三十 教室の片隅から
東京都昭島市の西部、松原町に大きな屋敷を構える、地域一番の名家・宮沢家。
十四年前、その宮沢家の長男として、樹はこの世に生を受けた。
柚と同じで兄弟はなし。共に暮らす家族は、父方の祖父である柾、父、母、それから家政婦として雇われている三十代の女性・朝日朱。それ以外にも親戚が色々といるのだろうが、少なくとも樹は彼らの名前を誰一人として知らない。親戚同士の集まる場からは、いつも顔を出さずに逃げてきたから。
樹は家族が嫌いだった。
親戚も知り合いも、周囲に集ってくる人々のすべてが、嫌いだった。
その昔、宮沢家は松原町一帯の土地を持つ大地主だったのだという。明治期に寄付された邸中学校の敷地のみならず、樹が出産された大病院も、この地域の住民御用達のスーパーマーケットも、もとを正せば宮沢家の土地だったそうだ。
ところが今、宮沢家が有しているのは、この無駄に広大な屋敷だけ。
多くの土地が両親によって売り払われてしまったのである。地主の息子として生まれた父も、そこに嫁いできた母も、とんでもない浪費家だった。詳しい経緯を樹が聞かされたことはないが、ろくに定職にも就かないまま遊ぶ金を求めて、二人は次々に土地を手放していたのだ。
今でも豪遊の癖は抜けていないと見え、深夜まで家に帰ってこないこともしばしばある。当然、その間の家事はすべて家政婦の朝日に一任されている。かつては樹の子育てのためにベビーシッターも呼ばれていた。大切な財産を売却してまでも遊び呆けるような両親に、息子を丁寧に育てるなどという真っ当な観念が備わっているはずはなかった。
両親に教育を受けた記憶は、樹には少しもない。泥酔して千鳥足で廊下を歩く姿はさんざん見てきたけれど、真面目な顔で物事を考えたり、優しい顔で誉めてくれる姿は見たことがない。小学校で『お父さんお母さんのどんなところを尊敬しますか』という作文を書かされた時は困惑した。何一つとして思い浮かばなかった。
そして、そんな父や母を諫めてくれるべき立場にいるはずの祖父──柾は、どれだけ彼らが金を使い込み、財産に手を付けたとしても、決して叱ったりしなかった。諦めたようにため息をついては、その背中を無言で眺めているばかりだった。
大事にされた記憶のない両親を、好けるわけがなかった。やがて年を取るにつれて、樹は父や母に激しい反感を抱くようになっていく。
(こんな大人にはなりたくない)
玄関先で朝日の介抱を受けながら嘔吐する父や、派手に着飾っては僅かなほこりも毛嫌いする母を見つめるたび、憤りにも似た決意が胸の奥で浮き彫りになった。
(こんな遊び人になるなんて絶対にいやだ。勉強して、いい学校に入って、少しでもきちんとした仕事に就かなきゃ。他人の手本になれるような、真面目な人生を歩まなきゃ)
その反感は祖父の柾に対しても同じだった。どうして野放しにするばっかりなんだ、父親なんじゃないのか──。年を追うごとに苛立ちが募って、柾のことも嫌いになった。いつ、どんな時も、距離を取りたくて仕方がなかった。進学先の中学で柾が校長を務めていることなど、樹にとって悪夢以外の何物でもなかった。中学受験をしたかったのもそれが理由である。呆気なく両親に却下され、道は閉ざされたが。
遊び人の両親とて、常に家を空けているわけではない。特に朝は同じ食卓を囲みがちで、そういう時に限って偉そうに親のような面を向けてきたりする。成績はどうなのか、勉強はしているのか。だが、幾ら話しかけられても、樹には必要最低限を越える範囲の会話をする気はなかった。尋ねられたことだけは簡潔に答えて、それ以外の与太話にはいっさい耳を貸さない。やがてそれが習慣になっていった。
