていった。
◆
柚の倒れた日を境にするように、それまで当たり前に成り立っていたはずの世界が次々に崩壊を始めた。
次の日の朝のホームルームの時間、教壇に立った上川原が柚の容態を説明したが、もはやクラスメートたちが混乱に陥ることはなかった。柚の救急搬送後に学校に戻ってきた梢が、樹たちとともに改めて病院に呼ばれるまでの間、見たままのことを話して聞かせていたからだ。
「『桜庭』のセリフ部分のことだが、中神の部分は福島が引き受けてくれるそうだ。……それでいいんだな、福島」
上川原の言葉に、梢は黙ってうなだれるように頷いた。
鼻を啜り上げる声が、あちらこちらから断続的に聞こえてきていた。隣のB組の喧騒が遠くて、まるでこの教室だけが世界の平面から浮かび上がっているようで。
梢の失意のほどを推し量ることはできそうもなかった。樹はずっと目を背けたまま、校庭の桜の木を見つめていた。滲んで見えた春待桜の立ち姿に、いつもの威厳は少しも感じられなかった。
閉校式の準備は着々と進んでいる。使うものが揃ったのか、会場となる体育館の装飾は徐々に始まっていると聞いた。樹たちのクラスは何も進んでいなかった。『桜』だけの欠けた段ボール文字、切り取られたまま何も書き込まれていない画用紙の花びら、ばらばらの状態で段ボール箱の中に放置されたペーパーフラワー──。すべてが教室の片隅に放置されたままになっていた。
そしてそれは、学年全体での練習の始まった『桜庭』の合唱に関しても同じだった。A組のメンバーだけが声に張りがない、元気がないと、上川原以外の教師たちは心なしか不満げだった。間奏のセリフ読みを代わった梢に至っては練習中に何度も声を詰まらせ、まとまりを欠く大きな要因になってしまっていた。
だからと言って、A組の面々に文句を言う者はいなかった。柚が病に倒れ、意識不明の重体で緊急入院中であるという事情は、職員会議の場で教師全員に共有され、おまけに噂話として学年全体の生徒たちにも広がっていた。
あんなにも和気あいあいとしていた教室から、笑顔が消えた。賑やかな会話が消えた。たった一人の身に起こった悲劇が、何もかもを一瞬のうちに根こそぎ塗り替えてしまった。
その変化を、樹も敏感に感じ取っていた。
やる気が、まるで起こってこようとしない。
ペンを握りつつ、静寂に覆われた教室内を見渡して、樹はじっと目を閉じた。全身に走る痺れを感じながら、今日もだ、と思った。柚が登校しなくなってから、すでに三日が経とうとしている。
金曜日の六時間目は、上川原の古文の授業だ。少し前までは、内容が進むたびに質問の手があちらこちらから挙がっては、先の単元へ行きたい樹のやる気を激しく削いでいた授業だった。それが今は打って代わって、誰からも手は上がらず、雑談の声も聞こえず、上川原の解説の声が単調に響くばかり。古文や歴史に限った話ではない、この三日間の授業はどれも等しく静寂のままに進んだ。
どこからも邪魔を入れられずに、新たな知と向き合える。本当だったら喜ぶべきなのだ。ずっと願っていた理想的な学習環境が、意図せずして手に入っているのだから。
(古文なんて尚更なんだよな。他の科目にもまして、柚から話し掛けられる機会、多かったし)
電子辞書と黒板を交互に睨んでは、ノートに視線を落として黙々とペンを動かす。空のように透き通った頭の中へと、新しく取り込んだ知識が沈んで、溶けて、見知ったセカイがまた少し拡張する。そんな感覚が樹は好きだった。柚の告白を受け入れはしたけれど、『苦手科目だから』『分からないから』と言ってはセカイの拡張を妨害しようとするところまで、まるごと受け入れられたわけではなかった。
なのに、柚からの質問や口出しがなくなってしまった途端、無性に切なく、物足りなく感じてしまうのは、どうして。
(…………)
樹は唇を前歯で挟んで、力を込めた。
無理矢理にでも授業の内容に意識を戻したかった。うっかり柚のことを考え始めてしまえば、血染めの柚が倒れていたあの日のことを思い出しそうになると、知っていたから。
朝、起きる。普段通りに朝食を摂り、登校し、授業を受け、下校して机に向かう。今までと生活リズムが変わったわけではないけれど、なんだか重石を引きずるように身体が重たくて、目線が自然と足元に落ちて、何をやっても前向きな感情にはなれなかった。
空っぽの心のままで過ごす無為な一日が、今日もまた半分以上、風に吹かれた花びらのようにどこかへ飛び去っていく。
「本当は寂しかったんだ。お前に話し掛けられるようになって、俺、ちょっと嬉しかったんだ……って」
▶▶▶次回 『三十三 ユーレイの嘆き』




