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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
参 アクセプト・プレイア
28/69

二十四 ぬくもり




 市域の東の端、陸上競技場や市民球場の立地する昭和公園は、青梅線を挟んで反対側にある国営昭和記念公園と並んで、昭島周辺有数のスポーツの聖地になっている。

 自転車を停めた柚が公園に入ると、ちょうど市営総合スポーツセンターで何かの大会が終わったところのようだった。球場では試合が行われている真っ最中らしく、園内は多くの人出で賑わっている。

 立ち並ぶ施設をうろうろと見回しながら、

(私はスポーツのことはさっぱり分からないけど、楽しそう)

 素直な心で、そう感じた。体力のない我が身を嘆きつつ、メールに指定のあった市営テニスコートを地図で探すと、それは一番奥まった場所にあるようだった。

【十時に昭和公園の硬式テニスコートに来てくれたら、見せたい物がある】

 今朝、樹からそんなメッセージが届いていた。文脈から言って、見せたい物というのはテニスの試合に違いない。もっと早くに気付いていれば間に合ったのに──。ともかく急いで着替えて準備をして、自転車を飛ばしたのだ。


 予想に反して、硬式テニスコートの見物客は驚くほど少なかった。せいぜい七、八人。コート内の方が遥かに人が多い。本当にここなのかと疑いたくなった瞬間、金網の向こうに樹が見えた。

「……試合、してる」

 柚は金網にしがみついて中を覗き込んだ。金網も扉も柵も、どれもこれもひどく錆び付いていて、入り口の方にあった施設とは見劣りがしてしまう。

 錆びだらけの風景に囲まれた樹の表情は真剣そのものだった。鋭く飛んで来た球を見据えるや、一歩下がって位置取りを整え、びゅん、とラケットを振り抜く。甲高い音が破裂した時には打ち返した球が残像を描きながらネットを飛び越して、相手の持つラケットの届かない場所で勢いよく跳ねていた。

 審判の指示で得点板の表示が更新される。四十(フォーティー)十五(フィフティーン)、樹のリードだ。チームメートらしき人が、セットポイントだぞと怒鳴っている。柚も真似して『頑張れ!』と叫ぼうとした。

 けれど、

(宮沢くん、気が散っちゃうかな……)

 爛々と瞳を燃やしながらラケットを握る樹を目にして、しゅんと気が小さくなってしまった。

 結局、柚が応援する必要もなく、たちまちスマッシュを決めて一セットを奪い、ほとんど全勝の力量差で相手を圧倒し続けた樹は、三-〇(スリーラブ)での勝利を決めてしまった。どうやらそれが三位決定戦だったらしく、間もなく隣のコートで決勝戦が終了して、解散が言い渡された。

 すごい、と言葉が漏れた。毎日毎日、部活でも壁打ちに励んでばかりだった樹の実力を初めて目の当たりにさせられて、柚はただ驚かされるばかりだった。




 テニスコートの隣に、『動物園』なる区画がある。ウサギやクジャク、それにシカくらいしか見当たらない無人の『動物園』の中を、柚と樹は並んで歩いた。

「お前くらいだよ。俺のことなんか見に来るの」

 クジャクの金網を覗き込みながら、樹がつぶやいた。今はジャージの上からウインドブレーカーを羽織っている。

「さっきのあれ、何の大会?」

「外部のテニススクールの大会。部活の奴らには秘密で入ってるんだ、俺」

 道理でクラスメートが見に来ないはずだ。柚も樹の脇にしゃがんで、オスのクジャクを見つめた。いったい樹や柚を何だと思ったのか、クジャクは綺麗な羽根をいっぱいに広げてアピールをし始めた。

 展示の案内すらない、閑散とした動物園。なぜか背後には蒸気機関車まで設置されている。変な公園だろと、にこりともせずに樹が言った。

「来たの、十一時くらいだったよな。コートからずっと見えてた」

 柚は自分の服に目を落とした。白のトレーナーにカーキーグリーンのショートパンツと黒タイツ、その上から暗い赤のダッフルコート。無難といえば無難だけれど、華やかさでもかわいさでもクジャクに負けている気がして、なんだか悲しい。つい昨日の梢の言葉を思い返しながら、ごめんね、と返した。

「遅刻する気はなかったんだけど、おばあちゃんの代わりに家事を手伝ってたら、メールを見た時には時間になってて」

「代わりって、何かあったのか」

「昨日の夜に階段から落ちちゃったの。だから、無理させちゃいけないなって思って、手伝ってた」

 クジャクを眺める樹の顔に、暗い影が差した。「悪いことしたな。大変な時に呼びつけちゃって」

 そんなこと、ない。こうして呼んでもらっただけでも嬉しいのに──。柚は目を伏せた。呼応するようにクジャクが羽根を閉じ、飽きたようにぷいと尻を向けて歩いていく。

 何でもいいから、言葉をかけてあげたくて。

「……ラケットを握ってる時の宮沢くん、なんか、かっこよかった」

 少し悩んでから、そう口にした。樹の視線が自分に向くのを感じた。

 樹のことを考えるだけで顔が熱を帯びるほどだったのに、いざ、こうして対面してみると冷静になっていられている柚がいる。柚は金網を握りしめた。

「遅刻はしちゃったけど、宮沢くんが頑張ってる姿はちゃんと見られたよ。だから、遠慮なんてしないで。またこうやって呼んでくれたら嬉しいな」

 私なんかの応援でも、宮沢くんの支えになれるのなら──。そんな想いを込めて隣の樹を見上げてみる。普段会っている時ですら、自分からは一向に話しかけてきてくれなかった樹が、こうして観戦に呼んでくれたのだ。だから、この胸の奥で鳴る鼓動の高まりは、きっと本物なのだと思った。