遊んでばかりの両親を見て育ったせいか、遊ぶという行為にも段々と恐れに似た不快感を覚えるようになった。代わりに打ち込めるものといったら、勉強や運動くらいしかなかった。そのうち、学校の宿題だけでは飽き足らなくなって、予習復習や先取りにも取りかかるようになった。学力レベルで遥か上を行くようになった樹を、初めのうちこそ周囲の子たちも『天才』と呼んで囃し立てたけれど、無愛想で親しくなろうとしない樹の強情さに呆れたのか、徐々に興味を失っていった。
遊ぶことから意図的に遠ざかり続ければ、友達は自然と減っていくし、増えることもない。それでも樹はかたくなに遊びを拒んだ。両親のような大人にならないために、堅実な人生を掴むために、今の樹にとって最優先なものがあるとすれば、それは勉強に違いないのだ。勉強にしっかりと励みたかったら、遊びに費やす暇なんて存在しない──。今でもそう思っているし、事実、樹は着実に良い成績を叩き出し続けている。
樹だってまだ子どもだ。仲良さそうに話したり遊んでいる家族や友達を見かけるたび、胸の奥深くまで痛みが走ることはある。けれど、その痛みは羨ましさではなくて、自分にこんな境遇を与えた両親を呪う気持ちの顕れなのだと考えるようにしてきた。
そうだ。
悪いのはすべて、周囲なのだ。
自分は何も悪くない。勉強にしても運動にしても、人並み以上の努力を欠かしたことなんてない。たとえ他人との足並みが揃っていなかったとしても、それが自分なりに一生懸命に取り組んでいる結果なら、仕方ない。
(誰にも理解されなくたって構うもんか。……どうせ誰も分かってくれようとしないし、共感だってしてくれないんだから)
加速しかけた胸の痛みを無理やり押し込める文句は、いつも決まってそれだった。
それが強がりを通り越して、諦めの域に達してしまっていることに気付いた頃には、樹はとうの昔に、望んだ通りの孤独な日々に陥ってしまっていた。
◆
三月十三日、火曜日。閉校式までの残り日数は九日。
会場となる体育館には、すでに他のクラスの生徒たちが装飾品を続々と持ち込み始めている。卒業歌『桜庭』の合唱の練習も、音楽の時間を使って少しずつ進んでいる。
春待桜のつぼみたちの見つめる先で、邸中学校の最後の瞬間は刻一刻、迫りつつあった。
「みんなに練習してもらってる『桜庭』なんですけど、実はアレ、あたしたちが作詞を担当したんです!」
朝のホームルームの時間。教室の前に進み出た梢たち生徒会の面々の発表に、A組は騒然となった。
「あの歌詞が? えっ、すごーい!」
「生徒会のやつらセンスあるんじゃね?」
飛び交う称賛の声に、梢はにやける顔をいっこうに隠そうとしない。教室のいちばん奥の席からその様を眺めていた樹は、なんだか目をそらしたくなった。ふ、と息が漏れた。
(リズムといい歌詞の運びといい、確かに、いい歌詞だなって思ってたけど)
素直に認めたくない気持ちがどうしても沸き上がってしまうことへの、呆れのため息だったのだと思う。柚がこの場にいたなら、きっと口を尖らせて言ったに違いない。『すごいって思うなら伝えなきゃだよ』──だとか。
隣席の柚はまだ、登校してこない。柚が遅刻なんて珍しいなと、胸の奥に湧き出した違和感を玩びながら、樹は梢の話の続きに耳を傾けた。
卒業歌『桜庭』は、邸中の生徒会が作詞を、音楽教師の小荷田が作曲を担当して、今度の閉校式のためだけに用意した曲なのだという。
「二番サビと三番サビの間奏のところでは、生徒全体から十人を選抜してセリフを読んでもらうことになってるんです」
なぜか胸を張った梢は、樹の隣の席を一瞥して、ありゃ、と言わんばかりに眉を下げた。「柚ちゃんがまだ来てないや……」
「中神が選ばれたのか」
すぐさま横から上川原が尋ねた。そうなんです、と梢は頷いて、もとの明るい表情を呼び戻す。
