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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
参 アクセプト・プレイア
26/69

二十二 “普通”の形



 重たい両開きの扉が、今日も立ちはだかっている。さながら外界を途絶する壁同然のそれを、見上げて。

「…………」

 大袈裟なんだよ、こんなの──。誰にも言うことのない愚痴をこぼし、樹は家の敷地の扉を開けた。

 この扉の内側に広がる大きな屋敷こそ、樹の実家、宮沢家の建物であった。駐車場に自動車の姿がない。また今日も、出掛けているのか。濡れた地面を踏み締めながら足早に通り過ぎると、家の裏手をゆく青梅線の走行音が鈍く空気を揺らし始めた。

 軒下で傘を畳んで、家のドアに手をかける。今日は朝に家を出て以来、ほとんど一度も言葉を発しなかったことを思い出して、わざと力を込めてドアを開けた。

「お帰りなさいませ」

 女性の声がした。ちょうど廊下を歩いていて、樹の帰宅に気付いたらしい。靴を脱ぐ樹のところへやって来て、彼女は軽くお辞儀をした。

「ただいま。朝日さん」

 樹は小さな声で答えた。誰とも話さない時間が続いていると、声の発し方も忘れてしまいそうになる時がある。

 エプロンを付けた女性──朝日(あさひ)(あけみ)は、この家の雇っている家政婦だ。樹が物心付いた頃からずっと、家を空けている時間の多い両親や祖父の代わりに、一通りの家事を引き受けてくれている。

(あいつら)は?」

「本日は夜遅くまで帰らないとのことですよ。樹さんのお帰りも、もう少し遅くなるのかと思っていました」

「……うん、ちょっと」

「図書室には行かれなかったんですか?」

 樹は答えなかった。というよりも、答えられなかった。代わりに脱いだ靴を靴箱に放り込んで、一段高い廊下に登った。

 柚と図書室で会う時のことは、『図書室で勉強』という表現でぼかすようにしている。別にぼかす理由もなかったのだが、それで不都合が生じたことは今のところ、ない。

 無言の樹を見て、彼女は少し、表情を和らげた。

「……残業があるとのことで、お祖父さまの帰りも遅くなるそうです。いつものお時間に夕食を用意しますね」

「……ありがとう」

「いえいえ。それと、明後日からしばらくの間、ご両親とも長期の『出張』に──」

「知るかって言ってたって伝えておいて」

 朝日の言葉を無理やり遮り、樹は短く答えた。それ以上、長く聞いていたくなかった。

 玄関にいても雨音がする。朝日の連絡事項も終わったようなので、カバンを手にして樹は自分の部屋を目指した。こんな巨大な屋敷の中に、いるのは自分と家政婦の二人だけ。いっそ廊下も土足で歩きたい気分だった。




 勉強、昼寝、勉強、テニス、勉強、試合、勉強。

 中学に入学してからの二年間の樹の生活を説明しようと思ったら、たったそれだけの言葉がありさえすればいい。

 遊んだ記憶などはない。テニスに関しては趣味だと思って取り組んでいるけれど、他の部員と関わり合いになったことなど一度もない。あとはせいぜい授業中に、昼下がりの穏やかな陽光の温もりの中で眠ること。それ以外の日常を占めているのは皆、勉強だった。

 小学校の頃のことは覚えていない。強いて言うならば、市外の有名私立中学を受験したいと願い出て、そんなムダな出費をする気はないと一蹴された記憶しかない。

 樹から勉強を取り除いたら、いったい何が残るだろう。そんなことは考えたこともなかった。考えたいと思えるほど楽しい日々なんて、あまりに長い間、無縁だったから。


 勉強机にカバンを置いた樹は、引いた椅子に深々と腰掛けた。

 視界に入るのは参考書やワークやドリルばかり。いい加減、見飽きて目がちかちかする。ここに永享記があった時など、あの古ぼけてみすぼらしい装丁がかえって賑やかしに思えたほどだ。

(……今は中神のところにあるんだったよな、あれ)

