二十九 桜染め
「──うん。まだ分からないけど、明日には帰ってきてくれると思う。──大丈夫、かな。一応家事も一通りできるようにはなってるもん。──うん。発作ね、最近はあんまり起きてないんだ。調子も良さそう。──分かってる。何かあったらまた、連絡するよ」
受話器を置いて、ふぅ、と溜まっていた息を吹き流す。梅の入院を聞きつけ、心配して電話をかけてきた母と、久しぶりに話していたのだった。
柚は自分ひとりだけの居間を見渡した。すでに夕食も食べ終わってしまって、台所でせっせと働いている食器洗い機の音と、テレビから流れる音、それに時計の針が定時を刻む音が、広い居間の中に淡々と響いている。かつて柚の居候が始まるまでの間、梅も毎日のように、この光景に触れていたのだろうか。
孤独は怖い。孤独は、寂しい。けれど手元にスマホがあれば、居間に電話があれば、柚は孤独にはならないで済む。
(こんな時間に連絡したら、反応、してくれるかな)
柚はスマホを両手で握りしめた。確かめてみたい気持ちがないわけではない。けれど樹の迷惑になってまで確かめたくはないので、今は、やめておく。
そうだ、柚には樹がいる。
梢や林や、クラスの友達がいる。
柚のことを受け入れ、一緒にいてくれた人が、拝島にはたくさんいる。
この一ヶ月半、色々なことが起きた。校長と話したし、樹と対立したし、梅の昔話を聞いた。そして何より、春待桜の過去を知るために奔走した。拝島での生活はあくまでも仮、せいぜい中学三年生になるまでの間を平穏無事に過ごせればいい──そう考えていた一月の頃の柚には想像も及ばないであろう、かけがえのない日々の営みが、ここで生まれた。
満開の春待桜を背に、柚はまた新たな町へ行くことになるだろう。樹も、梢も、林も、別々の学校へ。閉校という運命は仲間や友達を簡単に引き裂いていく。でも、運命に抗って何かを得るというのは、きっと誰にでもできることなのだと、今の柚ならば信じられる。
(今も昔も身体が弱くて、ここに来るまでの私、本当に何もできなかったな)
段ボールを引き寄せながら、ふと、懐かしい記憶に指先を這わす。
(自分に自信なんて持てなかった。友達を作るのも、一緒に何かをするのも怖がってたし、始める前から諦めてた。私、弱かった)
段ボールには『桜』の文字が書かれている。忘れないうちに仕事を片付けておこうと思ったのだ。テレビを消して、袋から取り出した段ボールカッターの刃先を当てる。軽い感触を断続的に伴いながら、段ボールは少しずつ文字の形に切り抜かれていく。
(でも今は、堂々と言える気がするよ。こんな私でも春待桜に手が伸ばせるって。樹のことが、好きだって)
この町に立ち寄ってよかった──。確かにそう思えるだけのモノを、柚は胸いっぱいに抱えることができている。
手元でまたひとつ、『桜』の文字が出来上がった。これをあと十枚も作らねばならない。『女』の上の三つの点をどこかへ紛失しないように数字を振って、床にきれいに並べながら、
「……ありがとう」
柚は誰にともなく、つぶやいた。
車のヘッドライトが真後ろで煌めいて、柚は振り向いた。縁側のある南向きの大窓の雨戸が閉め忘れられている。どうやらさっきの車は、その窓から見える五鉄通りを通過して行ったものらしい。さすがに開けっ放しは不用心だよね──。カッターを手元に置いて、柚は雨戸を閉めようと大窓に向かった。
数発の咳の直後に喉が詰まったのは、その時だった。
「!」
柚は違和感に目を見開いた。発作だと、すぐに悟った。
最悪だ。よりによって、梅の不在のタイミングに。久々の感覚に戸惑った瞬間、詰まりが一気に喉を駆け上がってきた。吐き気が爆発して、柚は突き上げられるようにそれを吐き出した。続く激しい咳に、口元からさらに赤い飛沫が跳ねた。
カーペットに飛び散った大量の液体の色は──桜。
「け……血痰──」
喘いだとたん、再び喉にふたをされる。苦しい。苦しい。どうしようもなく苦しい。咳をして僅かな外気に触れることすら叶わない。
柚は必死に胸を叩いて詰まりを取ろうとした。刹那、左胸に激痛が走り、苦痛に耐えようとする意識の表層にぴしりとひびが入った。視界が少し、狭くなった。
本当に喘息の発作なのか、これは何か別の病気なのではないのか。初めての疑念が浮かび上がって、全身を寒気が駆け抜ける。ごぼっ、と口の中から泡が跳んで、脳裡を照らす予想は確信へと色を変えた。
──違う、これは血痰じゃない。痰に血が混じっただけの血痰に、こんなに気泡が混じることは有り得ないのだ。だとすれば、これはもっと、別の────。
「げほごほげほっ……! ご……ぼっ……!」
連発した咳が血を噴き、嘔吐し、床に散った滴が激しい音を立てた。
窓ガラスに鮮血が濡れて光る。鉄の臭いがひどい。凄惨な殺人現場然と化した床に、今にも意識まで落ちていきそうだ。視界が、朦朧としている。見える世界が狭く、小さく、薄暗くなる。
(嫌だ)
倒れそうになる。窓ガラスについた手がずるりと滑って、深紅の手形が不気味に歪んだ。柚は血まみれのカーペットに両手を押し付けて、どうにか姿勢を保った。ああ、貧血で倒れかかっている時の症状に、少し似ているような──。
(いやだ)
ともすれば力が抜け、そのまま空に吹き飛んでいってしまいそうな感覚に苛まれながら、血まみれの柚は一歩、一歩、スマホの置いてある場所へ戻ろうとする。咳をしても血が吐き出されるばかりで、いっこうに呼吸ができない。一歩、一歩、歩くたびに全身が激しい痛みに包まれる。
(いや、だ──)
「ごほ……っ!」
多量の血が口元を飛び出して、びしゃあ、と床を叩いた。
切り抜いた段ボールが眼下に落ちている。血の色に染まった『桜』の文字に目眩を覚え、既視感に脳幹を貫かれたのも一瞬。
力が、消えた。
柚はその場に崩れ落ちた。
血染めの腕の遥か先に、スマホが落ちている。あれに手が届けば、或いは……。
だが、柚の身体はもう、言うことを聞かない。
(お願い、届いて……。お願い……っ)
固く閉じた目から、涙が流れ落ちた。
その涙と共に、辛うじて最後まで残っていたわずかな意識の欠片さえも、敢えなく流れ落ちていった。
「た……つ…………っ」
夜の帳が、そっと降りてきている。
居間は沈黙した。
押し潰しているものの重たさに気付かないまま、ただ、ひたすらに沈黙していた。
閉校式まで一週間を切った、夜のことである。
『幕間 ──永享の松原── 上』に続きます。