「いつも授業でみんなの声を聴いてる小荷田先生に選んでもらったところ、このクラスからの選抜は柚ちゃんで決まりました! 拍手ー!」
おぉー、と、またもや歓声が上り、次いで拍手の音が狭い教室の中をいっぱいに満たした。樹も思わず声に出して喜びかけてしまった。半端に開いてしまった口を、気付かれないようにそっと閉じて、代わりにひっそりと苦笑いを浮かべてみた。喘息持ちを選んでしまっていいのだろうか。
(緊張だけで息切れしちゃいそうだぞ、柚)
梢の柚贔屓は今に始まったことではないので、そういうことなんだろうなと考えることにしておく。
「柚ちゃんいいなぁ。うちも選ばれてみたかったなー」
「梢も柚ちゃん大事にしすぎだと思うけどなー、わたし」
失意の表情を浮かべ、椅子に寄りかかってぼやいていた女子二人が、授業始めるぞと教壇前に進み出た先生の言葉で黙り込んだ。いそいそと戻ってきた梢が、柚の席をじっと見つめ、その隣に座る樹の存在など何もなかったかのように着席する。女子たちの愚痴は梢には聞こえていなかったようだ。
またも作りたくなった半笑いを、樹は奥歯で噛み砕いた。
素直な感情を届けようとしないのなんか、別に俺だけのことじゃないと思うけどな──。そう感じさせられたのも、今度が初めてなわけではなくて。
結局、四時間目の古文の授業を過ぎても、柚は登校してこなかった。
上川原によれば、休みや遅刻の連絡はいまだに届いていないという。そんなわけで昼休みの梢たちの話題は、もっぱら柚の動向についてであった。
「やっぱ今日、休みなのかな」
「でも事務室にも連絡なかったわけでしょ?」
「二時間目の音楽で『桜庭』の練習やるってのも知ってたはずだし、あの柚ちゃんに限ってサボったりするとは思えないけどな」
斜め前で繰り広げられる女子たちの会話を、樹は机に突いた頬杖の肘先に感じていた。机上に放り出したスマホに、通話アプリの会話ログがぽんぽんと浮かんでくる。今夜のテニス部の解散打ち上げの相談をしているらしい。もちろん会話に参加する気もなかったので、完全に無視。
柚のいない教室の後ろは、漂う空気感さえも普段とは違う色合いを帯びているように思える。少なくともこれだけは言えそうだった。樹に話しかけてこようとする人など、柚の来ない今日は誰もいない。
「柚ちゃん本当に来ないのかなぁ」
組んだ両腕に顔の下半分を埋めた梢が、寂しそうに眉を傾けた。「サプライズのつもりで用意したネタだったんだけどなー。柚ちゃんは確かに声量は小さいけど、まっすぐに澄んだ声が素敵だって小荷田先生も言ってたんだよね……」
「いっそメールで教えちゃったらいいんじゃん?」
「そんな味気ない手段は使いたくない!」
だよねー、と笑い声が膨らんで、梢もちょっぴり釣られたように笑っていた。
きれいに端の持ち上がった口角よりも、むしろ傾いたままの眉毛の方が梢の本心を示しているように、樹には思えてならなかった。
女子たちの人物評は的確だと思う。樹とは別の意味で、柚は真面目な少女だ。ずる休みをかますような人柄ではないし、そんなことをする理由もない。むしろ、『桜』の段ボール文字製作に追われていて寝過ごしたとか、そういう普通ではない出来事が起きていると考えた方が自然なような気さえする。
(だって、昨日まではあんなに元気そうな様子を見せてたんだし)
樹は窓の外を睨み付けた。
知っていたからだ。不愉快な思いも、不安な思いも、暢気に風を受け流している春待桜の姿を眺めていれば自然に雲散霧消してゆくことを。
そして、その姿を見た瞬間、柚と交わした言葉の節が次々に思い出されて。
(──待てよ)
「確かめるだけだから」
▶▶▶次回 『三十一 119』