 貸し借りの履歴を思い起こしつつ、樹は机に頬杖をついた。

 難しい本を読み進める快感は、どんなに頑張っても勉強では得られない。ついつい、深夜まで読み耽って、柚のために逐語訳や要約まで書き下ろして──。

「…………」

 その時、むず痒いような感覚が身体の中を走り抜けて。樹はほとんど反射的に頬杖を倒して腕枕にして、そこへ顔を埋めていた。

 久しぶりに覚えた、楽しさ。

 自力で何かを読み解く楽しさ。

 まともな会話を交わす、心地よさ。

 どうしても忘れられない。忘れなくても勉強に励むことはできるけれど、ほんの一瞬、無性に溺れたくなってしまう。昔はこんなことはなかった。日常の中に楽しさなんてなかったし、楽しさを探し出す必要もなかった。

 それもこれも柚のせいだ、と思った。柚がやたらと話し掛けてきたから。売った喧嘩をわざわざ買おうとしたから。樹の頭を当てにして、変に頼ろうとするから。あまつさえ──『好き』だなんて。


(あのバカ。何が『好き』だよ)

 樹はブレザーの袖の香りの中で、ため息をついた。

(どこをどう見たら『好き』なんて言えるんだよ。マジで意味、分かんねぇよ)

 クラスの嫌われ者の自覚くらい、樹にだってある。“協調性がない”ことくらい、誰よりも分かっている。そんな自分に、ただ『勉強ができる』という側面だけを見て近付いてきた柚が、いったい樹の何を知っているというのだろう。『好き』というなら理由を教えてほしい。そんなものがあるなら、面白いから聞いてみたかった。柚が姿を消した後、しばらく茫然と立ち尽くしながら考え続けたけれど、ついに理由のひとつも浮かぶことはなかった。

 春待桜の真相の解明が進展しなくなった時点で、さっさと柚を遠ざけてしまえばよかった。そうしてしまうべきだった。……昨日、梢と対立する柚を見て、真っ先にそう思った。

 あのまま柚がクラスの輪の中へ戻れなかったら、それはきっと自分のせいなのだろうと思った。

 なんだか悪いことをした。気付いたら夢中になって読解に取り組んでしまっていた自分にも、思えば(とが)があったのかもしれない。

 こんな気持ちは初めてだった。おかげでちっとも、目の前に積み上がった勉強に取りかかる気が起こらない。柚は無事に梢と仲直りをしたというのに、この(もや)のような感情はいったい、何だろう。

(忘れたい────)

 樹は袖に顔を強く押し付けた。

 勉強しか知らなかった頃に、戻りたい。勉強では努力に裏切られない。スポーツだってそうだ。どんなにそれが好きだろうと嫌いだろうと、打ち込めば打ち込むほどに成果が現れる。それが勉強だと、樹は思う。

 優等生になることは容易(たやす)い。相応の勉強を積み重ねればいいからだ。秀才になることも容易い。ただ淡々と地道な努力を続ければいいからだ。クラスメートたちの言うところの『協調性』が欠如しているばっかりにちっとも上手くいかない人間関係なんかと比べれば、何倍も正直で、優しい世界だ。

 その優しさに甘えてきた対価として、今の自分が与えられている。樹の心の奥にはいつだって、そんな諦めにも似た気持ちが抱え込まれている。

 だからこそ、柚に好きと言われて──肯定の言葉を投げ掛けられて、あんなに動揺してしまったのだ。


(……もしも、俺があそこで『俺もだよ』って答えていたら、中神は本気で俺に心を寄せてくれたのかな)


 そんな疑問が胸を掠めて消えていった時、樹は顔を上げていた。

(心を寄せるって、相手の存在を認めるってことだよな。……あいつ、どのくらい本気で、ああいう風に叫んだんだろう)

 他人の心境を読み取るのは苦手だけれど、昨日と今日の柚の態度は明らかにそれまでと違っていたと思う。折り合いの悪かった頃と比べても格段に話しかけてこなくなったばかりか、まともに顔さえ見ようとしない。時折その横顔が紅潮しているようにさえ見えたのは、──いくらなんでも虫が良すぎるか。

 かく言う自分の頬も今、少し火照(ほて)っている自覚がある。外気との境目で体温の上昇を感じながら、樹は唇を軽く噛んだ。

(こんな俺でも、あいつの何かを惹き付けられるものを持っていたんだとしたら……。いつかは他のやつらにも、その価値を認めてもらえたりするのかな)