 樹はしばらく黙っていた。

 が、やがてその手が肩掛けのバッグに伸びて、何かを取り出した。

「……なんていうか」

 樹らしからぬ控え目な声に、柚は思わず(まばた)きをした。樹は二冊の本を柚に差し伸べていた。

「違えんだよ。メールに書いた『見せたい物』って、試合のことじゃない。……こっちなんだ」

 表紙に視線が引き寄せられる。一冊は『時房日録(じぼうにちろく)』、もう一冊は『武相叢書(むそうそうしょ)』とある。

 予想もしていなかった展開に、柚は何を口にすればいいのか分からなくなってしまった。ともかく本を受け取る。膝にずしりと冷えた重さがのしかかる。

「あれから個人的に調べてたら、『時房日録』に来栖家のことが書いてあるのを知ったんだ。んで、そっちの『武相叢書』には、当時の室町幕府が使者(つかい)に持たせた手紙を集めた『足利将軍御内書留』ってのが収録されてるんだけど、調べたらそこにも来栖の名前があるらしい」

 樹は終始、柚ではなくクジャクを睨みながら説明してみせた。

 柚の知らない間に、秘かに樹は調査を続行してくれていたのである。柚は樹の横顔を見つめた。いつも通りの樹の仏頂面が、今日は照れ隠しのように見えた。

「すごい……。どこにあったの、これ」

「ここの公園のすぐ北に市民図書館があるだろ。一昨日の夜に探り当ててたから、とりあえず予約を入れて、お前にあのメッセージ送って、んで試合の始まる前に立ち寄って借りてきた。……あのまま諦めっぱなしにするの、ムカつくから嫌だったんだよ、俺」

 何とも言えず樹らしい理由に、柚は安堵した。あるいは配慮かもしれないと思った。『お前のために調べた』なんて言ったら、柚が萎縮してしまうかもしれないからと。樹なら、やりかねない。

 それからと付け加えた樹が、不意に柚の方を向いた。必要を感じて立ち上がった柚は、樹とまともに目が合って、とっさに視線を逸らしてしまいそうになった。

 しかし樹の発言の方が早かった。

「……その、お前こないだ、俺に向かって『好き』とか、言っただろ」

 尋問するような口調で樹が言い、柚の全身を電流が駆け抜けた。まさか、このタイミングでその話題に移られるだなんて。熱を帯びた顔が耐え切れなくなって、下を向いてしまう。

「う、うん……。言った……けど」

 樹の口調からも勢いが消えた。

「……あれから、俺、色々考えたんだけどさ。やっぱ、意味が分かんなくてさ……。俺の何がそんなにいいのか、全然、分かんないんだよ」

「……そっ、か」

 柚には、それしか言えなかった。自分は今どんな表情をしているだろう。恥じらっているような、寂しがっているような、あるいは無表情のような気もする。でも、と樹が言葉を()いだ。

「何て言うか……。だからって断るっていうのも、筋が違う気がして」

 ついに音を上げたのか、うつむいて。

「だから、お前に勘違いさせた責任、取るよ。まだ俺に好意とか持ってんなら、責任持って、彼氏になる」

 樹は表情を見せてくれないまま、最後だけはきっぱりと言い切った。何を言われたのかを理解して、沈みかけていた心の殻にひびが入るまでに、少しの時間が必要だった。


 柚の告白は、受け入れられようとしている。

 そんな、私だってまだ、この想いが本当に恋なのかどうか分かんないのに──。柚は焦って叫びかけた。だいたい『勘違いさせた責任を取って彼氏になる』とは何だ、めちゃくちゃだ。

 だが、胸の奥でじんと膨らんだ痛いほどの温もりを前に、返す言葉をなくしてしまった。二人の間に横たわる沈黙の静けさとは、およそ対照的だった。

 眼下で向かい合う二組の靴すら、今は切ない感情を下から上へ煽ろうとする。勘違いなんて決めつけないでほしい、と思った。樹の良いところもダメなところも見て、知って、その上で『好きだよ』なんて口を滑らせたのならば、それはきっと勘違いではない。ほんの一瞬であろうとも『事実』だったのだ。

 だとしたら。

(これで、いいのかな)

 柚は唇を固く結んだ。痛みの分だけ冷静になった思考が、すぐにその問に答えを出した。

(いいんだよ……ね)

 いいに決まっていると思った。柚があの日、想いのカタチを『好き』と表現したことは、決して間違ってなどいなかった。そうでなければ今、柚の心のうちを嬉しさが占めるはずがない。

 同じ課題を目の前にするだけの仲間ではなくて、心を通わせられる大切な人になってもらえる道の(ひら)けたのが、こんなに嬉しいはずがない。

「……なんか反応しろよな。その、何て言うか、恥ずかしいだろ」

 ぼそりと樹が文句を言った。私だって恥ずかしいのにとはとても言えなくて、柚は代わりに小声で答えた。

「……ありがとう」

「……そんだけかよ」

「……うん」

 その一言に、今の気持ちのすべてがこもっているから。

 ようやく顔を上げた。見たことがないほど紅潮している樹と、寝込んでしまいたくなるほどの温もりに包まれた柚と。それからもしばらく沈黙したまま、隣り合って立っていた。

 立ち尽くす二人の中学生の姿を、クジャクが物珍しそうに眺めていた。







「……だからって、諦めたりするもんか」


▶▶▶次回 『二十五 掘り出された歴史』

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