 だとしたらそれはとても、嬉しいと思える気がして。

 まさかねと笑い飛ばしたくなるのを抑えて、樹は日程表を見た。それからスマホを取り出してブラウザを開き、一昨日の夜の検索履歴が残っているのを確認する。きっかけは、ある。手土産も、用意できそうだ。もしも応じてくれなかったら、それはそれで構わない。

 今ならまだ間に合うかもしれない。放っておいても自分は孤独なままならば、いっそ挑戦してみようかと思ったのだ。

 柚と、自分で、どこまでやれるのか。

 柚は樹を好きだと言った。梢たちのようなクラスメートと違って、柚と樹の間に大きな確執はない。その上で本当に好意を向けてくれているのなら、それはつまり樹が自分の思いや気持ちを伝える時、邪魔をする壁がないのと同じ。

 それならば白黒はっきりさせられるはずだ。誰かとの関係を作って、保って、守る、そんな当たり前のことが樹にもできるのかどうか。願わくは、今の自分を少しくらい、変えられるかどうか。

 それに、あのまま無下に柚の言葉を断ち切るのも、やっぱりどこか気が咎めて。

(忘れてたなんて言わせないからな)

 スマホの画面を切って伏せ、樹は机の表を見つめた。ぴかぴかに磨きのかかったその表面には、スタンドライトの光を浴びて白く輝く顔の輪郭が映っていた。何だか歪んでいるように見えて、平手で頬をぺちんと叩きながら、思った。

(気の迷いだったんだとしても、『好き』って言ったのは事実なんだからな。逃げんなよな。……その代わり俺も、もう、逃げたりしないよ)

 深呼吸をひとつして、教科書を取り出す。これでいい。自分なりの気持ちの整理はつけられたはずだ、と思った。勉強に戻ろう──。

 教科書の表紙に引かれるようにして、樹の意識は少しずつ、目の前の問題へと戻っていく。



     ◆



 梅もまた、宮沢家のことを知っていた。

「地域のお祭りにもお金を出してるから、拝島で知らない人はいないんじゃないかしらねぇ」

 朗らかに言いながら、梅は日吉神社の榊祭(さかきまつり)の名前を挙げた。東京都の無形民俗文化財に登録されているお囃子が有名で、江戸時代から続く由緒正しいお祭りなのだという。

「しかし、あの宮沢さんのところの子と柚ちゃんがクラスメートとはねぇ……。その子の将来は、きっと安泰だね」

「でもあんまり、嬉しそうには見えなかったけどな……」

 樹の日頃の姿を思いながら柚がつぶやくと、梅は制服のほこりを払う手を止めて微笑んだものだ。

「そうかもしれないねぇ。未来が決まっているっていうのは、不自由なことだからね」

 樹が勉強を怠らないのは、その不自由を乗り越えたい願望の発露なのかもしれない。またひとつ、みんなの知らない樹の苦労に想像が及んだ気がして、柚は嬉しくなった。それから同時に、その樹にとって自分が邪魔な存在になってしまっていたら嫌だな、と思った。

(私が変なこと言っちゃったせいで、宮沢くん、やっぱり負担に感じちゃってるかな。今日も避けられてばっかりだったし)

 樹のことは応援してあげたいけれど、足枷(あしかせ)にはなりたくない。本当に恋心だったのかどうかにも自信が持てないし、今からでも告白を取り消すべきだったのだろうか。でも、なんだか自分に嘘をついているみたいで、気が進まない。

 宮沢家の邸宅は中学と同じ、青梅線沿いの松原町内にあるという。校長先生もここから通ってるんだよと言うと、梅は驚いた。「確かにあそこの校長先生も、宮沢先生だねぇ」

「秘密にしてって言われてるから、あんまり話さないでね?」

 話しませんよと梅は笑った。縁のないはずの校長の苗字をどうして知ってるんだろうと思ったものの、梅が再び楽しそうに制服の手入れに取り掛かり、柚は尋ねそびれてしまった。

 たぶん、回覧板か何かで目にしたのだろう。







「ごめんね……。ごめんねぇ、柚ちゃん……」


▶▶▶次回 『二十三 うわ言のように』

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